「文豪」というと皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
いつも気難しそうな顔をしてて、メガネかけてヒゲなんか生やしてて、伊豆あたりの温泉旅館の一室で吸い殻山盛りの灰皿を脇目に、難しい小説なんか書いてる…。そんなイメージを持たれがちな彼らですが、実は現代人とたいして変わらないような、実に人間臭い面もたくさんあるのです。
さて、今回紹介するのは、読売文学賞を受賞し文化功労者にもなった日本を代表する詩人であると同時に、居酒屋の店主になり、ケンカに明け暮れた草野心平の豪胆なお話でございます。
【文豪と居酒屋】本業は詩人? それとも居酒屋店主? 酒と食をこよなく愛し、不埒な客は殴り飛ばす文壇屈指のファイター・草野心平
◇蛙の詩人・草野心平の破天荒な居酒屋経営生活
草野心平(くさの・しんぺい)
1903年5月12日 - 1988年11月12日
詩人。福島県出身。慶応義塾普通部を中退後、1921年に中国に渡り嶺南大学で学ぶ。在学中に詩作を始め、詩誌『銅鑼どら』を創刊。1928年には全篇で蛙をモチーフとした『第百階級』を刊行。
貧困生活の中でも精力的に詩作を続け、宮澤賢治、高村光太郎、萩原朔太郎、中原中也などの詩人と親交。特に宮澤賢治の没後、その作品の紹介、研究に力を尽くした。1975年日本芸術院会員、1987年文化勲章受章。
料理好きの文士と言えば『檀流クッキング』という本を出している檀一雄の名前が挙がりますが、その檀一雄と飲み友達だった草野心平も料理好き文士として忘れてはいけません。
1977年に勲三等瑞宝章、1983年に文化功労者、1987年に文化勲章などを受章した草野心平は紛れもなく日本を代表する詩人の一人ですが、酒と食を愛した詩人でもありました。
「ある日、上目黒のガード近くの原っぱのなかに屋台が一つほったらかしてあるのに気がついた。埃と泥まみれのその古ぼけた代物を見た途端、私はこいつでやきとり屋をやろうと独りぎめした」
昭和6年、まだ詩人として食えなかった心平は、原っぱの中に打ち捨てられたような屋台を買い取って、焼き鳥屋で生計を立てることを思いつきます。もちろんお金なんて持っていないので屋台の代金は同郷の先輩に用立ててもらいました。心平は、赤坂の焼き鳥屋が繁盛していると弟が言うのでさっそく弟子入りし、半月間修業します。修業を終え、出店場所に麻布十番を選ぶと、焼き鳥屋の道具類を購入するためにこれまた借金します。金を貸したのは佐藤春夫でした。その辺りを仕切っているテキ屋連中にもわたりをつけ、いよいよ開店です。なんという展開の早さでしょうか。店名は出身地である福島県石城郡にちなんで『いわき』としました。
首尾よく開店まで漕ぎつけたのは良かったが、これがまったく儲からない。焼き鳥を焼いても焼いてもたいした利益も出ず、生活は一向に良くなりません。儲からな過ぎてお酒も買えないのでお客のお酒を飲ましてもらい、自宅の炊事に使う薪を買うお金もないので近所の表札をはがして燃やしてしまいます。酔った勢いで詩人仲間が炭俵を盗んで一緒に警察に捕まったこともありました。この時は勢いあまって警官を殴ってしまいこっぴどく絞られたようです。みかねた友人が紹介してくれた出版社に入社すると、焼き鳥屋ではひと月働いて30円にも満たなかった収入が月70円に。心平さん最初からそうすればよかったのでは?
