江戸時代にルーツを持ち、日本三大そうめんにも数えられる香川県小豆島の「小豆島そうめん」。その生産に欠かせない機械の販売・修理を担うのが、株式会社ヒラサカの3代目、今井浩之さん(40)です。そうめん業者の減少が続くなか、社長就任後はオリーブオイルの生産機械など新分野に進出し、売り上げを2倍に拡大。地域密着のメカニックとして、小豆島の食品産業を支えています。
小豆島そうめんの始まりは400年前
揖保乃糸で知られる兵庫県の「播州そうめん」、奈良県の「三輪そうめん」と並んで日本三大そうめんの一つとされる、小豆島そうめん。約400年前、小豆島の島民が奈良県の三輪(現在の桜井市)に立ち寄った際に、そうめんの製造技術を学び、島に持ち帰ったことがはじまりと言われています。
そうめんは冬の農閑期に家族の労力だけで生産できることから、あっという間に島内で広がりました。気候もそうめん作りに適しており、寒期に瀬戸内に吹き寄せる寒風がそうめんの天日干しに好都合でした。
創業時は船の機械を修理
小豆島のそうめん事業者が多い池田地区に工場を構えるヒラサカは、1970年に今井さんの母方の祖父が創業しました。創業時は船のエンジンの修理を請け負っていたそうです。次第にバブル景気が訪れ、そうめん産業が売り上げを伸ばしていきました。すると、島外からそうめん製造の機械メーカーがヒラサカに売り込みに来たのです。「島外から島にメンテナンスに来るのが大変なので、島内で請け負ってくれる業者を探している」というので、祖父が修理を請け負うことを決めました。
ヒラサカの機械はそうめん作りの一から十まですべてに関わっています。まずは、機械で小麦粉と食塩水を混ぜ生地を練り板状にする。次に、圧力をかける機械で太くのばした板状の生地を三つの棒状に分ける機械へ。さらにその生地を何本かねじり合わせて引き延ばし、細い麺状にします。
そして、乾燥させ19センチメートルほどの長さに切れば完成。生産上の都合でこれを1日で一気に行うのです。効率良く量産するためには、それぞれの機械が安定して働く必要があります。そのため、定期的な修理やメンテナンスが必須というわけです。長年、取引先の9割がそうめん事業者という状況が続いていました。
高専卒業後、大手はかりメーカーへ
自宅の1階に工場がある環境で育った今井さん。すでに中学生の頃には、工場で機械の分解を手伝っていたと言います。「好きでやっていたわけではないけど、日常的なことでした」。中学生の頃に家業を継ぐかどうか父に聞かれたことがありました。「継ぐんだったら、高専に行った方がいいと言われ、まだ継ぐ決意はしていないことを父には伝えて、とりあえず行っとくかぐらいの気持ちで高松にある高専に行ったんです」
高専を卒業後、家業と付き合いのあった取引先に声をかけられ就職。食品の計量包装などを手がける大手ハカリメーカーのメカニックとして勤めました。日本各地の食品業社への出張や、数十億円規模の大きな工事に携わることも多く、充実した日々を送っていたそうです。「日本国内や海外出張をしながら、この仕事をずっと続けれたらいいんやけどなと思っていました。渡りの職人のようなイメージです」
5年働いてから、家業を継ぐか決めようと考えていました。父からは家業を継いで欲しいと強く言われてはいませんでしたが、2005年に祖父が亡くなってから、大変そうだった父の姿を見て、継ぐ決意をしたそうです。当時、小豆島で機械修理を担う業者は少なかったため、自分が家業を存続させることで適切な競争が生まれたほうがお客さんにとってもいい、という意識も背中を押しました。
早朝から深夜まで対応
家業に入って気づいたことは、採算が合わない仕事が多かったこと。修理は歯車など小物の部品交換から、機械の動きを制御する部分の調整などさまざまで、単価は1500円から数十万円と幅があります。
また、そうめん事業者は最盛期の10~3月には午前3時から製造を始め、一日中機械を動かします。ひとつでも機械が途中で故障してしまうと、そうめんを作り上げることができません。そのため、今井さんはお客さんから依頼があれば、早朝から深夜まで、すぐに駆けつけられるように年中対応しています。一カ月あたりの案件数は、多いときで100件以上になりました。
