連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人、試合を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、90年代に20年の時を超えてオランダに現れたチーム、マイティ・アヤックス。その仕掛けと魅力について綴る。
上写真=中盤のボトムで獅子奮迅の活躍を見せたライカールト(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
第二次黄金期の到来
一周回って最先端――。そんなイメージすら、あった。
決して時流に乗らず、自分たちの信じる哲学を頑固に守る。良いものに新しいも古いも、ない。
その見本が、オランダきっての名門アヤックスだ。1990年代前半、彼らの操るガラパゴス的なシステムが、ヨーロッパを席巻することになった。
巨星ヨハン・クライフを擁し、第一次黄金期を築いた1970年代から、およそ20年。最強クラブの称号が再び、アヤックスの手に転がり込んだ。連戦連勝。最盛期は、それこそ向かうところ敵なしだった。そんな第二次黄金期のチームを、人々はこう呼んだ。
『マイティ・アヤックス』
転機は1991年。アシスタントコーチから監督に昇格した男がチームを大きく変えていく。 のちに名将と呼ばれるルイス・ファンハールだ。
同年夏に40歳になったばかり。監督経験こそなかったが、人一倍の野心と探求心があった。規律を重んじ、独自のシステム(布陣と戦術)に頑なにこだわる。試合そっちのけでメモを取る姿から、妙に上から目線の発言まで、異端の香り漂う人だった。
当時のオランダと言えばPSVの「一強」時代。1980年代の後半から、国内リーグのタイトルをほぼ独占していた。だが、ファンハールの就任を機に両クラブの力関係が逆転していく。まず、アヤックスは1992年にUEFAカップを制覇。そして、1994年にいよいよ新たな黄金時代の幕が上がる。
エールディビジ(国内リーグ)で3連覇。特に圧巻だったのが、1994-1995シーズンだ。実に27勝7分け。一度も負けずにタイトルを手中に収めた。いや、それ以上の快挙は、オランダ王者として参戦したUEFAチャンピオンズリーグ(CL)の優勝だろう。こちらも無敗のまま頂点まで駆け上がった。
ファイナルの相手は連覇を狙うイタリアの強豪ミラン。そして、彼らの前に悠然と立ちはだかったのが、この試合で現役を退くことになる『マイティ・アヤックス』のアイコン(象徴)だった。
ダブルリベロの「狭殺」
ファンハール率いるアヤックスはとても若く、躍動感に満ちていた。平均年齢は、23歳以下。10代の選手も少なくなかった。実績のないファンハールが若い選手を好んで使ったのも当然だろう。経験の浅い若手は、良い意味で「洗脳」しやすいからだ。
もっとも、戦術上のキーパーソンは、彼らではない。すでに30歳を過ぎた2人のベテランだ。1人はリベロのダニー・ブリント、もう1人が歴戦の勇者、フランク・ライカールトだった。後者は1980年代の後半から一時代を築いた最強ミランの心臓として、あまりにも有名。ファンバステン、フリットとがっちり手を組んだ『オランダ・トリオ』の一角でもあった。
身長190センチ。運動能力にすぐれ、攻守の両面における存在感は圧倒的だった。球の奪取力と展開力はもとより、得点力も兼ね備える万能ぶりは、明らかに未来を先取りしていた。そんな大駒が、1993年夏に古巣のアヤックスに復帰。ピッチの内外で若い選手たちの良き兄貴分、いや、それ以上の存在(父)として君臨することになった。
さらに、戦術面における影響力も絶大だった。
アヤックスのシステムは、異端の3-4-3。クライフが監督を務めた1980年代の半ばに導入され、のちにファンハールが引き継いだ格好だ。オランダ代表でも1992年のEUROで名将リヌス・ミケルスが同じ3-4-3システムを用いて戦っている。当時は2トップ・システム(4-4-2フラット)の全盛期。相手が2トップなら、後ろは3人(3バック)で十分という考え方だった。
