こんにちは、山岳ガイドの廣田勇介です。
先日、ワーグナーを聞きながら高速走っていたら、地獄の黙示録的な光景に出くわし、かえってから久しぶりにあのフランシス・フォード・コッポラ監督の伝説の映画を見ました(なぜ?)
サーフィンと登山と地獄の黙示録
「地獄の黙示録」は民主主義の名の下に泥沼のベトナム戦争に突入するアメリカを通じて、宗教を失った現代物質主義の行きつく先を痛烈に批判するフランシス・フォード・コッポラ監督の代表作です。
地獄の黙示録・英題「Apocalypse Now」アポカリプス・ナウという映画。スノーボーダーやサーファーならアポカリプス・サーフ、アポカリプスノーという言葉は馴染みがあると思います。アポカリプスとは聖書に出てくる「ヨハネの黙示録」のこと…終末の予言書です。コッポラは悲惨なベトナム戦争を見て、「地獄は現在進行形である」と思ってこのタイトルをつけたのですが、邦題の「地獄の黙示録」はインパクトがある名前で映画としては成功したのですが、コッポラの言いたかったこと、地獄は今だ、というニュアンスが反映されいないのです。
この映画にはイカれた軍人が何人も登場しますが、ひときわ異彩を放つのが、サーフィン好きのビル・キルゴア中佐です。彼は
主人公のウィラード大尉の護衛でついてきた新兵がプロ・サーファーだと知ると興奮し、彼とサーフィンがしたいがためだけに、敵の勢力圏内にあるサーフスポットの攻略にでかけます。
中佐の第一騎兵師団のヘリコプター部隊は、あの西部劇に登場する騎兵隊の末裔でもあるのですが、部隊はサーフィンするためだけに、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を大音量で流しながら、ヘリコプターで周辺のベトナム人居住区を制圧し、住民を巻き添えにし、ナパーム弾で森を焼き払っていくのです。多分、どんなサーフィン好きの人がみても、「ありえない!」「戦争は狂気だ!」と思わざるえないシーンが展開されます。映画ですので、誇張が入っているに違いないのですが、その描写には、あの当時のアメリカならやりかねないと思わせる説得力があります。
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しかし、キルゴア中佐はまだ完全に敵を制圧する前に、波に心を奪われ、周囲に着弾しているにもかかわらず、サーフィンの準備をすすめます。波に乗っているとなりに着弾し、ワイプアウトする新兵のサーファーをみたウィラード大尉は思わず、
「ここでのサーフィンは危険です!」
The surfing here is too risky
と当たり前のことを口にするのです。
しかし、キルゴア中佐は
「東部生まれにサーフィンがわかるか!」
といってとりあいません。
さらに危険がせまり、周囲に着弾しつづけると、
中佐「サーフィンしたいか、銃をもって戦うか?どちらかだ!」
大尉「いくらなんでも危険では?」
そして最後にあの伝説的なセリフをいうのです。
中佐「おれが安全だと言ったら安全だ!」
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このワンシーンは極端で、クレイジーで、当時のアメリカがいかに理不尽な戦いがしたかを強調するために挿入されていますが、映画そのもの本題はまた別のところにあります。
しかし、このワンシーンに描かれている極端な行為がサーフィンとか、クライミングとか、登山の本質だと思うのです。
反社会スポーツと正統派スポーツ社会が安定している時には目立たないですが、これらのアウトドアスポーツの内部にこういった反社会的かつ非安全な要素を含んでいるのが、これらの個人スポーツなんです。
それを普段は、安全登山だなんだといって誤魔化している。
こういったアウトドア/カウンターカルチャーとは対照的な、ラグビーとか、ボートとかの正統派のスポーツは、実は、イギリスのエリート養成機関であるパブリック・スクール(イートン、ハーロー、ラグビー、そしてケンブリッジ、オックスフォードなど)大学で、19世紀的な帝国主義を推進するため、国家に忠誠を誓う、国家の非常時に有用となる人材を育てるか、という使命のもの、トーマス・アーノルドという人が考えた紳士教育といわれています。