こうした苦労がある中で、今井さんはどんなモチベーションでメカニックを続けているのか聞いてみました。
「基本的な考え方として、お客さんの生産第一で、自社の利益は追求してもあまり意味がないと思っています。結局は、生産者が利益をあげた一部が設備投資や修繕費に回ってくるので。お客さんの事業が長く続いていくこと、きちんと利益をあげていくこと。そのためにどんなことができるか。だから、採算が悪いなとか、朝早いなとかは思っても、苦ではない感じです。自分たちが思う最善を求めたらその形になっただけですね」
自分たちのもうけだけではなく、島全体が潤うことに気を配ります。
100軒以上ある顧客情報を暗記
小豆島特有の苦労もありました。「前職ではお客さんを会社名で覚えていれば良かったけれど、島では名前と場所と顔を覚えなければいけなかったことです」。小豆島では集落ごとに同じ姓を持つ人が今でも多く住んでいるため、同じ姓の人が5軒、10軒いるような状況だったのです。
「もともと人の顔や名前を覚えるのが得意じゃないんですけど、100軒以上覚えないといけなかったんです。○○さん家の機械にはそういえばあれを使っていたよな、とか。あの部品だったら、これがいるなということを覚えていくまでが大変」
苦労はありますが、突然電話で機械のトラブルについて相談があったときには、現場で機械を確認しなくても配置が頭に入っているので、お客さんに操作の指示ができると言います。
最初は何度も失敗しました。お客さんから連絡があり、工場まで駆けつけると「なんのこと?」と言われ、違う工場に訪問してしまっていたこともありました。「お客さんが優しかったので、『同じ名字だったら、こことかあそこじゃない?』と教えてくれました」
顧客の将来を見据えて提案
経営体力のない高齢のそうめん事業者には、新しい機械の購入を無理に勧めることはしません。今あるものをメンテナンスして長く使えるようにしたり、廃業したそうめん事業者から買い取った中古の機械を勧めたりすることもあります。
「ヒラサカのお客さんへの過去の対応として反省があるんです。高度経済成長の時代に島のそうめん事業者はすごくもうかっていました。なんでその時にもっと設備投資しなかったんだろうって。その当時は情報が少なく、仕方なかったんでしょうけど、ヒラサカが設備投資についていい提案ができていたら、今、小豆島のそうめん事業者がもっと大きくなっていたんじゃないかなって思うことがあるんです」
若い人たちには修理のタイミングで、自分たちが行っている仕事をよりよくすることができないか考えてほしいんです。最新の機械であれば、より効率よく作れたり掃除しやすかったりします。だから、なるべく今の若い世代には時期が来たら買い替えを勧めることにしています。
法人化をきっかけに事業承継へ
家業に戻って3年がたったころ、個人事業としてやっていたヒラサカの法人化を考え始めます。当時、経営状況は悪くなかったものの、このままいけば先細りすることに危機感を感じていました。夏のお中元市場が小さくなったことや、作り手の高齢化や後継者不足などを理由に廃業するそうめん事業者が増えていたのです。昭和末期に250社以上あったそうめん事業者は、現在は約100社になりました。そうめんの機械修理をてがける同業社も、かつては島内に6社ありましたが、今ではヒラサカを含め2社だけになりました。
そうめんだけではなく、事業を広げていかなければいけないと思った今井さんは、経理を担当していた母に法人化を持ちかけました。母は法人化に反対で口論が絶えませんでしたが、最終的には、母が今井さんの押しに負けて、法人化することが決まりました。父からは「いいタイミングだから、もう、お前でええよ」と言われ、代表を交代しました。
口コミで島から全国へ