そして、3バックの中央(リベロ)をブリントが担い、その前方に重鎮ライカールトが陣取った。4人がダイヤモンド型に並ぶ中盤のボトム(底)だ。ポジションの表記はMFだが、その機能はフォアリベロに近い。言わば、一列上がった「センターバック」でもある。
実際、クライフは3-4-3の「4」の底に入る選手を、しばしばそう呼んでいる。2人のリベロを縦に並べる独特のタンデムが、このシステムの特徴だった。だから相手が3トップでも困らない。3バック+フォアリベロで危険なゾーンにおける数的優位を確保できるからだ。
敵のFWを前後から挟んで排除するダブルリベロの「狭殺」が、くさびのパスを寄せ付けず、攻めの威力を半減させる。一見すると危うい3バックの秩序は、こうしたカラクリで保たれていた。
12個のトライアングル
移籍したベルカンプの後を受け、攻撃の中心としてプレーしたリトマネン(写真◎Getty Images)
異例とも言うべきアヤックス式3バックの両端(左右)は原則、サイドバックが担っていた。これなら、自由に4バック(3バック+フォアリベロ)へ転換できる。センターバックを3人並べたら、こうはいかない。
合理的と言えば、3-4-3の並び自体もそうだ。ひし形が縦に3つ重なった陣形には、複数のトライアングルが用意されている。その数、12。あらゆるシステムの中で最多である。このトライアングルを使えば、パスを回しやすい。そして、この整然と重なったトライアングルに最も多く関与できるポジションが2つある。3-4-3の「4」におけるトップとボトムだ。
ボトムがライカールトならば、ダイヤモンドヘッド(トップ下)の担い手は、フィンランドの俊英ヤリ・リトマネンだった。彼らこそ、前後に並んだ司令塔と言ってもいい。ライカールトは組み立ての局面、リトマネンは崩しの局面における「始点」だった。
リトマネンが定位置をつかんだのは、ファンハール政権3年目。イタリアの名門インテルへ移籍した奇才デニス・ベルカンプの跡目を継いだ格好だ。
そのシーズン、エールディビジでゴールを量産し得点王を獲得。翌シーズンのCLでもゴールラッシュを演じて、破竹の進撃を先導している。もっとも、その機能は多岐にわたり、俗に言う「シャドーストライカー」の域をはるかに超えていた。
当時のアヤックスは、リトマネンを含め、マルチな能力を発揮するゼネラリストの集まりだったと言っていい。双子のデブール兄弟の弟ロナルドには、FWとMFのすべてのポジションを難なくこなす適応力があった。アヤックスの育成システムが、そうした人材を計画的に輩出している。いかにも、全員攻撃・全員守備の『トータルフットボール』を世に送り出したオランダの名門クラブらしい。
トータルフットボーラーの存在なくして、トータルフットボールは成立しえない。そこに数少ない例外があるとすれば、スペシャリストに近い逸材を擁する、伝統のポジションだった。
正統派のウイング
縦への仕掛けで違いを生み出したオフェルマルス(写真◎Getty Images)
当時のアヤックスが異端視される最大の要素は、これに尽きるのではないか。
翼(ウイング)である。
最強ミランの定番システムだった4-4-2フラットの全盛期。「ウイングレス時代」と言い換えてもいい。本格派のウイングは、すでに1980年代の半ばあたりから、絶滅危惧種だった。
そこで敢然とウイングを復活させたのがクライフだ。バルセロナ(スペイン)の監督時代もそうだが、始まりはアヤックスを率いた時代である。ファンハールのチームは、その流れを汲んでいた。右の翼はナイジェリアの韋駄天フィニディ・ジョージ、左の翼はオランダの彗星マルク・オフェルマルス。どちらも、縦への仕掛けが強力な大駒だった。
現代のウイングは、カットインから直接フィニッシュを狙う仕事が期待されている。そのために、右の翼に左利き、左の翼に右利きを据えるケースが一般的だ。
だが、当時のアヤックスは違っていた。縦に仕掛けて、クロスを狙う。伝統的なウイングだ。左翼のオフェルマルスは本来、右利きだが、左足も使えた。斜めに切れ込み、利き足でシュートを打てる点で選択肢の幅は広かったが、ファーストチョイスは、あくまで縦への仕掛けだった。
