ビートルズには、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴのほかに、もうひとりメンバーがいた!?
広報担当のデレク・テイラーがいかにグループにとって必要不可欠な存在だったのか、英版『GQ』が迫った。
左上から時計回りに:アップル・フィルムズ責任者のデニス・オデール、ポール・マッカートニー、アップル・エレクトロニクス責任者のアレクシス・マルダス、アップル・コアの弁護士ブライアン・ルイス、アップル・レコーズ責任者のロン・カス、アップル・コアのマネージャーであるニール・アスピナル、デレク・テイラー、ジョン・レノン。1968年、ロンドンのアップル本社にて。
ジョン・レノンは1940年に、ポール・マッカートニーは1942年に、イングランド北部のアイリッシュ海に臨む港湾都市リヴァプールに生まれた。ラジオから流れるエルヴィス・プレスリーなどアメリカのロックンロールを聴いて育ったふたりはそれぞれに音楽的感性を育み、ジョンが1957年に結成した「クオリーメン」にポールが参加し、そのポールの紹介でジョージ・ハリスン(1943年生まれ)が翌年にギタリストとして加わってビートルズの原型ができあがった。リヴァプールのクラブを中心に精力的にライブ出演し、1960年からはドイツのハンブルクへの遠征も複数回行い、夜ごとのステージで揉まれ、ライブバンドとしての実力を身につけていった。
その後、リヴァプールの名店キャヴァーン・クラブにレギュラー出演するようになった彼らの演奏に地元でレコード店を経営していたブライアン・エプスタイン(1934年生まれ)が着目し、マネージャーを買って出たことが世界的な成功物語の始まりとなる。リーゼントに革ジャン、細身のジーンズという不良っぽい服装をしていた彼らにスーツをまとわせ、ステージで一曲を歌い終えるごとにお辞儀をさせるなどしてイメージを一新させたのだ。
荒削りだった演奏や楽曲の完成度を上げることに貢献したのはEMIレコードの音楽プロデューサー、ジョージ・マーティン(1926年生まれ)だ。エプスタインの売り込みで彼らのオーディションに臨んだマーティンは、ドラマーとして技量不足のピート・ベストを退け、リンゴ・スター(1940年生まれ)がその後釜に座った。結果、あの”ファブ・フォー”(すばらしい4人)の物語が幕を開けたのだ。1962年10月5日に英国でデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」を発表してからの快進撃については、改めて説明するまでもなく皆さんよくご存知のことだろう。
では、この記事でスポットライトを浴びるデレク・テイラーとはいったい何者で、どのようにビートルズと関わってきたのだろうか?
デレク・テイラーは1932年にリヴァプールで生まれ、17歳で地元の地方新聞の記者となり、1958年に妻ジョーンと結婚、1962年には全国紙〈デイリー・エクスプレス〉北部版の劇評やコラム担当者としてマンチェスターを拠点に活動するようになる。そうして1963年5月30日に彼はビートルズのライブに出かけ、その場でたちまち彼らの曲に魅了されたことがきっかけで、1964年のコンサートツアーに広報宣伝担当として参加するのだ。
しかし、ブライアン・エプスタインとの仲違いもあって翌65年にはカリフォルニアに家族で移住する。その新天地でフォーク・ロックバンドのバーズや、ロックグループのビーチ・ボーイズと出会い、西海岸バンドの広報宣伝係としてまた世界的注目の渦中に身を置いた。67年には、ジャニス・ジョプリンの熱唱で語り継がれる伝説的野外ロック・フェスティバル「モンタレー・ポップ・フェスティバル」の開催に大きな役割を果たす。
そして1968年、ビートルズのメンバーがアップル・コアという会社を設立した際に、彼は請われてまたビートルズの元に戻り、1970年の解散を見届けた。そしてその後も、ジョージ・ハリスンを中心にメンバーとの親交を保ち、『As Time Goes By』(1973年)などビートルズ関係の著作もいくつか残して、1997年、65歳のときにガンにより死去した。
デレク・テイラーが初めてビートルズの演奏を目の当たりにしたのは、1963年5月30日、マンチェスター・オデオンでのことだった。その日のビートルズとロイ・オービソンの公演について英タブロイド紙デイリー・エクスプレスにコンサート評を書くために出かけたわけだが、若者のロックンロール・グループに偏見を持つ同紙編集部が彼に期待したのは、批判的なレポートだった。
ところが、会場で「フロム・ミー・トゥ・ユー」を耳にしたテイラーは、世界的な社会現象の渦を自分が目の当たりにしていることをただちに自覚する。「私はまだ30そこそこだったけれど、若者たちが巻き起こしつつある現象の真価に気づけないでいるくらいには大人の側に属していた。だがそれも、あの『フロム・ミー・トゥ・ユー』という曲を耳にするまでのことだった」。歓声と熱狂に包まれた会場の人混みを掻き分けて公衆電話に向かい、メモを取り出すこともせずに、心に湧き上がってくる言葉を口述し、それがそっくりそのまま新聞に載った。「ビートルズこそが20世紀の民衆にとっての、いや、時代を超越したオールタイム・ベストのヒーローなのだという認識が世界中に広まりつつあるのだと私は思う」
20年後にも、テイラーはその夜の印象をこう書き綴っている。「ビートルズの真髄は『フロム・ミー・トゥ・ユー』にあるのだと私はずっと考えてきた。ただのボーイミーツガールの曲なのかもしれないけれど、そこには普遍的なメッセージが込められてもいて、いかにもリヴァプール的な直情と温かさでもって表現されていた。妻のジョーンと私はもう若者世代とは呼べない歳だったかもしれないけれど、あの夜から私たちは、心を若く保ちつづけることがもたらしうる可能性を前向きにとらえるようになったのだ」