これはこれで、素晴らしい思想で、集団のために個を犠牲にするという、人間の美徳にもとづいています。昨年のラグビーワールドカップを見た人なら、個人プレイ的な要素の強いサッカーとは別の美しいスポーツマンシップを、日本代表の背中から感じたかと思います。あれがトーマス・アーノルドがきずいたスポーツマンシップの分かりやすい形です。
それに対し、20世紀の中ごろから、19世紀的なそういった価値観の反動で、もしくは社会的なものではなく、冒険的なもの(大航海時代を作った海賊の末裔)をもとめた結果、生まれたのが個人スポーツとしての登山であり、カウンター・カルチャーとしてのサーフィンだと思うのです。
(リスクの語源になったベネチアの冒険的な船乗りリズカーレ)
日本の登山だって、修験道から始まってますからね。山伏というのは、一面国家権力にまつろわぬ山人の集団というとらえ方を、民俗学者の柳田国男などはしていました。だから日本の伝統的な登山にもそういったカウンター・カルチャーの要素は多分に入っているとは思うんのです。
(ただし、日本の山伏たちは、天皇および皇室が危機に瀕すると山から降りてきて、軍隊をもたない天皇のために戦った勢力もあったといわれています。壬申の乱や建武中興ですね。山がお好きな今上天皇とのつながりが見えて面白いのですが、本題ではないので)
今じゃ、歌われなくなった雪山讃歌だって、「俺たちゃ、街には住めない~からに~♪」とうたっていますが、昔の伝統的な登山家のウソ偽りない心情だったと思うのです。
クライミング、サーフィンの悲劇そういったいわば不良の集団、化外の地で行われていたスポーツが、クライミングにしても、サーフィンにしても、オリンピックという20世紀の権力の遺物に、自ら志願して取れ込まれていったのが、悲劇の始まりだと私は考えています。
不良だからカッコよかったのに、お金をつまれて、良い子ちゃん演じなくちゃいけなくなって、魅力もなくなってファンも失うアーティストの話って映画にもたくさんありますよね。
話が少しそれますが、それを混同してしまった一番の悲劇は、まだ若かったころのスノーボ―ダーの国母さんです。
オリンピック選手に指定されたからには、良くも悪くもその様式に従うべきで、それが嫌なら長野オリンピックを断ったテリエ・ハーコンセン(当時世界一だった)のように
FIS SUCKS!
(なんでスキー連盟にスノーボーダーが管理されなくちゃいけねえんだ!)
といって辞退というか、つっぱねるべきでした。しかし、それをせずに出場したのであるからには、そのルールや様式下でプレーすべきだと思うのです。(ただし、その後の国母さんはアンダーグラウンドそのものの人生を歩まれてますので、昨年、現行の法律を犯してしまったとはいえ、昔の任侠道のように筋の通った人生感が感じられます)
話が大幅にそれてしまいました。
言いたいことは、このアウトドア・スポーツの魅力を作っている重大な要素の一つに、反社会性、冒険性があり、そしてそれは時に社会から圧力を受け、人々から蔑まされることもある。
しかし、そういった困難な時も乗り越えて、このスポーツが存続してきたのも、スポーツの核心ともなる要素を売り渡さなかったからだと思います。
そして、なぜその核心を権力に売り渡してはいけないかというと、これら自然の中で遊ぶスポーツは、常に変化する自然環境の中で、リスクを評価し、柔軟な意思決定をする必要があり、それは権力のような固定されている機関からの通達に従っていては、危険を危険だと認識し、安全なものを、安全だと主張できないからなのです。
命にかかわるからです。
それをよくよく私たちは考えないといけない。
それを認識できないのであれば、自然の中で遊ぶことは、その行為自体がリスクそのものでしかないと思うのです。
廣田勇介
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