数々の名車を送り続けるイタリア。そんなイタリアのクルマたちにまつわる人や出来事など、素晴らしき“イタリアン・コネクション”を巡る物語。今回はデ・トマソの創始者、アレッサンドロが仕掛けたフォードとの“前代未聞”のパンテーラ・プロジェクトの顛末をお伝えするシリーズの第3回。紆余曲折の後、パンテーラのファースト・ロットが北米顧客にデリバリーされたのだが……。
フォードによるプロジェクトの買い上げ
デ・トマソ・アウトモビリの資金源であったローワン社の経営トップ達が乗るジェット機が墜落し、死亡するという思いも寄らぬ出来事に襲われたのは1969年11月のことであった。プロジェクトの鍵を握っていたキーパーソンの死去により大ピンチとなったパンテーラ・プロジェクトであったが、既にニューヨーク・モーターショーでお披露目を終えており、今さら中止する訳には行かなかった。
ギャラリー:パンテーラの成功で、モデナ最大規模の自動車メーカーへ──イタリアを巡る物語 VOL.05
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
55周年記念イベントには世界中から熱心なマニアが集まった
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
2014年モデナのピアッツァ・グランデにて開催されたデ・トマソ・アウトモビリ55周年記念イベント
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
急ごしらえの工場にて突貫工事で作られたデ・トマソ パンテーラ
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
アレッサンドロ・デ・トマソ 荒くれレーサーが、洗練されたビジネスマンへと仕立てられた
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
ドン・コールマン GT40、デ・トマソ・パンテーラにフォード側から関与した生き証人
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
デ・トマソ パンテーラ コンセプト 次期パンテーラとしてトム・チャーダが腕を振るったのだが……
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ前回のエピソードで書いたように、アレッサンドロ・デ・トマソがリー・アイアコッカに懇願したのは、フォードによるパンテーラ・プロジェクト全体の買い上げであった。その提案には、デ・トマソ・アウトモビリの買い上げのみならず、その傘下にあったカロッツェリア・ギアとカロッツェリア・ヴィニヤーレをも含まれていたのだった。
アレッサンドロから提案を受けたアイアコッカは、フォードの会長であるヘンリー・フォードII世にパンテーラ・プロジェクトの買い取りを恐る恐る申し出たのだが、ハナシはとんとん拍子に進んだ。フォード役員会でも承認され、フォードII世とアレッサンドロの顔合わせも完了。すべてはアレッサンドロの希望通りとなった訳だ。
アレッサンドロが鬼籍に入ってしまった今となっては知るすべもないが、彼は“これは悪くない結末だ”と、ほくそ笑んでいたに違いない。いずれにしても、これで彼はパンテーラの開発資金で悩む必要はなくなった。タイミングがよかった。もし、この騒動が少し後であれば、フォードII世はアイアコッカの提案を拒絶していたかもしれない。アイアコッカとフォードII世との確執が深まったのはそれからまもなくのことだったからだ。
突貫工事だったパンテーラの生産準備
突貫工事でパンテーラの生産準備は進んでいた。パンテーラの製造プロセスはモデナのハイパフォーマンスカーとしてはオーソドックスなものであったが、それは大量生産にマッチしたものではなかった。
シャシーの基本部分はトリノ近郊の協力工場で作られ、カロッツェリア・ヴィニヤーレのアッセンブリーラインで完成された。出来上がったシャシーは、ペイントされ、インテリアが組み付けられた。そして、トリノでの工程を終えたボディはモデナのデ・トマソ・アウトモビリへと300kmほどの旅に出るのだった。モデナではエンジンやトランスミッション、サスペンションなどが結合され、パンテーラは完成となった。もちろん351クリーブランドV8エンジンは北米のフォードからモデナへと送り込まれていたものであった。
フォードにとって年間2000基やそこらのエンジンの為に、特別な仕様を設定するのはあり得ないハナシであった。であるから、パンテーラには全く必要のない補機類もすべてくっついた、そのままマスタングに載せられる状態で、モデナへ送り込まれた。デ・トマソのワーカー達はまず余計なものを捨て去り、“素の”エンジンにすることから作業は始めたのだ。
