“教授”こと坂本龍一の動向を追うライター・編集者の吉村栄一による「教授動静」。第28回は、ニューヨークから東京に着き、自主隔離生活をする教授の様子についてお届けする。
自主隔離のためいつも以上に荷物が多いNY出発の朝
古き良き「出前」文化
前回お伝えしたように、今回の取材は米・ニューヨークから東京にやってきて、新型コロナ対策のための2週間の自主隔離真っ最中の教授にインタビューしたもの。
「いまちょうど隔離の12日目です」
あと2日。隔離明け寸前の教授は、ではこの12日間をいったいどのように過ごしてきたのだろう。
もともとはあるホテルを滞在先の候補にしていたのだが、そこはあまりにも厳格な対応になっていたという。
「最初に借りようとしたところは隔離用の部屋があるフロアにはエレベーターすら止まらないほど厳格なんです。こちらも外に出るつもりはないけど、2週間もいるんだから、せめて窓を開けて外の空気を吸うぐらいはしたい。しかし、ホテルなのでそもそも窓が開かない。海外の、たとえばヨーロッパやハワイのホテルには大きなベランダやテラスがあって開放感があるけど、NYや東京などのホテルは窓も開かないようになっているところが多くて」
自粛中のある日の自炊ランチこれはさすがに息が詰まるというので、都内某所のマンション・タイプの施設を滞在先に選び直したそうだ。そこでの生活は?
「じつはニューヨークの自宅にいるときとあまり変わらないんです。ここでも朝起きて、まずお茶を飲んで、それからお風呂に入り、メールの返事をしたりしているうちに早めのお昼ごはんになり、それから仕事。仕事をしているうちに夕ご飯になる」
ちなみに食事は、夕食はデリバリーでそれ以外は備え付けのキッチンで自炊だそうだ。しかしこの夕食のデリバリーでは、自宅のあるニューヨークと東京の彼我の差を痛感した。
「デリバリーはほぼ毎日メニューを変えているんですが、デリバリー事情はニューヨークのほうがはるかにいい。ニューヨークは多様なんです。というのも、ニューヨークは今年の春から日本よりも厳しい“ロックダウン”という処置だったので、その厳しい状況に立ち向かうため、超一流のレストランまでデリバリーをやらざるを得なかった。
少しでも稼がないと生きていけないわけで、どのレストランものきなみデリバリー対応となり、どこもすごく凝るようになった。高価な料理から安くておいしいものまでたくさんある。いろんなレストランが知恵を出し合ってこの8カ月間に競ってやってきた成果が出ている。それにくらべると日本はまだまだデリバリーに関してはそういう厳しさはないのかな」
お気に入りのミカン自主的とはいえ、隔離、つまりは軟禁状態にある中での数少ない楽しみはやはり食事だろう。古今東西、病院でも刑務所でも自由のない状態の毎日の中では、日々の食事の充実が大きな比重を占めるようになることはよく知られている。
「日本でデリバリーとなるとピザとか、どうしてもファストフード的なものが多くて、それ以外となると、とたんに選択肢が少なくなる」
そうした中で救いとなったのはデリバリーというよりも、日本にまだまだ残っている「出前」の文化。近所の店に出前を頼むという文化は、新興のデリバリー・サービスが登場する以前から人手不足などのために衰退していたが、幸いにも今回滞在した街は都心ながらもまだまだ古くからの地域に密着した飲食店が出前のサービスを残しており、それに助けられたそうだ。
「滞在している施設の隣に美味しい中華屋さんがあるんですよ。そこは食べ終わった食器をドアの外に出しておくと引き取ってくれるという昔ながらのスタイル。蕎麦屋さん、寿司屋さんの出前もそうですよね。家の前にオカモチや食器を置いておいても誰も盗まなかった時代の出前文化がこのあたりには根付いたまま、まだ生き残っています」
マンション小部屋内に組まれたスタジオ・セット
マンションのプチ・スタジオにて
閑話休題。今年3月、日本での仕事を終えてニューヨークに戻った教授は、やはり2週間の隔離生活を自宅で送った。そのときの生活パターンとあまり変わらないというが、しかし、メールのやりとりやリモートのインタビュー取材ならともかく、音楽制作はどのように行っているのだろうか。
「ここには4畳半ぐらいの小部屋もあって、そこに機材を組んで、それなりに仕事ができる環境になっている。いわばプチ・スタジオ的な感じになっています」
プチ・スタジオと言っても、写真のようになかなか本格的なスタジオに仕立てられていて、ギターもある。そこでは、ニューヨークから引き続いて、アニメ・シリーズのエピソード2の音楽制作を行っている。
前回の取材で11月中には目処をつけたいとのことだった来年6月のオランダの芸術祭『Holland Festival』で初演されるシアター・ピース「TIME」の音楽制作はどうなったのだろう。
「前回の取材で50%だと言った『TIME』の音楽の進捗はいま70%ぐらいまで来ているのかな。もちろん、今後、いまできている部分に関しても変更するところがかなり出てくるはずなので、どの段階で100%というべきかわからないところもある。つまり本番になってみないと100%にならない(笑)。というのも、パフォーマンスの要素が大きい作品なので、本番前の2週間ぐらいのリハーサルのときに作っていく部分も大きい。音楽だけじゃなく、パフォーマンスありきの作品なので、本番前の2週間でみなが一堂に会して、そこから作り上げていきます」
