チャンピオンへの贈り物│ジョン・サーティースの愛車 BMW 507
このBMW507はある特別な男にとって特別な意味を持つ。これは1957年にジョン・サーティースに贈られたもので、それ以来ずっと彼が大切にしてきた車なのである。
「もちろんレーシングカーではないけれど、とても素晴らしい車だった。1950年代の末、ここからイタリアへひとっ走りして、また戻って来るという行程を平均70mph(約112km/h)以上でこなすことができた。ミラノのマルペンサ空港近くのガララーテを朝出発して、午後にはブロムリーに着いていた。燃費もガロン当たり20マイル(≒7.2km/リッター)は走ったよ!」
サー・ジョン・サーティースは、新車からずっと大切にしているBMW507をこう振り返った。この車はある種のプレゼントだった。贈り主はMVアグスタのアグスタ伯爵その人、ジョンが1956年に500ccの世界タイトルを獲得した後に贈られたものだ。彼はその後さらに3年連続して350/500cc両方の世界チャンピオンとなり(1958~60年)、1964年にはフェラーリに乗ってF1グランプリでもタイトルを勝ち取った。つまり、彼はいまだにモーターサイクルとF1グランプリの両方で世界チャンピオンになった唯一の男であり、このBMWはその彼の全盛期を象徴する車なのである。
「私がアグスタでタイトルを勝ち取った後、アグスタ伯爵はちょっと後ろめたかったのだと思う。というのも、125ccに乗っていたウッビアリのほうが私よりギャラが高かったからだよ」とジョンは語る。「しかし、感謝の印として何か贈りたいと訊ねられて、私が507のことを言ったら、彼はぎょっと息を飲んだようだった。結局、半分ずつ出し合うことで話がついたんだ」
ジョンがBMWを選んだのは思いつきや気まぐれではない。第二次大戦中、クロイドンからヨークシャーに疎開した頃から彼はBMWのファンだった。その際に父親が持たせてくれた雑誌の山がジョン少年の想像力をかき立てた。「その中にBMWのワークスライダーのジョージ・マイヤーの写真があった。マン島TTで優勝し、255コンプレッサーのフットレストに立ち上がっている写真で、大のお気に入りだった。ずっと後になって実際にそのバイクを買ったぐらいだからね」
もし運命の歯車が少しでも違っていたら、ジョンはBMWのワークスライダーになっていたかもしれなかった。
「1955年のドイツGPの際に、乗ってみてくれないかと頼まれたことがある。ニュルブルクリングで2輪車と4輪車の開発を担当していたアレックス・フォン・ファルケンハウゼンは、BMWチームの一員としてレースに出場させたがっていたが、お偉方がワークスバイクは一台しか認めず、しかも彼らにはワルター・ゼラーというエースライダーがいた。もっとも翌1956年に私は世界チャンピオンになり、ゼラーは2位だったから、彼らにとっては悔しかっただろうね」
ただしジョンはその後もファルケンハウゼンとは親しい間柄で、ホッケンハイムでの1957年ドイツGPで二人が会った際に、アレックスは自分が乗って来た507に乗ってみるようジョンに勧めた。ジョンは大いに気に入ったが、BMWは既に多数のバックオーダーを抱えていた。そこでアレックスはプレス・オフィサーのカール・ホプナーの助けを借りるようジョンに言ったという。
1957年7月、BMWからジョンに手紙が届いた。「8月中旬にはリムーバブルトップ付き、メタリック・グレーの507の準備が整います。有名なチャンピオンに我々の新型車を乗って貰えることは非常に喜ばしいことです…」
ジョンはミュンヘンへ出かけて車を受け取り、その足でガララーテのMVアグスタ本社へ向かった。しかし、走り出すとすぐに彼の新しいBMWはファルケンハウゼンの車とは違って"パンチ" がないことに気づいた。アレックスの507は若干手が加えられていたのだ。
「ノーマルエンジンはおよそ150bhp、アレックスの車は170bhpぐらいまでパワーアップされていた。そこで私は、彼の車と同じように、ゼニス32キャブを36に変えて圧縮比を上げ、ヘッドとバルブタイミングをチューンしてくれるように依頼したんだ」
「507で英国から色々な場所へ出かけていたせいか、結局BMWの開発を手伝うことになった。当時、彼らはATEと協力関係にあり、そのATEはダンロップと一緒に開発を行っていた。ファルケンハウゼンが私をその開発計画に引き入れたんだ。私はバーミンガムにあるダンロップに507を持ち込み、4輪ディスクブレーキを装着してもらった。フロントだけでなくリアにもディスクブレーキを持つ507はこれ一台だけだったはずだ」