ギャラリー:パンテーラの成功で、モデナ最大規模の自動車メーカーへ──イタリアを巡る物語 VOL.05
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
55周年記念イベントには世界中から熱心なマニアが集まった
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
2014年モデナのピアッツァ・グランデにて開催されたデ・トマソ・アウトモビリ55周年記念イベント
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
急ごしらえの工場にて突貫工事で作られたデ・トマソ パンテーラ
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
アレッサンドロ・デ・トマソ 荒くれレーサーが、洗練されたビジネスマンへと仕立てられた
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
ドン・コールマン GT40、デ・トマソ・パンテーラにフォード側から関与した生き証人
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
デ・トマソ パンテーラ コンセプト 次期パンテーラとしてトム・チャーダが腕を振るったのだが……
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラGT40の頃からフォードのスポーツカー部門で活躍していたエキスパートのドン・コールマンは、パンテーラ・プロジェクトの為にモデナへと送り込まれていた。「パンテーラのエンジンはラインから抜き出されたまま、つまり全くのノーマルでした。パンテーラのようなスポーツカーのエンジンとしてはいささか不釣り合いなものであったのは事実です。特にストックの状態だと5000~5400rpmくらいまでしか回らなかった。そこで私は5900rpm位までは回せるようにヘッド廻りのアップグレード作業の指示をデ・トマソへと出したのです。」とコールマン。
モデナのデ・トマソ・アウトモビリにデスクを置き、勇んで仕事に臨んだコールマンであったが、あっという間にディアボーン(フォード本社)へと戻ることになった。アレッサンドロと決裂したのだった。とにかくすべてにおいてコールマンは、その存在を無視され、全く歓迎されなかったという。それは解る。アレッサンドロは人から物事を教わったり、意見を述べられたりすることをことごとく嫌悪するという習性を持っていた。ファンジオやOSCAのマセラティ兄弟に対してですらそうだったのだから、フォードが送り込んだコールマンにあれこれアドバイスされることなど彼のプライドが許さなかった。それがどんなに有益なことであろうとも……。
フォード・ブランドの元、光り輝く存在に……
さて、アレッサンドロ達がパンテーラの製造に向けて奮闘している頃、フォードはアイアコッカのもとで、パンテーラのブランディングを行っていた。パンテーラのミッションは明確であった。それは“モータースポーツで世界を制す先進の技術を持ち、かつ先進のスタイリングの実現を可能とするメーカーこそがフォードである”ということを世界に知らしめることなのだ。彼らは、年間2000台ほどと計画されたパンテーラの売り上げなどある意味でどうでもよかった。
そのパンテーラの魅力をより明確にするための“武器”はアレッサンドロ・デ・トマソであった。そこで求められたのは“粗野なレースドライバー、アレッサンドロ”では決してない。“ヨーロッパのレース界で活躍したキャリアを持ちながらも、世界を股にかけたビジネスマン。エレガントなスーツを纏い、アンティークを愛す洗練された男、アレッサンドロ・デ・トマソ”であった。そう、そんなキャラクターに彼は“変身”させられたのだ。世界時計を背に、重厚なデスクに座るアレッサンドロの広報写真が用意されたが、まさにその世界が彼に要求されたイメージであった。
少なくとも1970年の春まで、パンテーラ・プロジェクトはバラ色であった。スケッチから9カ月という信じられないスピードで走行可能なプロトタイプを披露し、あっという間に生産ラインも完成させる。日産17台で年間2000台つくり、数年後にはそれを5000台にする、という生産規模が約束された。ライバルのイタリアン・エキゾチック達の半値以下で、同レベルの性能を誇るというパンテーラは、フォード・ブランドのもと、光り輝く存在となる……。フォードの上層部達はこのプロジェクトの成功を確信していた。
