薄らいでいく記憶をたどりながら、阪神淡路大震災発生から20年の節目に記した記事である。この度25年目に少し手直しした。
日曜が成人の日で、月曜は振替休日、そんな連休明けの1995年1月17日火曜日未明のこと。外科医として3年目、まだ単身であった。神戸市内のとある4階建てマンションの3階にある3DKの部屋の6畳和室に布団を敷いて眠っていた。
毎年勤務先が変わるたびに引っ越していたので荷物は最小限で、大した家具もない。前日飲酒した残りの一升瓶が枕元においてある。普段ならぐっすり眠って目覚めないはずである。
低く唸るようなゴーッっと鳴り続ける音で目が覚めた。まだ夜明け前、部屋は常夜灯の黄色く淡い光だけ。何の音だろうか、と考えながらもまだ布団の中で仰向けでいた。後から考えるとその地の底から唸るように響く音は地鳴りだった。
ドーンッ!!突然背中から突き上げられるよな衝撃を受けた。一瞬何が起こったのかわからなかった。そして2~3秒後だっただろうか、激しい横揺れが続いた。
ここで初めて地震であることに気付いた。横揺れが始まってほどなく常夜灯が消えた。停電したのだとすぐにわかったが、妙に窓の外が明るかったような気がする。
それほど大きな揺れの中なのに、というかだからこそ次の行動に移れない。しかし長かった。この揺れが永遠に続くのかと思うくらいに。
結局揺れが収まるまで起き上がれなかった。揺れはどのくらいの時間続いただろうか、長かった。実際には10秒くらいだったような気もする。揺れがおさまったあと立ち上がったが、まだ揺れているように感じる。本当に揺れていたのかもしれない。
寝室は一升瓶が倒れただけ、大して被害もない。窓ガラスが割れたりもしていない。幸い怪我もなかった。
少し落ち着きを取り戻すと外でどこかの非常ベルが鳴り響いている。部屋の外に避難したほうがいいか、と思いドアを開けると、少しガス臭い。慌ててキッチンに行って元栓を閉じた。
キッチンには前日自炊した鍋がコンロから転げ落ちて、残っていた味噌汁が床にぶちまけられていた。また、揚げ物に使ったあとの油缶が倒れて油まみれでもあった。
掃除…と思ったが、とりあえずは避難かな。もう一度ドアを開け、階段を降り、敷地の外の道路に出た。近隣の住民たちも不安そうに外に出てきている。
何度か余震が襲ってくる。その度あちらこちらから悲鳴が聞こえる。あたりはまだ薄暗い、しかし朝焼けが映ってたのだろうか、マンションがほのかに赤く照らされてたのを覚えている。いつしか非常ベルは鳴り止んでおり、とりあえず自宅マンション前から見る限りでは大きな被害も出ていないようで、部屋に戻った。ちょうど同じタイミングで自宅の電話が鳴り響いた。
余談になるが、1995年当時携帯電話は普及していなかった。ショルダーバッグのようにでかい本体を持ち歩くか、車載式にしてしまうような形で固定電話ではない移動式電話と呼ばれるものがごく一部にはあり、震災直後電話が全く通じない中でこの移動式電話だけが通話できたので、阪神淡路大震災後から急速に携帯電話が普及したのだ。我が家も翌1996年には夫婦で携帯電話を所持していた。
話を戻そう。部屋に戻ったのと同じタイミングで自宅の電話が鳴り響いた。関西ではあるものの他県にある実家の母からであった。
母「もしもし、もしもし、大丈夫か、生きてるか?」
私「ああ、生きてるで。なんともないで」
母「聞こえへん、何言うてるかわからへん。生きてるんやな、頑張りや。病院に行かなあかんねんやろ。」
私「もしもーし、もしもーし・・・」
受話器の向こうの声は聞こえるのにこちらの声は聞こえていないようだった。一旦電話を切って掛け直したがつながらない。それを最後に長期間ずっと電話は不通になった。
病院に行かないと、という考えは恥ずかしながら親に言われるまで頭になかった。少なくともマンション前に出た時に周囲に被害者はいなかった。停電のためテレビはつかない、ラジオもコンセントに繋がってはいるものの電池は切れているので被害の状況はまったく把握しておらず事態の深刻さを全く実感していなかったのだ。情報から隔絶されるというのは恐ろしいことだけど、おかげで平常心でいられた。