「もうひとつ試したモディファイは、パワーアップしたエンジンを活かすべく高いファイナルギアを組み込んだことだ。そのおかげで最高速は伸びたが、スタンダードのほうが、特に交通量が多い時には扱いやすかった。それで結局標準型に戻してしまった」
英国とイタリア、ドイツの間を旅する手段として、ジョンはいつも507を選んだという。「ガララーテからはシンプロン・トンネルを通ってスイスに入り、ジュラ山脈を抜けてフランスへ向かった。時には車の点検を受けるために、ブレンナー峠を越えてオーストリア経由でミュンヘンに走ったものだ。海峡に着くと、シルバーシティ・エアウェイズに車を積み込んでケント州のリド空港までひとっ飛び、そこからブロムリーまでは目と鼻の先、まったく最高の旅だった!」
「メカニカルトラブルは覚えがない。災難といえば、一度、ガララーテに泊まっている時に誰かが車を壊して盗もうとしたことぐらいだ。ただし、非常に暑い時にはちょっと注意しなければならない。渋滞に捕まると燃料がヴェイパーロックで詰まることがあるからだ。そんな時は一度止まってクールダウンする必要があった。といってもあの頃は事故でもなければ、そんなに酷い渋滞はなかった」
「あの頃は、市街地を除けばスピードリミットもなかった! 他に走っている車も少ないから何時間も100mph以上をキープすることができた。一度非常に怖い思いをしたことがある。チームメイトのジョン・ハートレイと一緒にスウェーデンを走っていた時のことだ。アップダウンはあるが真っ直ぐで、その脇には電柱が延々と続いているような道を走っていた時、電柱は真っ直ぐ続いていたのに、起伏の頂点の向こうで道が急に左に曲がっていた…。その後ジョンはあまり私の車に乗らなくなったんだ!」
「507は素晴らしくバランスの取れた車で、ある程度までは寛容なんだ。たとえばメルセデス300SLとは違う。300SLは507よりも性能を突き詰めた車で、速く走る場合は十分に注意しなければならなかった。実際に507を手に入れる前に300SLに乗っていたことがあるが、母親の主治医と一緒に乗っていた時に雨が降り出して、滑りながら走る羽目になったことがある。ドクターはとても怖かったらしく、そのことを母に伝えたせいで母親も300SLを怖がるようになってしまった。507はそれとは対照的に扱いやすい車だ。ハンドリングはひと言で言うとニュートラル、どのように運転するかに応じて、軽いアンダーステアにもオーバーステアにも自在に持っていくことができた。レースカーではなかったけれど、その経験のおかげで、1958年にアストンマーティンDBR1で初めてのレースに出た時、まごつかなくて済んだのではないかと思う」
1960年にジョンはロータスでF1にデビュー、62~63年シーズンはレジ・パーネルのヨーマン・クレジットF1チームに加入、そして63年にはフェラーリに移籍する。エンツォ・フェラーリがジョンのBMWを横目で睨んだのは当然である。
「御大はこう言った。〝なんとドイツの車か。ドイツ車に乗ってはいかん〞と。それで507は英国に置きっぱなしになった。父の友人が時々走らせてくれていたが、私の手を離れたのはその時ぐらいだ」
1981年にオリジナルのシルバーに塗り直したこと以外は、ジョンの車は一度もレストアされたことがない。インテリアはまったく手が加えられず、7万マイルを経た今でも新車のようだ。しかも、最近はあまり走らせていないというが、いつでも走り出せる状態に保たれている。実際にジョンは一発でエンジンをかけ、ガレージから走り出した。
そのサウンドは素晴らしいのひと言だった。アイドリングではV8の力強くリズミカルなビートを刻み、ジョンがスロットルをわずかに開けると、滑らかに豊かな唸りへと変化していく。507に乗ったジョンとカメラマンのチャーリーについて走るには、チャーリーのサーブ・ターボに必死に鞭を入れなければならなかった。BMWはいつの時代も高性能だったのである。
ジョンは507の他にも二台のクラシックBMW、503コンバーチブルと3200CSを持っている。さらにメルセデス300SLガルウィングも持っているが、彼が所有したすべての車の中でやはり507が一番のお気に入りなのだろうか?
「残念なことに、モーターサイクルをはじめとして、一度は自分の物にしながら手放さざるを得なかったものはたくさんある。私は自分の家を見て、その修理の跡を見て、当時を思い出すんだ。門から続くドライブウェイはフェラーリの頃、あの屋根はホンダF1という具合にね。だがこのBMW507は、私が初めて世界チャンピオンになった頃に手に入れ、その後の人生を一緒に送って来たんだ。だからね、これからもずっと特別な車なのさ」