ついにモデナ最大規模の自動車メーカーに
予定より少し遅れたものの、待ち焦がれていた最初期ロットのパンテーラが北米のロングビーチに到着した。しかし、喜び勇んで出迎えたフォードのスタッフは、自分たちの目を疑わざるを得なかった。ボディはでこぼこで、ペイントも剥げていた。そして、エンジンを始動してみるなら、それは断末魔の叫びのような異音を発していた……。パンテーラはまさに使い古された中古車そのものであったという。
日本やドイツのメーカーであれば、自動車専用運搬船に熟練したスタッフを配置し、北米へとシッピングするのが常であっただろう。しかし、モデナの小メーカーにそのようなノウハウは皆無であった。それまでのデ・トマソ・アウトモビリは年間数十台のマングスタを作るのに四苦八苦していたメーカーであることを忘れてはならない。
混載の貨物船に、クルマなどめったに運んだことのない作業員によって載せられたパンテーラは無残なものであった。丈夫が取り柄のフォード製エンジンまで不調とは何故、と、皆は不審に思った。しかしそれは単純な原因であった。不慣れな作業員が車両の移動に際して、レッドゾーンを無視したフルスロットルをあてた為、バルブがクラッシュし、クラッチもぼろぼろになっていたのだった。
悪いことは続く。フォードの品質基準で初期ロットをテストするならば、様々な問題点が噴出した。リア・サスペンション、ひいてはサポートの剛性不足や地上最低高不足、そしてオーバーヒート、エアコンの能力不足……。結局、それらを1台1台、フォードが突貫工事で、修復する羽目になった。そして、1台あたりの改善にかかったコストは恐ろしいものだった。パンテーラの未来には暗雲がたちこめはじめていた。
それでも紆余曲折の後、1971年には百数十台のファースト・ロットが北米顧客にデリバリーされた。品質問題も次第に改善され、1973年には年間2000台を超える北米販売台数を記録した。これはデ・トマソ・アウトモビリがモデナ最大規模の自動車メーカーとなったことを意味し、まさに画期的なことであった。早くも次期パンテーラの開発も始められ、既にランニング・プロトタイプまで完成していたのだった。
ギャラリー:パンテーラの成功で、モデナ最大規模の自動車メーカーへ──イタリアを巡る物語 VOL.05
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
55周年記念イベントには世界中から熱心なマニアが集まった
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
2014年モデナのピアッツァ・グランデにて開催されたデ・トマソ・アウトモビリ55周年記念イベント
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
急ごしらえの工場にて突貫工事で作られたデ・トマソ パンテーラ
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アレッサンドロ・デ・トマソ 荒くれレーサーが、洗練されたビジネスマンへと仕立てられた
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ドン・コールマン GT40、デ・トマソ・パンテーラにフォード側から関与した生き証人
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラ
デ・トマソ パンテーラ コンセプト 次期パンテーラとしてトム・チャーダが腕を振るったのだが……
De Tomaso Pantera|デ・トマソ パンテーラアレッサンドロのもとで、行動を共にしていたデザイナーのトム・チャーダは、そのころ既にアレッサンドロが、パンテーラ・プロジェクトに興味を失っていたことに気づいていた。これからパンテーラの本格的ビジネスが始まるというこの期に及んでそれは何故だったのだろうか? そして、チャーダの証言を証明するかのように、1973年になるとパンテーラ・プロジェクトのキャンセルが水面下で決定された。顧客へのデリバリーが始まってまだ2年余りであったのに……。
この不可解な撤退の裏には、オイルショックによる需要減少だけでは語れない不可解な要因があったようなのだ。いったいパンテーラ、そしてアレッサンドロに、何が起こったのだろうか? (次号へ続く)
文と写真・越湖信一、EKKO PROJECT 編集・iconic
Special Thanks・Santiago DeTomaso archive