法人化をしたものの、販路開拓のための営業をする時間はなかなかとれませんでした。そんな中、頼んだわけでもなく前の職場の人や、顧客である小豆島のそうめん事業者などが紹介してくれるようになったと言います。前の職場からは、小豆島にゆかりのあるごま油のメーカーや佃煮会社に機械を販売することになったため「間に入ってくれないか」と相談を持ちかけられました。
また、オリーブ会社で働いていた知人からもオリーブオイルの搾油機を見て欲しいと声をかけられたことがきっかけで、全国のオリーブ農家の元へも出向くようになりました。
それまで、売り上げの大部分をそうめん事業者に頼っていたヒラサカ。しかし醤油、佃煮、オリーブ事業者へと顧客を広げていったことで、売り上げ構成比の1割ほどしかなかったそうめん以外の産業を、3割ほどまで増やしました。他分野の案件ならそうめん作りのオフシーズンに対応できるため、人手を増やさず売り上げを伸ばすことが可能に。今井さんが家業に入ってから約10年で、売り上げは2倍に増えました。
難しそうでも断らない
たまたま自然と事業が広がっていったという今井さん。そうは言っても、なにか心がけていたことがあったのでしょうか。
「難しそうなこと、できなそうな仕事でも、断らなかったからということはあるかもしれません。やったことはないけど、やったら面白いかもしれないこととか、ちょっとでもできそうなことだったら、やってみようと引き受けていました」
メーカーのサポートが終了した古い機械では、必要な部品を調達できないことがあります。そんなときはヒラサカ で保管してきた古い部品の在庫を使ったり、ときには材料を加工して代替品を作ってしまったりすることもあるのだとか。
修理を頼まれたものの難しくて断ってしまった場合も、のちに修理方法を調べて、次に同じようなことを頼まれた時のために備えます。
「すぐに仕事にならなくても、ちょっとずつ、ちょっとずつ、知識を蓄えていっておくことが役に立つんです」
こうした仕事の積み重ねが評判を呼び、新たな事業を引き寄せたと言えそうです。
コロナ禍で見据える島の未来
コロナ禍による世界的な物流の混乱で、機械や部品の輸送が滞る事態に。「機械の納品が半年先くらいになっています。今はなんとかなっているけど、そのうち売り上げに響くと思います」
さらに、コロナ禍で小豆島の抱えている課題がより浮き彫りになったと今井さんは言います。
「今、コロナでものが売れていなくて食品業界が大変と言われていますが、本当はそうじゃなくて、そもそも地方の労働力が激減しているので、工場の稼働が目標値を達成できないんです」
基本的に食品会社は労働集約型産業です。そこに、コロナ禍によりテレワークがどんどん進み始め、自宅でもできる仕事が増えてきました。
「例えば、小豆島に住んでいてもテレワークで東京の仕事ができる。そういう仕事をやってみたい人がいっぱい増えて、工場で働こうと思う人がそもそも減ってる。今の地方の産業が持つこういう悩みを最近すごく感じています」
今まで小豆島ではそこにあまり問題意識を持たれてきませんでした。
「今までは、こういう機械を導入すれば『もっと早くたくさん作れますよ』とか『クレームが減りますよ』と商品の量産や品質向上につながるような設備投資の提案をしてきました。でも、これからの時代は多分それだけじゃだめだと思うんです。この会社なら働いてみたいと思われる設備投資が必要になってくるんじゃないかと。例えば、設備投資することによって、製造コストを変えずに従業員の労働環境が良くなるとか、地域社会から愛される会社になれるとか。おこがましいですが、これから労働環境の改善についても設備面からアドバイスできるようになりたいと思っています」
顧客に長く事業を続けてもらうことが大事だと今井さんは語ります。顧客の悩みを解消し続けていれば、ヒラサカ として事業をずっと続けていけるのではないかと。
地元でコツコツと問題を解決し、しっかり信頼関係を築いていくことで、全国で求められるメカニックとなった今井さん。小豆島の伝統産業にたずさわる製造者に寄り添い、支えながら、自らも進んでいきます。