秋三夜「男を見る目がある女」
港区の一等地にある新築タワーマンションで、私は新婚生活をスタートさせることになった。
3LDKで2億8千万――。
共用部にはジム、ラウンジ、パーティルームにゲストルーム。1階には託児所もあり、エントランスに流れる水のせせらぎが住人を癒してくれる。
選ばれた者しか住むことができないこの場所で、新生活を始められるなんて…。
― 私ってば、前世でとんでもなくイイコトでもしたのかしら。
だって、そうとしか思えない。
何か特別な才能があるわけじゃない。血のにじむような努力をしたわけでもない。
特筆すべきものがあるとすれば、結婚すべき男の人を見極める能力がある、といったところだろうか。
東京には、とびきりキレイな独身の20代女子はたくさんいるが、男を見る目がある子はあまりいない。
美人だけではダメ。
男を見る目が備わって、女は初めて結婚の最適解を導き出すことができる。
港区に生息するたいていの女の子は、やれ外銀だ、IT経営者だと同じ狩場に群がっていく。
私は逆に張った。港区女子たちの狭い世界に早々に見切りをつけ、経営者セミナーや不動産運用勉強会に出入りする。そこで人脈を広げていき、ついに港区界隈には一切出現しないツチノコ男の捕獲に成功した。
新居に引っ越してきて3日目、眩い夜景をベランダからうっとりと眺める。
「シンちゃん、私、本当に幸せ。こんな素敵なところで暮らせるなんて」
それは、偽りのない私の素直な気持ちだ。彼の貧相な体つきも、流行りのお店ひとつ知らない堅物ぶりも、この新居の中ではまったく気にならない。
「僕も、茉莉と結婚できるなんてホントに幸せ」
真面目な彼と私の間には、隠し事なんてなかった。
でも、このマンションに引っ越してから、たった一つだけ、私にはシンちゃんに秘密ができた。私は昨日の「事件」を、ありありと思い出していた。
茉莉が出くわしてしまったある人物が、平穏な日々を侵食していく…?
世慣れた女癖の悪い男VS真面目だけどつまらない男
「もしかして、茉莉!?」
タワーマンションの行先フロア別のエレベーターは、ちょっとした自尊心のぶつかりあいだ。
昨夜、私は意気揚々と5つあるうちの2つ目の高層階用に乗ろうとして、呼び止められた。
「…け、賢治さん?」
「うお、久しぶりだなあ、元気か?…3年?4年ぶりか。なに、もしかしてこのマンションに住んでるの!?」
あまりにも陽気に話しかけてくるから、私は思わず周囲を見回して、慌てて歩み寄った。
「そう、先月入居して…。賢治さん、もしかしてここ、買ったの?」
「そうそう、だって東京で話題のマンションだもん、一回は住んでおかないと」
相変わらずの様子を見て、一気に、4年前、20代半ばの記憶が流れ込んでくる。
彼、我妻賢治は、わたしが「逆に張る」前、23歳から26歳まで付き合っていた男だ。
「俺、38階に住んでるからさ、ご近所さんとしてよろしくね。またな~」
賢治さんは拍子抜けするほどあっさりと手を振り、最上エリア行きのエレベーターに乗り込んでいった。
間取りによっては我が家より1億円も高いフロアだ。IT企業の創業者として、どうやらいまだに順調なようだ。
― まだ、あの当時の奥さんと続いてるのかしら。まあ、顔も名前も知らないけどね…。
私は、テンションが急落したのを自覚しながら、20~29階行のボタンをカツカツと連打した。
◆
「茉莉、そういえばフランス語教えるの、どうなった?SNSの集客ってうまくいくのか?」
プラチナ通りにあるレストランで週末恒例のブランチ中に、シンちゃんが、穏やかに微笑みながら尋ねてくる。
「レシピ付きでフランス式アぺリティフを楽しみながら、フランス語も勉強できるっていうのが、このあたりの女性にハマるみたい!
けっこう反応いいのよ。さっそく何人もDMくれて。人数集まりそうなときは、このマンションのキッチン付きパーティルームにするつもり。4人までだったらうちでもいいし。出張のリクエストもあるのよ」
ビル管理業を継いでいる彼は、介護施設運営があたりはじめ、なかなかに多忙だ。この時間は貴重な夫婦の時間なのだ。
「さすが茉莉。SNSを使って集客すると、紹介料とか取られなくて理想的だね」
「そうなの。インスタのフォロワーは3,000人いるし。一度来てくれた人が、インスタに動画とか写真あげてくれて、そこから広がるってことも意外にあるんだよ。
でも、そのぶん個別のリクエストにある程度答えなきゃだから、たまに夜もいないことあるけど、軌道に乗るまで許してね」
私はすかさず両手を合わせ、申し訳なさそうな表情をつくる。
私の父は航空会社勤務で、小学生の頃4年間パリに駐在していたので、フランス語を多少しゃべることができた。
アぺリティフで出すちょっとしたオードブルははっきり言って素人の手習いだ。大学時代、夏休みに4週間南仏に行って料理教室に通ったので、その時のテキストからそれらしいものを抜き出してくる。
インスタ映えする盛り付けのほうが、味よりもずっと重要なのだ。
だけど、それらを生かして仕事をしたいと言ったのは、なにも小銭を稼ぎたいからじゃない。
仕事という口実を作っておけば、堅物のシンちゃんにいちいち許可を取らずに、自由に出歩くことができると思ったから。
そう、彼は男ざかり、35歳の富裕層。やり方次第でいくらでも遊べるというのに、今まで会った誰よりも真面目な男だった。
そんなガチガチの彼の「理想的な妻」でいるためには、ある程度息抜きのシステムを作っておく必要がある。
「明日、さっそく新しい生徒さんたちと、このマンションのラウンジで会うの。楽しみだわ」
遊ぶための口実をつくることができた達成感でいっぱいだった私は、明日どんな生徒がくるか、なんてことは気にもとめていなかった。
タワマンに引っ越した直後、妻にできた秘密とは!?
