2019年、一世を風靡(ふうび)した映像作品はいくつかあるが、その中でも欠かせないのが『全裸監督』であろう。この脚本チームに中心人物として参加したのが、山田能龍(やまだ・よしたつ)氏だ。幼い頃からリーダー的存在でサッカーに打ち込んでいた少年が、なぜ今、演劇や映像の世界で成功を収めているのか。これまでの道のりを伺った。
“みんなが知ってる人気者”だったサッカー少年
小・中・高から大学時代までを振り返ると、文武両道で活発、クラスのリーダー的存在だった同級生が一人は思い当たるのではないだろうか。山田能龍氏は、そんな太陽のような人物だった。
好きなスポーツはサッカー。実力はJリーグのチームに籍を置き、地元である大阪府で知られるほど抜きんでていた。しかしいわゆる“スポーツバカ”ではなく、勉強も得意であった。
「半魚人というか、スポーツと勉強を両立させてました」
とくに国語が得意で、授業の一環で新聞の社説欄を書き写すよう言われると、クラスメイトたちが手を抜くなかでも真摯に取り組んだ。社説欄は花形で内容も難しく、初めは何が書いてあるかわからなかったという。しかし書き写し続けるうちに子どもながら中身が理解できるようになった。
このように日常的に子どものころから洗練された文章に触れていた経験は、今の彼を形作るひとつの要因となっているのかもしれない。
そしてこの頃、音楽への造詣も深めていく。
「家ではよく、ヤングタウンやFM802のOSAKA HOT 100といったラジオを聴いてました。一番好きだったのはロックですが、ジャンルは問わずいろいろな音楽に触れました」
音楽を好きになったのには、もう一つ理由があった。彼の幼馴染も、後にミュージシャンになるほどロックが好きだったのだ。一緒にフレディ・マーキュリーが亡くなった際のクイーンのトリビュートコンサートのVHSを幾度となく観ていたという。
この幼馴染が、実は落語家・桂枝雀(2代目)の息子である前田一史氏(CUTT)だった。彼の家の地下室には音楽を始めるのにはうってつけのドラムセットやピアノなどが一通りそろっていたため、そこで歌ったり演奏したりするのが、当時の遊びの日課となっていた。前田氏との「表現をして遊ぶ」という日常が、大きな影響になったようだ。
「彼の部屋を訪れるときには、必ず桂枝雀師匠が稽古している姿を覗き見て、三味線の音色を聴いていました」
明るくスポーツも勉強もでき、音楽も好きだった山田氏は、小中高ともちろんクラスの人気者。休み時間になると外でアクティブに遊び、彼を中心に輪ができた。
「最近は、アーティストというと高校や大学に通っていた時代は劣等生で、当時溜めていたマグマをスパークさせるという話も多いじゃないですか。でも、自分はそういうタイプではなかったんですよね」
しかし山田氏の生活に、一点の曇りもなかったわけではない。学校では一番の人気者だった彼だが、家庭は複雑な環境であまり裕福でもなかったという。
「家では悲しいこともたくさんありました。だから劣等感がバレないように、自分は常に何かを勝ち得ている人間でないといけないと思っていたんです」
サッカーから逃げた先で見つけたお笑いという宝物
あらゆるジャンルで人より抜きんでていた山田氏であったが、本筋はサッカーだった。事実、中学では全国大会に出場し、高校ではガンバ大阪のユースに所属していたほどの実力の持ち主。自分自身も、そして周囲の人間も、彼が将来プロサッカー選手になることを疑っていなかった。
しかし、思いがけず事態は変わっていく。高校3年のとき当たり前だったレギュラーの座が、少しずつ得られなくなっていった。熾烈な生存競争の中で、後輩の選手にポジションを奪われていったのである。
「勉強もスポーツも己の力で秀でることができて、ある意味ではずっとエリートみたいだったんです。つまづいたこともないまま生きてきたのに、プロに向けての進路が決まる直前のこの時期に、生まれて初めて挫折を経験したんです」
キラキラした道を歩んできた山田氏は、それを受け入れることができなかった。サッカーから逃げ、“腐って”いってしまったという。そんな彼を受け入れるような仲間もいた。当時はまだ珍しかったピアスを開け、サッカーからはどんどん離れていった。
「俺はこういうカルチャーの方にいってるだけだから。負けてねえから。と、思っていたんです。そうやって逃げたんですが、逃げても心は埋まらないんですよ」
逃げて、逃げて、逃げた先にあったのが、お笑いという存在だった。当時、大阪ローカルで『爆笑BOOING』というゴングショー番組があり、そこに出演していた芸人が大阪の街で爆発的な人気を得ていたのだ。山田氏は、その番組とお笑いのとりこになった。
