「文豪」というと皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
いつも気難しそうな顔をしてて、メガネかけてヒゲなんか生やしてて、伊豆あたりの温泉旅館の一室で吸い殻山盛りの灰皿を脇目に、難しい小説なんか書いてる…。そんなイメージを持たれがちな彼らですが、実は現代人とたいして変わらないような、実に人間臭い面もたくさんあるのです。
今回紹介するのは、久米正雄の部屋に集まる作家チームと、広津和郎の部屋に集まる文士チームが、ひょんなことから将棋対決することになったお話です。
【文豪と将棋】文壇最強の棋士は誰だ?! 広津和郎、菊池寛、野口雨情……将棋チームバトル、驚愕の結末
◇将棋を趣味とした文士たち
野口雨情(のぐち・うじょう)
1882年5月29日 - 1945年1月27日
茨城県出身。詩人、童謡・民謡作詞家。東京専門学校(現早稲田大学)中退。北海道での新聞記者時代、茨城の村での公職を経て、児童雑誌『金の船』等に作品を次々と発表。『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『黄金虫』など多くの名作を残し、民謡・童謡の普及に尽力した。北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と言われる。
広津和郎(ひろつ・かずお)
1891年12月5日 – 1968年9月21日
小説家、文芸評論家、翻訳家。父親は明治期に活躍した小説家である広津柳浪。早稲田大学在学中に葛西善蔵、谷崎精二らと共に同人雑誌「奇蹟」を創刊。卒業後約半年『毎夕新聞』に勤めた後、文芸評論家として出発し「中央公論」に『神経病時代』を発表して作家としても注目される。代表作は『死児を抱いて』『風雨強かるべし』『松川事件と裁判』など。
井伏鱒二や織田作之助、坂口安吾に直木三十五、山本周五郎や山本有三などなど将棋を趣味とした文士は多くいます。その中でもかなりの実力者だったのが幸田露伴で、その腕はプロから段位を許されるほどでした。その次に強いといわれたのが菊池寛です。学生の頃からならしたその腕は相当なもので、文壇でも菊池の強さは有名なものでした。
大正10年頃、本郷五丁目に住んでいた久米正雄の部屋に集まって、いつも将棋を指していた菊池寛や佐佐木茂索、滝井孝作といった仲間たち。その久米正雄の部屋の向かいにあった八重山館という下宿屋に住んでいたのが広津和郎です。ある日、どういう話の流れからなのか、この広津和郎の部屋に集まる文士たちと久米正雄の部屋に集まる文士たちで将棋対決をすることになったのです。言い出したのは広津和郎です。
この広津和郎、将棋対決を挑むくらいですから相当の腕前なのかと思いきや、なんとずぶの素人。ほとんど将棋なんてやったことがないという広津和郎、なんでまた将棋対決なんて言い出したのか全くもって謎です。しかも相手にはあの菊池寛がいるというのに。文士の気まぐれというものでしょうか。
・それぞれ7名の棋士を選出する
・総当たりで勝ち点の多い方を勝ちとする
・試合は一週間後とする
ルールは以上と取り決められました。「勝抜き戦にしたら、菊池寛一人に味方の全部が負けてしまうだろうが、これなら僥倖もあり得ると思ったからである」という広津。この試合申し込みの日から将棋の特訓が始まりました。メンバーは後に日本麻雀連盟の創立メンバーになった川崎備寛や後に画家となる松本弘二、後に菊池寛の秘書となる鈴木氏亨などなど。その中でも一番将棋の弱い広津は「正式な稽古ではとても間に合わないので、石田流のインチキなやり方を誰からか教わって、それ一つを稽古することにした」という。それがどのような戦法だったのか詳しく書かれていません。将棋に興味のない広津ですから詳しく書く気もなかったのかもしれません。努力とかしたくない広津は「相手が知っていれば簡単に受けられてしまうが、知らなければ、一気に敵地になだれ込めよう」というこの戦法一本槍で挑む事にしたのです。
◇突然現れた作詞家・野口雨情
26歳の野口雨情(写真提供/野口雨情記念館)
明日がいよいよ試合当日だという最後の日の夕方。画家の林倭衛が一人の男を連れて広津の部屋を訪ねてきました。林はみんなが真剣な顔をして将棋盤に向かっている光景を見て「一体これはどうしたことだ」と驚きつつ、連れてきた男の方へ振り向いて「紹介するよ。こちら野口雨情さん。こちらが広津君」と二人を引き合わせた。野口雨情とは詩人であり作詞家。「しゃぼん玉」や「赤い靴」「證誠寺の狸囃子」など現代でも誰もが知るような歌詞を多く残した人物です。
◇野口雨情「これはまいりましたな」
広津と雨情はこの時が初対面でした。一通りの挨拶がすむと雨情は部屋を見まわし「将棋ですか」と一言。「いや実は……」と広津が事の顛末を説明すると雨情は「ほお、それは面白い。私も将棋は少し指しますが、一つそのお仲間に加えて頂けませんか」と言う。「お仲間って……試合にですか」「ええ、メンバーにくわえて頂きたいのです。菊池さんとお手合わせをして見たいですから」
菊池寛相手と手合わせをしたいとは、この男、相当の自信があるのか。確かに広津陣営には大将格らしい大将がいない。雨情の実力が相当のものなら大将になってくれるかもしれない。しかしその腕ははたして本物だろうか。
そこでこの飛び入りの雨情を相手にメンバーが対戦してみることにしました。まずは広津が盤に向かいます。序盤は広津が優勢に見えました。広津が駒を進めるたびに「これはまいりましたな」「いや、どうもまいりました」と雨情の王将はどこまでも逃げて行きます。広津は雨情の囲いを破り、何度も王手にかけますが、その度に「いや、どうもまいりました」といって逃げてゆく雨情。しかし、逃げて逃げて逃げまわった末に、一瞬の隙をついて攻守は逆転し、広津は負けてしまいます。惜しいところまで追いつめているようで、いつの間にか一手違いで雨情が広津を負かせたのです。鈴木氏亨が相手になっても川崎備寛が相手になっても同じ結果で、「これはまいりました…、いや、どうもまいりました」と言いながら雨情の王将はするりするりと逃げてゆく。そして一手あくと逆襲が始まり詰められてしまう。広津たちはようやく気づき始めます。
この男…強い!
