1939年の第16回ルマンでは、2台出場したラゴンダは総合3位と4位に入り、クラス優勝と2位入賞を果たした。トニー・ドロンがこの歴史的なルマン出場車に試乗した。
1939年ルマンで好成績を収めたラゴンダは、進歩的なV12ロードカーをベースに驚異的なスピードで製作され、充分なテストを行なわないまま24時間レース当日を迎えた。
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もし、1939年の経験を生かし、その後も入念に開発が続けられていれば、ラゴンダV12は1940年ルマンを制覇していたかもしれない。だが、第二次大戦前の勃発によってルマンは、1949年まで10年間にわたって中止となり、その機会は永久に消滅した。
このラゴンダV12ルマンカーは、ロールス・ロイスを辞してラゴンダの技術ディレクターを務めていたウォルター・オーウェン・ベントレーの監督下で製作された。
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1930年代前半、当時、26歳のセルスドン伯爵(ピーター=ミッチェル・トンプソン)は、ブルックランズのアマチュアレースにたびたび出走していた。若くして財産を相続したセルスドンは、友人でラゴンダ・エンスージャストのウィリアム・ウォーロン卿(34歳)の提案により、ルマンへ出場するラゴンダへ投資することになった。すでにラゴンダではV12ワークスカーの製作に着手しており、セルスドン卿が資金を持ち込んだことで、彼のための同じ車をもう1台造ることになった。1台は、チャールズ・ブラッケンベリーとアーサー・ドブソンのプロドライバーが乗ったが、本稿の主人公であるカーナンバー5には、セルスドン卿とウォーロン卿のふたりの貴族ドライバーが乗ることになった。
ウォーロン卿はヨーロッパ大陸でレースをしたことはなかったが、セルスドンよりレース経験は豊かで、1937年オーストラリアGPではMG K3をドライブしたことがあり、また、ラリーではラゴンダV12によく乗っていた。彼らは、真剣にレースに取り組む青年たちであったから、W.O.はしっかりとレクチャーし、セルスドンも忠実に教えに従った。W.O.ベントレーは、1924年に初優勝して以来、1927年から1930年にチームを4連勝させたルマンの成功者であり、W.O.の言葉には千金の重みがあったのだ。
レース直前、スカーレットの洒落たオーバーオールに身を包んだセルスドン卿は、ルマンのスタートに向けて準備万端であった。1939年の『The Autocar』誌によれば、彼は「まるでスプリンターのように、スタート地点にクラウチングスタートで構え……」、シャルル・ファルーが旗を振り下ろす時を待っていたという。
フランス国旗が振り下ろされると、まずドブソンがドライブするグリーンのラゴンダが突進し、先行したウィミーユのブガッティに追いつくと、一気に抜き去った(訳注:優勝は、このブガッティT57タンクのウィミーユ/ヴェイロン組であった)。
1周目を終えた時点でも、ブガッティには先行されたものの、ドブソンはルイジ・キネッティの4.5ℓリッタールボ・ラーゴを追って2位につけており、セルスドン卿のラゴンダも17位に位置していた。ラゴンダ勢はフランス車同士によるスプリントレース並の戦いを尻目に、W.O.ベントレーが定めたラップタイムを目標に走行を続けた。
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ラゴンダはユーノディエールのストレートではかなり速かった。おそらく、ドライバーたちはW.O.から、5500rpmを超えてはならないと厳命されていたはずだ。ラゴンダ・クラブでアーカイヴを担当する作家のアーノルド・デイビーによれば、4.09:1のファイナルギアを組み合わせ、トップギアで5500rpmまで回したなら、計算上は128mph(約206km/h)に達するはずという。
レース直後に発行された『The Autocar』1939年6月23日号では、ジョン・ダグデールが「2台の違いはほとんどなく、セルスドン車が若干速いとされていたくらいで、2 台とも125mph以上は出していない」と記している。
W.O.は勝利を掴む最速かつ安全なペースを計算したが、それは1938年ルマンの優勝車の平均速度よりわずか1mph(1.6km/h)速いものだった。2台のラゴンダとも完走という最大の目標を見失わずにレースを進めていった。ドブソンは徐々にセルスドンを引き離していき、2時間を経過したあたりで、セルスドン卿は主催者から「高速で抜いていくフランス車のために道をあけてほしい」と丁重にいわれるペースで周回を重ねた。彼の平均ラップタイムはドブソンより34秒遅く、より経験豊かなウォーロン卿は指示通りのタイムを維持し、ドブソンたちの速いペースにも追従していくこともできた。
レースは前年より速いペースで進み、ドブソン/ブラッケンベリー組が12時間経過した時点で6位につけ、2台目のラゴンダに対して3ラップほど先行していた。日曜日の朝、ドブソン/ブラッケンベリー組がクラッチの修理で3ラップを失ったものの、3229.451km(平均速度135.560km/h)を走って総合3位でゴールし、セルスドン/ウォーロンは3219.480kmを走って4位で入賞した。これでラゴンダ・チームは5リッタークラスで1位と2位を得た。
セルスドン卿はその後、戦後初の1949年ルマンでルイジ・キネッティと組んでフェラーリ166MMに乗り(キネッティがほとんど運転したが)、3178.379km(平均速度132.420km/h)で優勝している。これはフェラーリにとって初めてのルマン勝利になったが、1939年のセルスドンのラゴンダよりも4周少ない走行距離であった。