もともと興味を持つと止まらないタイプだったこと、そしてサッカーから逃げて生まれた心の隙間を埋めてくれたこと。この二つがきっかけとなり、どんどんお笑いにはまっていった。
あるとき、自分が笑わせる立場になることもできると気がついた。サッカーから逃げた今、代わりの“すごいもの”にならなきゃいけない。そんな焦燥感にも駆られながら、お笑いの道に踏み出した。
逃げた先だったお笑いと正面から向き合う
お笑いの道を志した山田氏は、大阪で松竹芸能のオーディションを受けた。数百名が集まる中、見事合格して事務所に所属することに。吉本興業ではなく松竹芸能を選んだところにも、理由がある。
「松竹を選ぶ人、みなさんがおっしゃるんですが、吉本はお笑いの層が厚い。先輩たちを何人も抜かなきゃいけない。でも僕は心の穴の埋まらなさからお笑いの道に入ったので、すぐに何かにならないと格好悪いと思って」
周りから、「サッカー選手にはならなかったものの、違う道で成功している」と思われたかった。だからこそ、即戦力を求めている松竹芸能を選んだのだ。
新たにコンビを組んでお笑い芸人としてのキャリアをスタートさせてすぐの頃、芸歴が上の先輩を見て「大した事ない」と勘違いしていた。しかしそんな先輩たちが笑いをとるなか、自分はまったく結果を出せなかった。
1年半ほど通ったものの、売れる兆しがまったく見えなかった。もともとサッカーから逃げてお笑いの道に入ったこともあり、粘り腰で挑む意欲もない。そこで達した結論が「1年くらい、タガが外れたように遊ぼう」というものだった。
そして山田氏は生まれ育った大阪を離れ、湘南に向かった。そこでパーマをかけ、車を買い、酒を飲んだりナンパをしたりと生産性のない時間を一年間過ごしたのである。
だがやはり、この生活ではサッカーによってポッカリと空いた心の穴は埋まらない。年齢的なタイムリミットも感じ、もう一度お笑いと向き合うことを決めた。
そこから活動の場を大阪から東京に移し、事務所もサンミュージックに移籍した。そこで舞台を踏み、ようやく芸人と呼べるような活動ができるようになっていった。
お笑いの先にあった演劇と脚本
事務所では、お笑いコンビ・ブッチャーブラザーズの二人にかわいがってもらっていた。この二人と親しくしていた先輩が、ダンカン氏である。
ダンカン氏はブッチャーブラザーズを売り出すため、劇団東京サギまがいというプロジェクトを開始。これこそが、芸人・山田氏が現在の道へと進むきっかけの一つになった。
「四谷三丁目の稽古場で、僕ら若手芸人が稽古をしていました。その隣では劇団東京サギまがいの方たちが稽古をしていたのですが、ある日、ダンカンさんが入ってきて。自分だけ、急に隣の稽古場に連れていかれました」
ちょうどダンカン氏は、背が高くて細長い体型の役を務められる人材を探していた。そこで見つけた人材こそ、山田氏だったのである。そして山田氏は初めて演劇に出演することになった。
初めは「自分は芸人だ」という意識もあり、複雑な心境だった。でもいざやってみると演劇では客を笑わせるだけでなく、感動させることもできることを知り、おもしろさを感じた。
これをきっかけにダンカン氏に気に入られ、その後の公演の脚本についてもいろいろと話すようになった。そのうちに「お前、おもしろいから何か書いてみたら」と言われるようになる。
そして26歳の頃、共作のような形で作品を生み出すと高い評判を得た。シティーボーイズや大人計画、ラジカル・ガジベリビンバ・システムなどの雰囲気に惹かれていた山田氏は、ダンカン氏の作品にこうした新しいテイストを加えていったのである。
その一方、まだ芸人としての活動も並行して続けていた。そんななかで本格的に演劇へ打ち込むきっかけとなったのが、当時注目度の高かったとあるテレビ番組。番組スタッフが「呼びたい」と思った実力のある若手しか呼ばれないと噂のあった番組だった。
そのオーディションに、芸人としてお声がかかったのである。そこで山田氏は決まっていた別のテレビの企画も捨て、1か月かけてネタを作り込んだ。しかし、オーディションに通ることはなかった。
「当時の相方と自分で作った、一つの妥協もない渾身のものをぶつけてまったくダメでした。この時に、相方と新橋の蕎麦屋でもう厳しいかも…と話しました」
こんなに精いっぱいやったもので負けたなら、もう道はないのではないかと思えた。そこから、並行していた演劇の世界に突き進んでいく。
「お笑いを始めたのは、サッカーからの逃げでした。でも今回は、そうじゃない。しっかりやったうえで、向いてない! とすがすがしく負けて、演劇を頑張ろうと思えたんです」
