読者のみなさま、新年あけましておめでとうございます。2019年の配信記事第1号は、正月に寄せる「GQ JAPAN」編集長・鈴木正文のWEB版エディターズ・レターです。
元日の朝は梅干しがひとつ入った椀に白湯を注いで飲むというのが、僕が子どもだったのころの「わが家」の習わしだった。新年最初の食事をまえに貧しさを忘れないためだ、と父親はいっていた。そしてそれは、元日に餅を食べないこととセットになっていた。
餅は「ケ」にたいする「ハレ」の食べ物で、日常(ケ)的には食されないものであったといわれる。さしづめそれは、特別な日に着る「晴れ(ハレ)着」の食物版なのである。
元日の朝に白湯を飲みつつ、顔がおもわずゆがむすっぱさに耐えて梅干しを飲み込むと、餅は出ないがご馳走にありつけた。伊達巻や栗きんとんや尾頭付きの鯛といったお節料理で、あっちをつまみこっちをつまみしているうちにも、朝食後にもらえるはずの「お年玉」のことが気になってしかたがないから、おなかがいっぱいになるまでは食べずに、ころあいをみはからって「ご馳走さま」といって殊勝な様子でじっとする。そうしていると、父親から「お年玉」の袋が手渡されるのだった。
そうして、母親からは「晴れ着」のセットが差し出された。初詣に出かけるためのもので、僕が子どもだったころ、というのは昭和の30年代だけれど、そのころはもう子どもの晴れ着も洋装がふつうで、僕の場合は、たいがいはふかふかの真新しいセーターや厚手のウールの半ズボン、というのがその内容だった。餅こそ食さなかったけれど、元日は「ハレ」づくしの、われとわが身の幸福をぎゅっと抱きしめて、抱きしめすぎて息苦しくなってくるような、そんな特別な日だった。
けれど、隣家の、僕よりも2つか3つ年上だった少女は、そんな日にも幸福そうに見えなかった。かの女の父親が乱暴だったからなのか、晴れ着を与えてくれなかったからなのか、子どもの僕にはわからなかったけれど、いつもうつむき加減に歩いているその子がそんな日にもうつむいて、「おめでとう」と声をかけると、まるで不幸から逃げ出そうとしてでもいるかのように、小走りに無言で歩み去ったことをおぼえている。
白湯と梅干しの習わしがつづいていたころの僕の幸福の脇には、隣家の少女の小走りに立ち去る元日があった。かように元日は、一家の団欒ある者にもなき者にも、老いにも若きにも、幸多きにも幸薄きにも平等に訪れて、「ハレ」の日のその輝きによって「ハレ」をいっそうかがやかせ、「ケ」にいっそう濃く深い影を彫り込むのだった。そして、この世には、いまだ埋められていないおそろしい溝があることを、その晴れがましい曙光とともに浮かび上がらせるのである。
いま、2019年の元日が、僕たちの目の前にある。それぞれに小さかったり大きかったりする不幸をかかえ、小さかったり大きかったりする幸福をあたためる僕たちは、いまいちど、人の世の旅の一里塚にさしかかったわけだ。
妻を結核で亡くした39歳の有島武郎が、残された4歳、5歳。6歳の3人の幼な子に向けて書いた『小さき者へ』という悲痛な短編がある(初出は「新潮」1918年1月)。このなかで有島はいう。
「お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生まれると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前たちの人生はそこで既に暗い。(…中略…)お前たちは不幸だ。恢復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ」
有島はこれを書いた6年後、45歳のときに、「婦人公論」の美人記者だった人妻の波多野秋子と心中死する。母を失った「小さき者」たちは、こんどは父も失う。この「不幸なものたち」は、そのときそれぞれ、10歳、11歳、12歳にすぎなかった。
「私の一生が如何に失敗であろうとも、又私がいかなる誘惑に打負けようとも」と、有島は『小さき者へ』で書く。「お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ」と。「前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ」と。
有島の最期に照らせば、「小さき者」「不幸なものたち」への呼びかけと励ましの悲痛はさらにきわだつ。「小さき者」「不幸なもの」とは、有島その人でもあった。そして、僕たちもまた、どこか有島か有島が残した幼い子のようではないか。
元日の朝、こもごも交錯する感情に身を預けて、ことしは久々に白湯に梅干しの椀を膳に置くとしようか。新年、おめでとうございます、と軽くつぶやきながら。