「文豪」というと皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
いつも気難しそうな顔をしてて、メガネかけてヒゲなんか生やしてて、伊豆あたりの温泉旅館の一室で吸い殻山盛りの灰皿を脇目に、難しい小説なんか書いてる…。そんなイメージを持たれがちな彼らですが、実は現代人とたいして変わらないような、実に人間臭い面もたくさんあるのです。
さて、今回は数々の名作を残しただけでなく、雑誌『文藝春秋』の創刊、直木賞・芥川賞の設立も成し遂げた文壇の大重鎮、菊池寛先生の短気が引き金となった大騒動の、ある意味、ユーモラスな顛末をお届けします。
【文豪と喧嘩】菊池寛・中央公論殴り込み事件! 広津和郎の小説『女給』が引き起こした泥沼抗争劇
◇菊池寛・中央公論殴り込み事件! 広津和郎の小説『女給』が引き起こした泥沼抗争劇
菊池寛(きくち・かん)
1888年12月26日 - 1948年3月6日
小説家、劇作家、実業家。京大英文科卒。一高時代の友人であった芥川龍之介、久米正雄らと共に第3次、第4次「新思潮」同人となる。新聞記者を経て、文芸春秋社を創設し、雑誌「文芸春秋」を創刊。芥川賞、直木賞を創設した。代表作は『真珠夫人』や戯曲『父帰る』など。
広津和郎(ひろつ・かずお)
1891年12月5日 - 1968年9月21日
小説家、文芸評論家、翻訳家。父親は明治期に活躍した小説家である広津柳浪。早稲田大学在学中に葛西善蔵、谷崎精二らと共に同人雑誌「奇蹟」を創刊。卒業後約半年『毎夕新聞』に勤めた後、文芸評論家として出発し「中央公論」に『神経病時代』を発表して作家としても注目される。代表作は『死児を抱いて』『風雨強かるべし』『松川事件と裁判』など。
『父帰る』や『恩讐の彼方に』など後世に残る作品を多数生み出した作家、菊池寛は1920年に新聞小説として執筆した『真珠夫人』の爆発的大ヒットで、一躍人気作家となります。
執筆依頼が殺到する中、「私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云ってみたい」と立ち上げた月刊雑誌「文藝春秋」はみるみる部数を伸ばし、さらには映画会社の社長も務め、日本文藝家協会を設立するなど、作家としてだけでなく、実業家としても成功をおさめた人でした。
また、学生時代からの盟友であった芥川龍之介や、若くして亡くなった直木三十五の名を後世に残さんと芥川賞や直木賞を設立するなど、いつしか菊池寛は文壇の重鎮と呼ばれるようになっていきます。
菊池寛・初の通俗小説とされる『真珠婦人』。何度か映像化されているが、なんと2002年にもドラマ化され、話題に
「モデル問題から憤激し 菊池寛氏の暴行 婦人公論編集主任を撲り付け 紛争の形勢悪化す」
1930年8月18日、東京朝日新聞社会面にこんな記事が踊った。
菊池寛が雑誌「婦人公論」の編集主任を殴りつけたというのです。いったい何が起こったのか。事の発端は「婦人公論」で広津和郎が連載していた『女給』という小説でした。
『女給』は当時流行していたカフェで働く女給と客たちの人間模様を描いた作品ですが、当時のカフェとは今で言うところの喫茶店とは違い、女給がお酒の相手をしてくれる所謂いわゆるクラブのようなところで、日本で最初にできた「カフェー・プランタン」には森鷗外や永井荷風、谷崎潤一郎など多くの文人が通ったといいます。
広津和郎は自身も足繁く通ったカフェで馴染みになったある女給から聞いた話を元に『女給』を書いたと、のちに『続 年月のあしおと』で述懐しています。
「わたしのことを小説に書いて下さい」といって、自身のこれまでの人生について語りだした女給の話を聞いた広津は、以前から執筆依頼のあった「婦人公論」で小説にすることにしたのです。
そして、彼女の話を聞いているとある人物の名前が挙がりました。
菊池寛だ。彼女が言うには、菊池寛は北海道から出てきて間もない彼女に金銭的な援助をしてくれたそうだが、そんな菊池寛の親切をありがたく思いつつも、結局彼になびくことはなかったという。
広津は菊池と知らない仲ではありませんでした。若い頃はよく顔も合わせたし一緒に将棋を指したこともあった。作家としてデビューしたのも同じ頃。いわば共に文壇を駆け抜けた戦友じゃないか。
そんな彼がカフェの女給に入れあげ、お金まで渡して、結果フラれるという、とっても恥ずかしいゴシップ的なネタを書いてしまっていいのだろうか――。
広津は大いに悩んだ。
「菊池君のことは、なかなか面白くて省くわけに行かない。」
いや、書くんかい!