そうか、病院か、大きな地震やったしケガ人が来るかもしれんなあ、と暢気なもので、腹ごしらえしてから病院に行こうと思い、買ってあったフランスパンのバケットを食べていた。
すると部屋のドアをけたたましく叩く音がする。そうか、停電でインターフォンは鳴らへんのやな、誰かな?とバケットを口にくわえたままでドアを開けると、当時付き合っていた彼女で今の妻である。弟さんのバイクに乗せてもらって見に来たという。安否確認のつもりで何なら生命の心配までしたかもしれないのに、バケットをくわえてのほほんとしている私を見て呆気にとられたそうな。もう少ししたら病院に向かうつもりであることを告げると、他にも友達のところ何軒か回ってくる、と忙しなくでかけていった。
この時心配して駆けつけてきてくれたことがこの人と結婚しようと思う大きな動機につながったことは間違いない。
さて、マンションから病院までは坂道を上っていかないといけないが歩いて15~20分程度なので、何時くらいかな、7時前後くらいだろうか、ちゃんと時間は見ていない。
てくてくと歩いて病院に向かった。2~3分も歩くとあちらこちらで全壊した家が見える。尋常ではない事態が起きたことをここで初めて認識し、足早になる。道中ずっと倒壊した家屋が何軒も何軒もつづく。
勤務先の病院の目の前のマンションは一階部分が完全に潰れており、身震いがした。病院にあったボイラーの高い煙突は真ん中でポッキリ折れている。
病院の建物自体は無事なようだ。開きっぱなしになった自動ドアを入ると暗い。ここも停電のようだ。暗い廊下には人が溢れている。その奥の方に懐中電灯の光が見えたので近寄ると、当直をしていた内科の先生が瓦礫で怪我をした人の処置をしていた。
「ああ、よかった!外科の先生が来てくれた!動脈性の出血です!」と託された。ガラスか瓦礫を踏んだのか踵に傷があり、なるほどピュッピュと出血してるが圧迫でコントロールできるし、縫えば止まるか。暗い中消毒や縫合セットを探して縫合していっちょ上がり…のはずがそれを皮切りに延々と続く怪我人の処置に追われ続けた。
そのうちに運ばれてきた時にはすでに事切れていて心肺蘇生はしてみるものの結局は死亡確認という患者さんも増えてきた。電気がない水道がないということは心電図モニターもない、レントゲンも血液検査もできない。ひっくり返ったカートから薬剤を探すのも困難、なにより次々と死者が運ばれてくる。
増え続けるご遺体を安置しておく場所がなく、とりあえず廊下に並べられていた。私は診察室から出ることができずひっきりなしに診療を続けており、遺体をどうしたか気にしている余裕がなく、一時は廊下に遺体が並んでいた。あとから聞けば、遅れて出勤してきた事務職員などが、一室に運び込んだそうで、結局数十体のご遺体がそこに集められたようだ。
午後になり1時だったか2時だったか、ようやく医局に行くことができた。
意外なことに停電している外来とは違い、病棟と同じ建物になるので非常用電源のおかげで明るい。テレビもついている。
医局では多くの先生が食い入るようにテレビの報道を見ていた。私自身、そこで初めて惨状を目の当たりにし、驚愕した。
倒壊した家や崩れたマンションは見たが、倒れた阪神高速や焼け野原の街、崩れた三宮駅ビル、市役所庁舎の倒壊などを映像で見たときには言葉を失った。神戸がなくなった・・・と思った。
午後からも時折患者さんが運び込まれてきた。倒れた家の下敷きになっていたのを数時間ぶりに救出された人が増えてきた。満面の笑みで救い出されたことを喜んでいる。
しかしこの人たちは数時間後にピンク色の泡沫を口から吐きながら亡くなっていくことになる。クラッシュシンドロームだった。
元気だった人が次々に肺水腫となっていき次々と人工呼吸器につなぐ。人工呼吸器は出払ってしまい、一人亡くなると一台が空くのだが、ついに人工呼吸器が不足した。震災発生当日は夜通し交代でアンビューバッグを揉み続けた。結局助からなかったが。