男を見る目
「ああ、参加してよかった!初めてだから緊張していたけれど、茉莉先生ってほんとに優しくてかわいいから、とっても楽しかったわ」
今日の生徒は、お友達同士で申し込んでくれた亜香里さんと聡美さん。私よりも少し年上の二人組で、聡美さんは、このマンションの住人だ。
「こういうオシャレな前菜を、ぱっと作れるといいですよね。食材が手に入るショップリストつきレシピも最高!」
「亜香里さんと聡美さん、今日はありがとうございました。また、ぜひ参加してくださいね」
白金マダムたちにご満足いただけたようで、私はほっと胸をなでおろす。
「今度は、茉莉先生がさっき話していたキッシュの作り方も教えて下さい!主人のお友達が来た時、華やかになりそう」
「そうですね、生クリームとオニオンをたっぷり入れると美味しいですよ。ここにはオーブンがないから、生徒さんが4人くらいになったらうちで今度やりましょう」
私は頭の中で素早く計算した。
初回なので自宅ではなくラウンジにしたが、どうやらまともなお客さんのようだ。これならコストもかからないし、自宅でもかまわないだろう。
適当な食前酒を持ち込んで、キッシュを焼いている間にフランス語会話をちょっと教えて、試食つきで一人1万円。生徒4人、2時間ならば悪くない。
「わあ!楽しそう!でも先生のご主人はご迷惑じゃないかしら?私の夫なんて、最近テレワークでぜんぜんお友達呼べないの。まあ、経営者だからもともと自由な感じなんだけど」
聡美さんがつまらなそうに話す。
経営者ときいて、ぎくりとする。このマンションに住む、賢治さんのことが頭をよぎる。
「…聡美さんのご主人は、会社を経営なさってるんですね。どんな分野なんですか?」
不自然に聞こえなかっただろうか。でも、とにかくITじゃないということがわかればそれでいい。
「んー、なんか専門的な感じ。私にはよくわからないんですけどね」
はぐらかしているのか、それともただのんきなバカ妻なのか。インスタのDMからの申し込みだから、聡美さんのフルネームはよくわからない。
まあ、その気になってインスタをじっくり見れば、夫の素性はわかるだろう。念のためにあとで確認しておかなくては。
こんな心配をしなくてはならないのも、賢治さんが同じマンションなんかに住んでいるせいだ。
でも、夫にバレる可能性を考えれば、用心に越したことはない。
もし露見すれば、夫は私を軽蔑するだろう。妻が不倫していた過去があり、よりによってその男が同じマンションだなんてバレたら、問答無用で離婚な気がした。
私は、いっそう注意しようと固く誓ってから、紅茶を一口飲む。
◆
「うわあ、茉莉先生のお家、想像どおりの素敵!」
2週間後。聡美さんと亜香里さん、そして彼女たちのお友達2人が、我が家のリビングに入って歓声をあげている。
結局、聡美さんのご主人は人材派遣会社の経営者で、賢治さんとはなんの関係もなかった。私はすっかり警戒心を解いていた。
実はまだ1パターンしかない渾身のテーブルセッティングだが、こだわりの照明が照らしている様子は、我ながらセンスがいい。
SNS用に5人で写真を撮ってから、私は彼女たちをダイニングに座るように促した。
「茉莉先生、私たちがお料理しているとこ、少しだけインスタライブしていいですか?茉莉先生のサロンもタグづけしたら、宣伝になるかも」
にこにこしながら、亜香里さんが提案をしてくれる。
「じゃあ、みなさんがキッシュをオーブンから出すところにしましょう。私撮りますよ」
そう言って、私は亜香里さんから、iPhone受け取って構える。
彼女たちは、え!インスタライブ!?と騒ぎながらキッチンカウンターの向こうに移動する。
「亜香里さん、もしよかったらうちのWi-Fiつなぎますね。インスタライブだったらそっちの方がいいでしょ」
親切心から設定をタップし、一時的につなごうとしたとき。
私の目が釘付けになる。
Wi-Fiは、すでに我が家の回線とつながっていた。
― え、待って、どういうこと…?マンションの共有じゃないし、うちのルーターのパスワードがわからないと、つながらないよね…?
動揺したが、なぜか咄嗟にそれを悟られてはならない気がして、無理に笑顔をつくると動画を撮影した。
「茉莉先生、ありがとう。これを見たら、私の彼も、いい奥さんになるなって思ってくれて、プロポーズしてくれたりしてくれないかなあ」
「…亜香里さんみたいに素敵な人を待たせるなんて、彼氏さん、贅沢ですね。どんな方なんですか?」
なぜだかうまく笑うことができない。
亜香里さんが、まっすぐに、挑むような目で私を見る。
「ちょっと、ダサ目の新規事業を立ち上げたんですけど、これがすごく当たる将来性抜群の分野らしくて。将来軌道に乗ったら…『今あるもの』を整理して、私を選んでくれるって約束してるんです」
私の夫は真面目な夫。
そこらへんの港区おじさんとは訳が違う。杓子定規な堅物で、浮気なんて考えたこともない。
妻が仕事でいない間に、自宅に女を引き入れるなんてそんなことをするはずがない。
私の夫は、いい夫。
ワタシハ オトコヲ ミルメガ ダレヨリモ アルノダカラ……。
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