ただいま12月12日の配信ライヴの演奏曲を構想中また、12月12日に行われる配信のピアノ・コンサート『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 12122020』の練習も並行して行われている。教授がピアノ・コンサートを始めたのは、大学の文化祭出演などの例外を除くと1988年のことだ。
「いちばん最初は寺田倉庫でやったんですね。当時はあのあたりもウォーター・フロントなんて呼ばれておしゃれなイメージがあったなあ。あれが第1回なんで、もう32年前ですね」
30年以上の歴史の中で、ピアノを使えない環境でコンサートの準備をすることはさすがに初めての体験だ。
演奏候補曲の楽譜の中には10年以上演奏されていないレア曲も!「ま、でも、ぼくはピアノ・コンサートのために練習したことはほとんどないので一緒か(笑)。でも、歳をとると練習しないと指がどんどん動かなくなるから、近年は毎日少しでも指を動かして維持するようにはしていますが」
今回、マンションにピアノは持ち込めないので、教授の好みのピアノのタッチに合わせたヤマハ製の電子ピアノを使って指を動かしている。
「ピアノの鍵盤とタッチが近い上に音色もいいシンセ・ピアノをヤマハに貸してもらって、それで練習しています。ふつうのシンセよりも鍵盤が重くて本物のピアノに近いんですよ。なので、ピアノなしで練習していると聞くとファンの方は大丈夫かってどきどきしちゃうかもしれませんが、安心してください(笑)」
このピアノ・コンサートの配信観賞チケットは12月7日まで発売中(https://special.musicslash.jp/sakamoto2020/)。
鍵盤のタッチを教授用にチューンアップした電子ピアノで練習中
100年後にも坂本龍一に会える!?
そして、じつは本コンサートは教授の今後の重要なプロジェクトの前哨戦ともなっている。
「このコンサートではぼくのこれまでの代表曲を網羅的に演奏しますが、そこでやる曲はコンサート後、同じスタジオで再度演奏し、録音します。じつは、ぼくの演奏を立体的にモーション・キャプチャーするプロジェクトが進んでいるんです」
いま世界的にVR(ヴァーチャル・リアリティ)の技術とコンテンツの勃興期にあるが、今回の教授のプロジェクトはVRからさらに一歩進んだMR(ミクスト・リアリティ)の技術を使ったものとなるらしい。
毎日続いたリモートによるインタビュー中の教授「MRのコンテンツというのはまだほとんどないに等しいんだけど、今回、アメリカ人のプロデューサーと、ライブの映像演出もしてくれるライゾマティクスの真鍋大度さんチームと組んで、ぼくの演奏を収録します。この技術のいいところは、いまモーション・キャプチャーでぼくの演奏を収録しておけば、ぼくが死んだ後でも現実のMIDIピアノを演奏させる、仮想的なコンサートが開けること。実際のコンサート会場のステージにMIDIピアノを置いて、ヴァーチャルなぼくがそれを弾くということができる。100年後でもみんながゴーグルの中で演奏するぼくが立体的に見える。ま、100年後にぼくを観たいという人がいるとは思えないけれど(笑)」
このプロジェクトが完成して公開できるようになるにはまだまだ時間がかかりそうな気配だが、完成を楽しみに待ちたい。
本企画の作業と大島渚賞の選考委員会や、京都精華大学のウスビ・サコ学長とのオンライン対談イベント(https://www.kyoto-seika.ac.jp/news/2020/1104_1.html)、more treesのイベントとしてのトークショーが12月19日に行われるほか、ラジオ番組の収録など、年末まで日本での多忙な予定が詰まっているとのこと。
Zoomにてインタビュー中また、先日情報が公開されたが、来年3月から8月にかけて中国・北京で過去最大規模の教授の展覧会『坂本龍一:观音听时 | Ryuichi Sakamoto: seeing sound, hearing time』が開催される。会場となるM WOODSは本連載第8回で触れた2018年12月に視察に訪れたところ。
「北京での展覧会は、なにより会場が広いのでそのぶん大規模です。ぼくがこれまで高谷史郎さんや真鍋大度さんなどとコラボレーションして作ったサウンド・インスタレーションの作品の9割方は持っていくことになります」
最近は音楽制作にギターは欠かせない本連載第5回でレポートした2018年の韓国・ソウルでの展覧会『Ryuichi Sakamoto Exhibition: LIFE, LIFE』も大規模だったが、使用床面積の単純比較ではその4倍にもなるスケールらしい。これも楽しみだが、やはり憂慮されるのは新型コロナ・ウイルスのパンデミックの今後の行方。
「いま現在だと中国に入国してもやはり2週間の隔離が求められるので(※)、それだと日本から簡単に観に行けないのはもちろん、作業や準備するぼくらも話にならない。大変ですよ。いまのところ中国は新型コロナ・ウイルスの感染を抑え込んでいますが、最近は日本を含む全世界でまた感染が拡大しているから、外国人に対する規制は厳しくなるだろうし、今後まだまだ予断は許されないでしょうね」
次回は年末ぎりぎりに、上記のように新型コロナ・ウイルスに振り回された2020年の最後の月の教授の活動とその感想を取材し、2021年年明けに記事を公開します。
みなさま、今年1年ありがとうございました。そしてよいお年を。みなさまも世界も来年こそは平穏で安全な年になりますように。
(※)2020年11月30日、日中はビジネス目的、長期滞在者に限って自主隔離を免除する往来を再開した。
文・吉村栄一 写真・KAB America Inc.