震災発生から3日後、クラッシュシンドロームをなんとか乗り切り、救命しえたが腎不全の残った患者さんを透析のできる病院に転院させるために、その方の実家に近い山間部の病院まで自衛隊のヘリで 搬送することになった。
私は主治医としてヘリに同乗したのだが、乗る前に必ず連れて帰ってくださいねと自衛隊員に念を押した。
案の定、患者さんを運ぶためにヘリを出すので、帰りは面倒を見ないと言われた。電車などの機能は麻痺しているし、被災地に入る車で道路も大渋滞の中、どうやって戻れというのか、と掛け合って帰りも連れて帰ってもらうことを約束させた。
ヘリの着陸地点から病院までの救急車にも同じことを掛け合った。ヘリの離発着及び自衛隊の基地として使われていた陸上競技場から病院までも頼み込んで送ってもらった。
無理を聞いてくれた自衛隊員の皆さんありがとうございました。
震災初日、先行きの見えない大惨事の中、入院患者さんの食事が問題となった。今できることとして、1人おにぎり2個が給食から割り当てられた。しかしその後のことは未定だと。
もちろん我々職員にも配ってもらったのだが、残り少ない備蓄を消費するのも申し訳ない。
自分の分くらいは何とかしたいと考えて、震災翌日に時間の余裕を見つけて自宅マンションに戻った。
鍋とカセットコンロと野菜とか冷凍していた肉(幸い寒い季節だったので冷蔵庫の電源切れてても大丈夫だった)とか炊飯器と米とか調味料とか医局に持って行った。あ、あと包丁も。
どうせ自宅では電気もガスも水道もない。震災翌日の夜は病院に寝泊まりしてた数人の医師たちとすき焼きをして食べた。
翌日は鍋にしたんだったかな。ちょっとしたサバイバル気分で自らのテンションをあげてたのかもしれない。
支援物資が届くようになってからは食べるものはとりあえず困らなくなった。
一番困ったのはお風呂。フルーツフラワーパークの温泉に行ったり、あと医師や看護師何人かで六甲山の裏側にあるラブホテル街に行って二部屋借りて男女に別れて風呂に入った覚えもある。事情が事情だからホテルの人も快く受け入れてくれた。そこでわかったのだが阪神間は広く被災して交通も寸断されているのに対して六甲山を越えて北側に行くと全くと言っていいほど被害がなく、電気やガスや水道も問題がなかった。夜に何度か三田市まで焼肉ために行ったりしたなあ。
他には水が流せない状況でのトイレは困った。
病院は貯水タンクがあってそこに溜まっている分は使えるがいつ尽きるかわからない状態だし。
自宅では震災前日に貯めた残り湯が浴槽に残ってた。これをバケツに汲めばトイレも流せる。これは非常に助かった。
あと洗濯にも困った。結局溜まり溜まって1週間分くらいになったころ、神戸市内に入るのも出るのも車しかないから大渋滞してる状態のなか、バイクで弟が実家から来てくれた。
そのころには外科医の出番はほぼ終わっており、余裕もあったので休みをもらって一旦実家に帰らせてもらった。その時洗濯物を自宅に持ち帰り、洗濯してもらった。
震災発生から4日目頃に電気が通じ、1週間程度で水道も再開した。ガスは結局復旧まで1ヶ月程度かかった。
幸い避難所に入ったり、給水の列に並んだり、炊き出しでご馳走になったりというような経験はせずになんとか過ごすことができた。自宅を失ったり、家族を失ったり、職を失ったりと茫然自失の人も多い中、自分は恵まれた境遇であったと実感する。
震災発生から2〜3ヶ月した頃だろうか、ライフラインは復旧したものの街の復興はまだまだ遠い、そんなある休日。
私は自宅に当時付き合っていた彼女と過ごしていた。くり返しになるが今の妻である。そんな中、電話が鳴った。女性の声だった。
女「◯◯先生のお宅ですか。△△と申します。すぐ近くまで来ているので御宅までお伺いしたいのですが・・・」
私「(知らない人・・・)どういったご用件でしょうか?」
女「自身の時に先生にお世話になったのでお礼を申し上げたくて」
全く思い当たるフシはない。本当にお礼なんだろうか、なにか逆恨みでも・・・そもそもなんで家の場所や電話番号を知っている?!