「サイドを深くえぐり、マイナス気味のクロスを送る。サッカーでは、これが最も点になりやすい」
そう語ったのは、クライフだ。また、こうも言っている。
「1対1で縦に抜くのは簡単ではないが、成功すればビッグチャンスだ。たとえ失敗しても、中央のエリアと比べれば、カウンターをまともに浴びる危険も少ない」
ローリスク・ハイリターンというわけだ。肝心のクロスの終着点も「質と量」の両面がそろっていた。質の面では、ハイ・アンド・ロー、どちらのクロスにも対応できる格好のターゲットがいた。センターフォワード(CF)の適材たるパトリック・クライファートとヌワンコ・カヌだ。前者は188センチ、後者は197センチ。どちらも長身ながら、足元の技術にも卓越していた。
まさしく、空陸自在。のちにアヤックスで台頭する若き日のズラタン・イブラヒモビッチも、このタイプ。本格派ウイングとの相性は抜群というわけだ。
また、彼らの後方からボックス内へ走り込むMFが3人もいる。トップ下と左右のインサイドMFだ。ウイングの支援に回るボールサイドのMFを除いたとしても、3人のうち2人がCFと協力してフィニッシュに絡んでくる。量の面でも、申し分なかった。
現代版クロックワーク
94-95シーズン、途中出場したクライファートの得点によりミランを1-0で下し、チャンピオンズリーグ優勝を飾った(写真◎Getty Images)
トライアングルを使ってパスを回し、最終的には左右のウイングに勝負させる。そうした攻め方にリスクがないわけではない。
看板のウイングが1対1で負け続ければ、ほぼ手詰まりだ。しかし『マイティ・アヤックス』は、決してサイド攻撃一辺倒のチームではなかった。
CFのポストワークを使って、高密度で連動し、中央の壁をこじ開けるコンビネーションを持っていた。その完成されたアクションは、まるでクロックワーク(時計じかけ)のようだった。
まず、CFがくさびのパスを受け、背後に落とす。この球をワンタッチでゴール前に転がすと、そこにこつ然と現れた「第3の男」がフィニッシュに持ち込んだ。
いわゆる『3人目の動き』である。ファンハールのチームでは、それが徹底されていた。ウイングも例外ではない。
味方のパスを足元でもらう以上にスペースへ走り込んで受けている。しばしばスピード勝負に転じて突破の確率を高めてもいた。
CFの落としも、それを前へとさばくパスも、ほぼワンタッチ。しかも、球の転がる場所に「3人目の男」が先回りしている。相手ディフェンスは、そのスピードについていけなかった。
極端に個の力に依存することのないコレクティブなスタイルは、第二次黄金期のアヤックスの一大特徴。いかにも「スター嫌い」を公言していた指揮官のチームらしい。ある意味、共産主義的、社会主義的なサッカーだった。
やがて指導者(ファンハール)の「独裁」が際立つようになるのも必然か。それ自体の良し悪しはともかく、極めて現代的なチームだったのは確かだろう。
他国の指導者にも多大な影響を及ぼし、当時のアヤックスの試合映像をかき集め、徹底的に分析した指導者が、にわかに頭角を現すことになる。マルセロ・ビエルサ(アルゼンチン)だ。
彼もまた、ファンハールに通じる『マルクス主義的サッカー』の担い手だろうか。尖ったキャラを持つスターのいない一団を強者へ仕立てる手腕に卓越している。
理想のシステム(組織)が先にあり、その枠組みに収まる限りにおいては、スターにも居場所はある。例えば、アリエン・ロッベンのようなウイングのスペシャリストが、そうだ。
あらかじめ、システムの枠組みに収まるように育成されたタレント群あっての伝説。外から有能な傭兵をかき集めただけでは、おそらく『マイティ・アヤックス』は生まれていなかった。
いかにコピー(転用)しがたいシロモノか――。監督業を退くまで、ついにあの域に迫るチームをつくれなかったファンハールこそ、その難しさをよく分かっているはずだ。
ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。