「『文藝春秋』の出発の最初が、直木三十五あたりの筆であったと思うが、文壇人のゴシップ的なあくどい悪口をあれこれと書き立てて、それを売物にしていたようなところがあったので、そういう雑誌をやり始めた菊池君としたら、このくらいのことで腹を立てる理由はあるまい」と言い訳しつつ、かといってそのまま「菊池寛」と書くのはさすがによろしくないので「有名な詩人 吉水薫」という偽名で書くことにしたのです。
しかし困ったことが起こります。
「婦人公論」はこの菊池寛をモデルとした吉水薫が登場する号の新聞広告に「文壇の大御所登場!」と、でかでかと宣伝したのです。当時「文壇の大御所」といえば誰もが菊池寛のことを連想しました。
「有名な詩人」とぼやかしたことがまったくの無駄になってしまう広津先生。
さらには、その頃「婦人公論」には毎月いろんな作家がエッセイを書く『私の顔』というコーナーがあったのですが、その月の受け持ちはなんと菊池寛で、その内容が事もあろうか、「自分はこの顔で女の問題では損をしたことはない」といった主旨だったのです。
同じ雑誌の同じ号で、菊池が「自分はこの顔で女の問題では損をしたことはない」と書き、広津は『女給』の中で「有名な詩人」が主人公の小夜子にフラれる様さまを描き、新聞広告には「文壇の大御所登場!」とでかでかと宣伝が載る。
広津先生、この事態にはさぞ震えたことでしょう。
「実際困ったことであった。私が当惑した位であるから、菊池君としたらどんなに腹が立ったか知れないであろう。」と書いています。
「自分はこの顔で女の問題では損したことはない」。こちらは昭和16年頃の菊池寛先生(画像所蔵/菊池寛記念館)
◇作家として、男としての名誉とプライドをかけて中央公論へ殴り込み!
菊池は「小説を書くなら女の話ばかりを一方的に聞かずに、自分の話をも聞いて書くべきだ」と『僕の見た彼女』と題した原稿を「婦人公論」に送りつけますが、婦人公論はこの原稿のタイトルを勝手に『僕と小夜子との関係』と改題して掲載。
「著者の許可も取らずに改題するとは何事か!」と、さらに怒った菊池は中央公論社に単身乗りこむ。対応したのは社長の嶋中雄作氏と婦人公論編集主任の福山秀賢氏。
「何故題を変えた?」と詰問する菊池に対し、「こちらが頼んだ原稿なら、題を変えるようなことはしないが、持込み原稿の場合には改題は編集者の自由である」と主張する中央公論社。
菊池寛の抗議文を「持ち込み原稿」呼ばわりとはなかなかの強気です。激昂した菊池は嶋中を殴ろうとした。しかし菊池と嶋中のあいだには大きなテーブルがあって近づけない。というわけで菊池は隣に座っていた編集主任福山の頭をいきなり殴りつけてしまったのだ。これに憤いきどおった中央公論社は菊池を暴行罪で訴えるといい、菊池は菊池で中央公論社を名誉棄損で訴えるといい、広津の小説から始まったこの事態はどんどん大きくなっていきます。
連日のように新聞でこの事態が報道され、ある新聞には検察官が「小説の作者にも参考のために、来て貰って、意見を聞いて見なければならない」と述べたなどと書かれている。
困ってしまった広津先生、なんとか双方の仲を取り持ち、事を収めたいと思うもどうしていいかわからない。
そんなある日、神宮外苑で広津と菊池は偶然出会ってしまう。
菊池に合わす顔のない広津でしたが無視するわけにもいかず、どうしたものかと考えあぐねていると、菊池はにやりと笑った。
「君、君は何故調停に出て来てくれないんだ」
「君は僕に怒っているんじゃないのか」
「君には怒りゃしないよ。君は友達じゃないか。僕の怒っているのは中央公論社だよ」
「そうか。僕は君が僕に怒っていると思ったので、困ったことになってしまったと思っていたんだが、僕に怒っているんでないなら、僕は調停に出て行くよ」
「そうして呉れよ。困っているんだ。久米が中央公論社に行ったら、文壇全体を相手にしてでも争うからお引取り下さい、といわれて帰って来てしまったんだよ。君が出てくれなければ駄目だよ」
この菊池とのやり取りに「実に率直ないい方である。こんな場合にこんな率直ないい方はなかなか出来るものではない」と感動した広津は、必ず調停に出ると菊池と約束するのでした。
◇騒動の仲裁役を買ってでてはみたものの……
広津はまず中央公論社に出向き、社長の嶋中に菊池寛がこの騒動を収束させることを望んでいる旨を伝えます。