当時は個人情報なんてゆるゆるの時代で、病院職員の住所、電話番号がズラッと並んだ職員名簿があった。知り合いの職員などに頼んで教えてもらったとかなのだろう。
しかし、困った。相手の真意が見えない。家まで来られて豹変されたりすると、彼女に危害が加わっても困る。とにかく、自分がひとりで近くまで会いに行くことにした。
自宅に近い人通りの比較的多い路上で待ち合わせた。電話の声だけではわからなかったが、相手は50〜60代の女性であった。やはり見覚えはない。女性から話を聞いてみてよやく、そのエピソードを思い出した。
震災当日の午前中、次から次へと患者がやってくる。大地震発生直後は外傷救急が圧倒的に多い。挫傷、挫創など比較的軽症の患者も多いが、縫合処置が必要な患者は何人来ただろう、数えきれない。
待合や廊下には患者が溢れ、処置してもらえるのを待っている。外科は私一人だったが、他に整形外科や内科も泌尿器科も眼科も救急の創処置を分担してくれていた。
そこにこの女性がやってきた。額から眉、眼瞼にかけてかなり大きくスッパリ切れていた。担当していたのは内科医師だったと思う。
災害時だし応急処置しかできない状況である。しかし、そう若くはないとはいえ女性の顔の大きな傷であり、「これは難しいから自分がやります」と私が交代した。たかだか3年目の外科医が偉そうに・・・(笑)
ともあれできるだけ丁寧に縫合処置を行った。それだけである。
で、目の前にその女性がいる。
「難しいから自分がやるとおっしゃってくださって、おかげさまでこんなに傷がきれいに治って」と。たしかにあまり目立たずきれいに治っている。
どうやら本当に感謝してくれているようだった。ほっと胸をなでおろした。
ひとしきり感謝の言葉を伝えられ、手土産にお酒を渡された。
ちなみに酒飲みなのがなぜバレていたのかは定かではない。断ったところで自宅が割れているんだから無駄だしありがたく受け取った。ウイスキーだったかな、はっきりとは覚えていない。 ご想像に難くないだろうがすぐに無くなってしまったので(笑)
よく言われることだが、あの時本当にみんなが耐えて頑張って助け合って支えあって現在の復興に至っていると思う。
今のおしゃれで華やかで住みやすい神戸、25年前とは違う神戸をこれから愛し続けていきたい。
本当はもっと色んな苦労があっただろうがずいぶん記憶も薄らいできた。
しかし神戸を愛する市民として、医師として、何より一人の人間として、この阪神淡路大震災によって大きく人生が動かされ、震災後の25年間を生きてきた。
二度と経験したくはないが、同様の災害は必ず発生するだろう。その時のために我々の凄惨な体験が少しでも教訓として残ることを心から祈る。