デレク・テイラーはすぐにビートルズのメンバーや、マネージャーのブライアン・エプスタインと知り合い、メンバーの執筆という名目で彼がゴーストライトするコラム記事の企画が新聞社から持ち上がる。そしてジョージ・ハリスンが名目上の執筆者に選ばれ、記事をめぐるやり取りをつうじてテイラーはハリスンと親しくなり、やがて他のメンバーからも信頼されるようになって、バンドのよき相談役になっていく。
それからもビートルズの人気がうなぎ上りに高まっていくなかで、1964年のはじめにブライアン・エプスタインも、自伝のゴーストライティングをテイラーに依頼する。「ぼくがゲイだということを知っていたかい?」と、テイラーは最初のランチミーティングでそう告げられて、知らなかったと答えると、相手はこう続けた。「それを公表するわけにはいかないから、男の子と夜を過ごしたという部分は、女の子と夜を、というふうに書き換えてもらわねばならない。難しいかね?」。いや、難しくはない。うまくやるから、とテイラーは答えた。
その後、バンドの広報宣伝担当にならないかというエプスタインの誘いにテイラーは飛びつき、全国紙の新聞記者という社会的評価の高い職業を惜しげもなく捨てる。ビートルズ初のアメリカ・ツアーを同行取材させてほしいという彼の切なる要望を、現地記者に行かせれば済む話だと無下に拒んだデイリー・エクスプレスの理解のなさに幻滅したことも大きな原因だった。自分以外の人間に、ビートルズの音楽のよさがわかってたまるかという思いがあった。
そうしてデレク・テイラーはビートルズの内輪の一員となり、ワールドツアーの行程を共にする。「オーストラリアの空港で飛行機のタラップから降りたときなど、まるでドゴール大統領かキリストが現れたかのような騒ぎだった。キリストの身体に触れることで不治の病が治ると信じているかのように、人々が我先にと殺到したのだ」
だがそのうちに、ブライアン・エプスタインの支配的で強圧的なところが鼻についてきて反りが合わなくなり、デレク・テイラーは1964年いっぱいでビートルズから離れる。そして翌年に家族でカリフォルニアに移住し、PR会社を立ち上げて、ビートルズが与えてくれたマジックが続くことにかけた。そしてそのかけは成功する。バーズという結成間もない無名のバンドの宣伝を彼は手がけ、ボブ・ディランの曲をカバーした「ミスター・タンブリン・マン」(1965年)が世界的な大ヒットとなり、テイラーはまた社会現象の渦の中心に身を置くこととなったのだ。
ロジャー・マッギンによる12弦ギターのイントロや美しいコーラスでオリジナルから一変したこの曲は、メンバーの長髪や、南カリフォルニアのサーファースタイルと英国のモッズを組み合わせたような装いとも相まって、新時代の到来を印象づけた。50年代の余韻はいまや完全に色褪せ、ドラッグカルチャーがメインストリームに躍り出たのだ。
テイラーはそれからもビーチ・ボーイズやキャプテン・ビーフハートの広告宣伝に関わり、なかでも1966年に発表されたビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』が英国で高く評価されることに大いに寄与する。サーフィンや改造車を歌うバンドという従来のイメージとは対照的に、内省的な歌ばかりが並んだこのアルバムの本国アメリカでの売り上げは散々なものとなったが、ビートルズの面々に大きな衝撃を与え、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)を作らせたというのは有名な話だ。テイラーはその過程で、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンを音楽的天才とするリブランディング戦略を打ち出す。そして『ペット・サウンズ』の後にリリースされた1966年のシングル「グッド・ヴァイブレーション」は、最初の1枚がレコード店に並んでもいないうちからDJたちの大絶賛を浴び、紛れもないナンバーワンヒットと評価されたのだと、みずからの記事中に記している。
しかしそれでも、テイラーにとってビートルズはあくまで別格のものだった。前述の『サージェント・ペパーズ』の大好評に嫉妬してそれを超える作品を作らねばというプレッシャーからスランプに陥ったブライアン・ウィルソンに、「私にはビートルズこそが不動のナンバーワンで、そこにビーチ・ボーイズの出る幕はないのだ」と冷たく言い放ってもいる。
ビートルズへの彼の思いの丈は、『ビートルズ・フォー・セール』(1964年の)レコードジャケットに走り書きしたメモにありありと示されている。最後にそれを引用して、記事を締めくくることにしよう。「一世代ほどを経た未来のある日、放射能を帯び、葉巻を咥えた、土星でピクニックをしているかもしれない少年たちに、ビートルズとは何だったのかと訊ねられたなら、長髪や金切り声のことを言葉で説明しようとするのはよそう。このアルバムから何曲かを聴かせてやれば、西暦2000年の少年たちは、今日の我々と同じ感慨をすぐさま胸に抱くに違いないからだ」
文・ジョン・サヴェージ
1953年、英国生まれの音楽ジャーナリスト。1977年から英音楽誌『Sounds』の専属ライターとして活躍。1991年に発表した『England’s Dreaming』では、1970年代のパンク・ムーブメントにおけるセックス・ピストルズの役割を伝え、高い評価を受けた。
写真・ジェーン・ボウン
1925年、英国生まれの女性肖像写真家。1949年より英高級紙『Observer』の専属カメラマンとして活躍。自然光を使いモノクロで撮影するのが特徴。マーガレット・サッチャー、オーソン・ウェルズ、トルーマン・カポーティなど、政治家・文化人を撮影した。
EDITOR'S NOTE
5人目のビートルという言い方は、マネージャーのブライアン・エプスタイン、プロデューサーのジョージ・マーティン、あるいはデビュー前の在籍メンバーに対してなされることが多い。しかしこの記事では、広報担当のデレク・テイラーという意外な人物に着目している。