しかし嶋中の返答は「そうですか。併しこれは執筆家対雑誌編集者の問題なんですよ。雑誌編集者というものが、執筆家に対して、長い間どんなに屈辱的立場にあったかということで、ここの編集局中が今いきりたっているんですよ。その点僕も同感なんです。(中略)『中央公論』『婦人公論』を潰してでも、執筆家の横暴と闘ってもいいと思うのです」と、依然、強硬路線。
これは後の話になりますが、嶋中は戦中、軍によるマスコミへの弾圧で多くの雑誌が潰される中でも決して頭を下げず、毅然とした態度を貫いた男でした。そう簡単には引き下がってくれません。
それにしても「執筆家に対して、長い間どんなに屈辱的立場にあったか」とは。勝手気儘、傍若無人な連中が多かった当時の文壇ですから、編集者の人たちはそれはそれは煮え湯を飲まされてきたということなのでしょう。
次に広津は文藝春秋社に出向きます。居合わせた久米正雄が「独得の微苦笑を浮べながら」話しかけてくる。
「君、あの小説は、あれは菊池が怒るよ。何事でもこの世の中のことでは、全部勝ったつもりで菊池はいるんだよ。ただ一つ女の問題だけは、心の底ではほんとうに勝ったとは思えないんだ。そこを突っつかれたんだから、あれは怒るよ。おれが菊池だって怒るよ」
なんか偉そうに言ってますけど、あなた中央公論社に「お引き取りください」って言われて、すごすごと帰ってきましたよね、久米先生。
次に山本有三が広津の耳元で囁く。
「あれは君、君の書いているのは小説だね」「ああ、小説だ」「よし、それならいい。小説ならそれでいい」と一人うなずきながら、向こうへいく山本有三。
小説であるなら架空の物語だから問題なし、という意味なのでしょうか。
仕事の合間に将棋を指したり卓球したりしていた菊池先生。自社には卓球台が(画像所蔵/菊池寛記念館)
◇子供の使いのように東奔西走した甲斐あって(?)『女給』は大ヒット
広津は文藝春秋社の一室で菊池に会い、中央公論社の言い分を伝えます。
「嶋中君は『中央公論』『婦人公論』が潰れてもいいからあくまで争うといってなかなか頑強でね」
「そう、それは困るね。『中央公論』や『婦人公論』が潰れても、僕には別に差支えないが、文壇では随分困る人があるだろうからね」
「そこで君に僕のいう通り一筆書いて貰いたいんだ。――貴社の編集者に暴行を加え、且つ貴社の編集局を侮辱したることに対し、遺憾の意を表す。中央公論社長嶋中雄作殿。菊池寛─――」
「そんなもの書かなければいけないかね」
「ああ、そうしないと、こんなことは形がつかないからね」
「そうか、解った。書こう」
再び中央公論社に戻った広津は菊池の書いた詫び状を嶋中に渡します。
「菊池君はこれを書いてくれましたから、あなたも菊池君に対して書いて下さい」
「そういうものを書くんですか」
「菊池君はこうして先に書いたじゃありませんか。あなたにも書いて貰って、それを菊池君にとどけなければ、調停に立った僕の役目は果せませんよ」
嶋中は周りにいた編集者となにやら小声で相談し合い、そして広津にこう言います。
「広津さん、あなたはやっぱり手を引いて下さい。僕等はあくまでやりたいと思いますから」
広津和郎が東奔西走し、菊池寛が不本意ながらも詫び状を書いた。それでもなお争そう姿勢を辞さないという中央公論社。広津は嶋中の顔をじっと見つめます。
「止むを得ません。これを持って菊池君に返して来ましょう。そしてあなたのいわれるように手を引きましょう。併し(中略)手を引いてくれといわれて手を引いて、その後でその小説の作者である僕が、そのままその小説を『婦人公論』に書きつづけられるものかどうかということはお解りだろうと思います。――僕は手を引きましょう。併し僕は小説を中止します」そういって部屋を出ようとする。
これに焦った嶋中はとうとう折れて、菊池寛に宛てて詫び状を書いたのでした。
『女給』は映画化までされ、小説ともども大ヒット(ポスター所蔵/国立歴史民俗博物館)
こうして広津和郎の小説から始まった中央公論暴行事件は幕を閉じるのですが、これまでの連日の新聞報道による効果もあって小説『女給』は売れに売れて、翌年には映画化、さらには主題歌『女給の唄』も大ヒットし、結局菊池寛の夜遊びは日本中に知れ渡ることになったのでした。