読売文学賞を受賞した翌年の草野心平(写真提供/草野心平記念文学館)
◇店主・心平のまるでボクシングような喧嘩っぷり
その後も新聞記者や出版社などで生活の糧を得ながら詩作活動を続けた心平は、1948年に一連の蛙の詩によって読売文学賞を受賞、1950年には『草野心平詩集』を刊行し、詩人としての地位を確立していきました。そしてその2年後、今度は「火の車」という居酒屋をオープンすることにします。店名は前年に出版した随筆集『火の車』からとりました。
この「火の車」には多くの文人詩人芸術家たちが集まりました。檀一雄や高村光太郎、青山二郎に河上徹太郎などなど戦後復興期を支えた文人たちがぞくぞくと飲みに来ます。酔うと喧嘩になるのが彼等文人と言う人種です。「火の車」でも毎日のように誰かと誰かが喧嘩になりました。その中でも一番喧嘩っ早いのが誰だったかといいますと、何を隠そう店主当人である心平先生です。「火の車」は当初は文京区田町、移転後は新宿にありましたが、ヤクザ者がショバ代を払えだの何だのと難癖をつけてはタダ酒を飲もうとやってきます。そういった手合いとやりあってきた心平ですから腕っぷしにはかなり自信があります。酔って絡んでくる客がいると「ようし表に出ようじゃないか」といって吹っ飛ばし、客同士が喧嘩を始めると「その喧嘩、俺に買わせてくれ」といってやっぱり吹っ飛ばしてしまいます。作家の玉川一郎が大きな荷物を持ってひょこひょこと店に入ってきた際、彼を笑った客を引きずり出して殴ったこともあります。
「火の車」で働いていた橋本千代吉よると心平の喧嘩っぷりは「しずめた腰を回転させ弧を描いた右腕が顔面をおそう。ナックルパートではないが拳はかたく、かといってオープンブローでもない。(中略)拳闘を見るような具合」だったといいます。檀一雄の連れてきた客と喧嘩になった時は、表に出て睨み合っているところに何故か檀一雄が参戦してきてその客を殴りつけて投げ飛ばしてしまい、「いや、そこまでやらんでも」と呆れる心平でしたが、一体どの口が言ってるのでしょうか。
そもそもこの檀一雄と心平はかつて、東中野の「おかめ」という居酒屋で太宰治、中原中也と飲んでいた時に盛大に酔っぱらい大乱闘となって店のガラス戸を木っ端微塵にしたことがあり、それ以来大親友だといいますが、この人たちは普通に仲良くなれないんでしょうか。
「火の車」のカウンターに立つ草野心平(写真提供/草野心平記念文学館)
◇詩人のネーミングセンスが光る逸品料理の数々
連日連夜、誰かが喧嘩をし誰かが殴り合っているというまるで無法地帯のような「火の車」ですが、そのお品書きも一風変わっています。豚のにこごりのメニュー名が「冬」、冷奴のメニュー名が「白」といった具合に一見するとどんな料理かわからないメニューがずらりと並びます。スープは「白夜」、塩辛は「どろんこ」、他にも「北方」「雪由」「雑色」「赤と黒」「十万」「悪魔のこまぎれ」「美人の胴」「黒と緑」などなど。飲み物も特級酒が「天」、焼酎が「鬼」、ウイスキーが「炎」、ハイボールが「泉」と、いかにも詩人らしいネーミングセンスです。
もちろん料理そのものにも拘ります。じっくり煮込んだ牛タンを醤油とみりんに漬けこみ、それをスライスして洋ガラシで食べるのが「火の車」の名物メニュー。他にも、大根の葉を糠漬けにして細切りした板昆布とあわせてほうじ茶漬けにしたものや、アジを骨ごと出刃庖丁で叩いたものに青じそを加え団子にしてレモン汁を加えたもの、キャベツの千切りとあわせて酢漬けにしたニシン、塩ゆでしてフレンチドレッシングをかけた根まがり竹、アケビの皮のなかに好みの具をまぶした味噌をつめこんで蒸したものなどなど、多くのレシピを考案してきた心平ですから、「火の車」でもたくさんのお客を自己流の料理で楽しませませたことでしょう。
◇居酒屋からバーへ……仲間と囲むうまい酒とうまい料理
「火の車」は4年ほどで閉店することになりますが、心平は次に新宿御苑近くにバーを開店します。店名は「学校」としました。バー「学校」のオープンの日は1960年、日米安保条約が改定された日でした。この日、心平は安保反対のデモに参加し、学生や運動家たちが安保反対のビラを撒く中に混じってバー「学校」オープンのビラを配って回ります。この年、心平は57歳でしたが元気過ぎやしませんか。ビラには「安保反対、本日開店」と書かれていました。なんとも斬新な宣伝方法です。
この「学校」も文士たちで大いに盛り上がりますが、心平がお客以上に酒を飲んでしまいほとんど儲かりませんでした。やがて長年の暴飲暴食がたたり体を壊した心平は店にもあまり出なくなり、29年続いたこのバーも立ち退きにより畳むことになります。心平が亡くなった1988年11月の翌月、バーも閉店しました。
74歳の草野心平(小林正昭撮影)(写真提供/草野心平記念文学館)
生前、心平が長野の蓼科の山の中で山ウドを採って調理した時のことが随筆「蓼科の山ウド」に書かれています。採取した立派な山ウドを持ち帰り、その葉を刻んで豆腐の味噌汁にふりかけると、野性味溢れる強烈な香りが立ち昇る。その美味さに感動した心平は「瞬間私は、都の食いしんぼうの仲間のことを思いだし、やいどうだいと独り言を言いたくなったり、食べさしたいなあとも思ったりした」といいます。
心平は居酒屋やバーの経営は生活の為家族の為といいますが、本当のところは仲間とうまい酒を呑み、うまい料理を振る舞うことに至上の喜びを感じていたのでしょう。
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