「とてもわれわれの将棋とは、将棋の格が違うようですな。一体野口さんはどの位強いのですか」
「一向強くありませんよ。私は段は持っては居りませんし……そうですな。二段が私よりも一時間眠りが足りないとか、一合お酒を余計飲んでいるとかすれば、二段に勝つのはそうむずかしくはないと思います」
謙虚な言葉の中に隠し切れない自信を見た広津は、雨情の強さに確信を持ちます。雨情の実力があれば、あの菊池寛を倒せるかもしれない。
「これはえらい大将が舞い込んで来たものだ。今まで御覧の通り雑兵ばかりで、大将がいなかったのですよ。一つ野口さんが総大将になって下さい。そうすれば勝てるかも知れないぞ。これは明日が楽しみになって来た」
40代の野口雨情(写真提供/野口雨情記念館)
翌日、試合会場である久米正雄の部屋へと向かった広津率いる八重山館陣営。敵陣の久米正雄、佐々木茂索、滝井孝作、岡栄一郎、南部修太郎、そして菊池寛はすでに集まっていました。当初は総当たりでそれぞれ1回勝負のルールでしたが、双方の合意により、大将格である菊池寛と雨情の勝負に限って3回勝負にしようとその場で決められました。
そして、ついに試合が始まります。文壇でも五本の指に入るといわれる実力者である菊池寛を擁する久米正雄チームと、将棋の駒も殆ど触ったことのなかった広津が率いる八重山館チーム、果たして勝負の行方は如何なる方向へ進むのか。
◇菊池寛 VS 野口雨情 大将戦三番勝負
おのおの盤に向かい合い、試合が始まりました。広津は付け焼刃で覚えた例の石田流の戦法しか知りません。果たしてこの一本槍な戦い方が通用するのかと思われましたが、いざ試合が始まってみると、面白いように相手が受け方を知らない。一人倒し二人倒しと、どんどん勝ち進んでいき、最終的には菊池寛と滝井孝作以外の相手を負かしてしまいます。これには敵陣営も驚いたことでしょうが、一番驚いているのは広津自身で「自分でもあきれた」と後に語っています。
そして全ての勝負が終わり、ついに大将戦の三番勝負が始まります。盤を中央に向かい合う菊池寛と野口雨情。それをまわりのみんながぐるりと円陣を作って見守ります。菊池寛が駒を進める。やはり「これは困りました……まいりましたなぁ」と言いながらするりするりと逃げて行く雨情。雨情は菊池寛に攻めるだけ攻めさせて、一瞬の隙を伺っている。広津は昨日の自分たちとの勝負を思い出していた。菊池が優勢と見えるがこれが雨情の戦法だ。菊池寛が苛立ち始める。むっとした顔つきでパチン、パチンと駒音高く追いかけるが、雨情の王将には届かない。「これは雨情さんが勝つかもしれない」広津がそう思っていると、盤面は一気に形成が逆転しとうとう菊池寛は駒を投げ出して投了してしまいました。一番目を雨情が勝ったのです。二番目の勝負が始まると、相変わらず「まいりましたなぁ、まいりましたなぁ」と言いながら逃げる雨情。菊池は難しい顔をしながらそれを追いかける。元来、勝負ごとに熱くなると「クチキカン」になる菊池寛です。雨情ののらりくらりとした打ち方に相当イライラしていた事でしょう。逃げ続ける雨情をどこまでも追う菊池寛。そしてとうとう二番目も雨情が勝ってしまったのです。
「菊池カンカンだぜ。どうやらこれは違うんじゃないかな、段が少し……」
敵方の岡栄一郎が広津の肩をつついて囁きました。
「今まで作家仲間で一番強いとされていた菊池寛が、将棋を指すなどという噂を聞いたこともない野口雨情に負かされているということを、面白がっているらしかった」と広津は後に語ります。
三番勝負の二番を雨情が勝ってしまったので勝負は決まりましたが、二人はもう一番指しました。菊池が雨情の戦法を見破ったのか、それとも雨情が菊池に花を持たせたのか、今度は菊池寛が勝ちました。
そうして全試合が終わり、集計の結果、広津率いる八重山館チームは菊池寛を擁する久米正雄チームに勝利してしまったのでした。
◇雨情の棋力の理由は……
意気揚々と八重山館に引き上げていく広津たち。この野口雨情、文壇でその実力がまったく知られていないにもかかわらず、何故ここまで強いのでしょうか。広津が聞いてみると「詩では食べられないものですから、私は田舎でしばらく将棋で食べていたことがあるのです」と答える雨情。
実際、雨情は詩人として認められるまでに大変苦労した人でした。明治38年に自費出版した民謡詩集『枯草』は反響は得られず、明治40年に発刊した民謡月刊『朝花夜花』は不発に終わり、詩作から遠ざかっていた時期もありました。
不遇の時代に雨情は賭け将棋で糊口を凌いでいたのかもしれません。それは生きるための将棋でした。そうして磨かれた雨情の腕は、あの菊池寛すら凌駕したのでした。
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参考書籍:広津和郎『続 年月のあしおと(上)』(講談社文芸文庫)