演劇に本腰を入れた山田氏の作品は、客からの評判もすこぶる良かった。あるとき、劇団のメンバーから若手公演をしたいと提案があった。山田氏が作家を務めたその作品が見事、日本演出者協会主催「若手演出家コンクール」で優秀賞を獲得したのだ。
演劇の本流にはいない自分が生み出したものが、権威あるコンクールで評価されるんだという感触を得た山田氏。この出来事が、独立へとつながっていく。
演劇の世界で独立、ヒット作品の脚本家とマルチに活躍
若手公演を共に成功させたメンバーからは、コンクールをきっかけに独立を強く勧められていた。ダンカン氏にたくさんのことを教わった山田氏は波風を立てたくないという思いがあったものの、当時「ダンカンさんのところの、おもしろい子」とよく言われていたこともあり、この枕詞がこの先もつく人生ではなく、自分の人生を生きようと思ったという。そして若手公演を作ったメンバーを中心に、山田ジャパンを旗揚げした。
劇団にいるときから「若手の番頭」といった存在で、昔からのリーダー気質を発揮していたため、違和感はなかった。そして若手とはいいつつも、10年近い芸歴を持つ人間が集まっていたため旗揚げした直後からハイクオリティな作品を作り上げた。
業界での認知度をメキメキと上げ、東京だけでなく大阪などでも公演をするようになった頃、周りから映像をやらないのかと言われるようになった。山田氏は実演に興味を持っていたのでその気はあまりなかったが、ある人物との出会いにより新しい局面を迎える。
その人物こそ、後に映画『新聞記者』で2019年度日本アカデミー賞最優秀作品賞を獲得することとなる藤井道人氏だった。山田ジャパンの『ブルーギルの計画』という作品を観て一発で気に入った藤井氏は、自身がプロデュースを務める作品に脚本家・監督として参加しないかと山田氏に声をかけたのだ。
この作品により、山田氏は初めて映像作品に携わることになる。
「舞台はひと月かけて体に落としていきますが、映像では限られた時間の中できっちり画を撮っていくことが求められます。いろいろな場面で迷いはありましたが、女優の武田梨奈さんやドランクドラゴンの塚地さんなど出演者に恵まれて、自分なりの演出ができました」
その後、Netflixとテレビ東京による『100万円の女たち』というドラマの企画が決まった。監督を務める藤井氏が「この原作の雰囲気は、『ブルーギルの計画』に似ている」と感じたことから、山田氏に再び声がかかった。複数名の脚本家とチームライティングする形で進められ、山田氏は作品はもちろん、このチームのいわばまとめ役としても活躍した。
RADWIMPSの野田洋次郎氏が主演したこの作品は、日本だけでなくアジアのNetflixで人気を博した。この実績が、あの怪物作品『全裸監督』への参加につながっていったのである。
かつてのサッカー少年がつかみ取った自分のポジション
日本のNetflix市場において最大の成功作品の一つともいえる『全裸監督』。当初から肝いりの企画だった本作では、脚本家の一人に内田英治氏を、主演に俳優・山田孝之氏を迎えることだけが決まっていた。
その段階でプロデューサーである坂本和隆氏が共同脚本の一人として連絡をしたのが、ほかでもない山田氏であった。
「社をかけて勝負する作品があるから、入ってくれないかと言われました。ただ、何かほかの仕事と並行せずにやってほしい。この企画にすべてをかけてくれませんかと言われ、やらせていただきますと答えたんです」
その時の気持ちは、まるで日本代表に召集されたようだったという。かつてサッカーで日本代表になることを諦めた少年が、映像の世界で大舞台に立つことになった。もはやこの作品がどれだけの成功を収めたかについて、改まった説明は不要だろう。山田氏は代表に選ばれただけではなく、見事に“勝利”を得たのであった。
後編では、山田氏が普段愛用する7つ道具から、マルチでパラレルに仕事をこなす秘訣に迫る。
取材後記
お笑いでうまくいかず「1年、タガが外れたように遊ぼう」と決めたとき、手元にそれだけのお金があったわけではない。1か月間、京都で住み込みのトンネル工事の仕事をし数十万円を貯めたという。若手公演での受賞や『全裸監督』などの成功ももちろんだが、こうした一見なんでもなさそうなエピソードからも、山田氏の「やると決めたらやり抜く強さ」を垣間見ることができた。
山田能龍さんの紹介
山田能龍/脚本家・演出家
1976年生まれ、大阪府出身。劇団山田ジャパン主宰。2008年6月に『ゲーセン下ル』で日本演出者協会主催の若手演出家コンクール2007で優秀賞を受賞。2017年 に『100万円の女たち』の脚本、2019年にNetflix配信『全裸監督』の脚本を担当。『全裸監督』に引き続き2021年配信予定の『全裸監督S2』の脚本も引き続き担当。