この好成績を告げるラゴンダの広告は「イギリスレース界の地位を大きく向上した、ここ数年での最高のできごと」と謳った。ラゴンダのル・マン初勝利は1935年のことで、直列6気筒エンジンを搭載したラゴンダ・ラピードM45(フォックス/ニコル組)が3006.797kmを走破した。
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1935年のル・マン初勝利の週末、経営難から管財人の管理下に置かれていたラコンダは、その翌日に富豪のアラン・グッドによって救済された。 W.O.ベントレーの指揮監督によって完成したラゴンダV12は、1930年代を代表する素晴らしい1台であった。当時のイギリスでは、V12エンジンを手掛けていたのは、ロールス・ロイスとラゴンダだけであった。
面白いことに、主要なエンジニアの何名かは両社で働いた経験を持っていた。それはW.O.がロールス・ロイスからラゴンダへ移籍する際に、元の同僚を何名か引き抜いたことが理由のひとつだ。なかでもスチュワート・トレシリアンは新しいラゴンダのエンジンの詳細に携わり、高回転が可能なようにストロークの短いレイアウトを採用した。RRファンタムⅢとラゴンダの各V12エンジンのボアとストロークを比較すると、RRが82.5×114.3mmの7320ccであるのに対して、ラゴンダは75×84.5mmの4480ccであった。
トレシリアンはシリンダーブロックとクランクケースはアルミ製にすることを望んだが、W.O.は静粛性と生産性の向上に寄与するとして鋳鉄製を選んだ。V12の場合には、メインベアリングを7個とすることもできるが、トレシリアンは4ベアリングを選択し、各スローに3個のバランスウェイトを備えた。コネクティングロッドはW.O.の担当で、軽量で強靱なジュラルミン製を採用し、クランクシャフトはニトラ合金鋼製とした。動弁系はSOHCで、吸気系は4個のダウンドラウトSUキャブレターを備え、台上試験では5000rpmで156.5bhpを記録した。4段ギアボックス(3~4段はシンクロメッシュ)には静粛なスパイラルヘリカルギアを用いたが、これはW.O.がロールス・ロイスから呼び寄せた、ベントレー時代からのスタッフであるチャールズ・シーウェルが設計した。また、4輪ドラムブレーキはロッキード製の油圧であった。
1939年ルマンまで6カ月しか時間が残されていないにもかかわらず、アラン・グッドはW.O.に2台のV12コンペティションカーの製作を提案し、ベントレーを驚かせ、怒らせもした。ふたりは協議を重ね、1939年は完走を目指し、1940年は優勝を狙うという計画で合意し、生産モデルをベースに数ヶ月間でルマンカーを完成させた。
シャシーには重量軽減口が開けられ、そこには薄いアルミ製のカバーを填め込んだ。またリアのスプリングは柔らかめのレートのものとなり、フロントアクスルは軽量化のために新造した。
市販型V12は、ボディ架装前のシャシー重量が1473kgだが、ルマン仕様は軽量のアルミボディを架装して1346kgに仕上がった。
ルマン後にブルックランズのレースに出場した際には、より頑丈なボディと交換され、ルマンでは必須のワイヤメッシュのウィンドスクリーンを外してあった。また、バンク対策として、リアスプリングのマウントはシャシーサイドに移った。ブルックランズのアウターサーキットでは、ブラッケンベリーとセルスドンが、第1レースの3周トライアルで1位と2位になり、セルスドンは最速ラップで128.03mph(197.6km/h)を記録、第2レースは放棄した。ラゴンダ・クラブの調査によると、この2台は合計12種のボディを架装したことがわかっている。
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ルマン用エンジンは、圧縮比を8.5:1に高め、ハリー・ウェスレイクのアドバイスに従って小径のバルブを備え、ダウンドラウトSUキャブレターを大型化するなどによって、パワーは206bhp/5500rpmでまで高められた。また、ラジエターはヘッダータンクを拡大し、同時に高さを詰めている。ギアボックスは軽量ケースを用いた特製品で、ストレートカットの1速と、2速のギアレシオが引き上げられていた。
第二次大戦中、保管場所の近くにドイツ軍のV1爆弾が落下し、2台とも大きな損傷を受けたが、チャールズ・ブラッケンベリーが救いだし、2台とも現存している。セルスドンが乗ったカーナンバー5はアメリカに渡り、インディ500出場に向けて準備されていた。だが、レースを前にしてトラックに追突され、その後、クライスラー・ファイアーパワー・エンジンに換装されるなど、数奇な運命を辿った。1970年代になって、北米のラゴンダ・エンスージャストによって救い出されレストアされた。そして、2012年6月にボナムズがグッドウッド・リバイバルで開催したオークションに掛ける際に、私が試乗したのである。
現在のオーナーは、オリジナルパーツを集める努力を惜しまず、ルマン用V12エンジンとギアボックスはアメリカから買い戻し済みだ。現在搭載されているエンジンは、ロードカー用エンジンをベースに4個の大径SUキャブレターを備えた暫定ユニットで、ギアボックスもラゴンダ・ロードカーのものだ。
走り出した第一印象は、ヴィンテージカーだという感覚をまったく受けないことだ。エンジンは高回転まで回ることを好むが、その一方で低回転でも扱いやすい。2速以上にシンクロメッシュを備えたギアボックスの感触も素晴らしく、1960年代の実用車並の気軽さで扱うことができる。荒れた舗装路面での乗り心地も快適で、ロードホールディングも優れている。
速度計の備えがないので回転計から想像するしか手だてがないが、160km/hは瞬く間に到達する。コックピットは快適で、ペダル配置も適切なのでセンタースロットルにもかかわらずヒール・アンド・トウも容易であった。
歴史的に重要なルマンカーであり、別に保存されているオリジナルのレースエンジンとボックスに戻すには大きな投資が必要だろうか、その価値は充分に見いだせるであろう。