TVRが2017年のグッドウッド・フェスティバルで喝采を受け、アールズ・コート自動車ショー(ロンドン自動車ショー)を舞台にブランド復活の狼煙を上げた。多くの注目を集めた新型グリフィスだが、まだ量産モデルは顧客の元へ渡ってはいない。コスワース製V8エンジンを搭載した有機的なクーペが待ち遠しい読者も多いだろう。
リバプールの北、ブラックプールを拠点に置く、カリスマ性すら感じるスポーツカーメーカーのTVR。その歴史には様々な紆余曲折があった。少量生産のチューブラーフレームとグラスファイバー製ボディという組合せに、攻撃性と美しさを同じ尺度で融合させたスタイリングが最大の特徴。一方で、クルマの目のこえた顧客からは、安定的な支持を得ることが難しかったことも事実。
グランチュラが登場する以前はTVRの「テンプレート」は存在せず、クルマ毎に独自の設計がなされていたから、1台1台が個性豊かな存在ではあった。そして1980年代の幕開けとともに、TVRモデルを象徴するようなウェッジシェイプのデザインが誕生する。
モーターショーの度にワンオフ・モデルを数多く生み出してきたTVRだけに、代表となる10台を絞り込むのはほぼ不可能にも思える。しかしこの機会にTVRの古いカタログを読み直して、個性的で素晴らしい1台限りのモデルたちを振り返ってみたい。
TVRトライデント・コンバーチブル(1965年)
いま振り返ると、TVRにとって最も大きなチャンスを失ったといえるのが、評価の高かったTVR流のデザインからトライデントが少し外れていたこと。結果的に、洗練されたモデルが求められるグランドツアラーというセグメントへは、一昔前の古びたタスミンに角ばったエクステリアデザインが与えられて追加されたのだ。
TVRトライデントは4台が作られ、アメリカ市場には不可欠なコンバーチブルも1台のみ制作されている。長くスラントしたボンネットには、4.7ℓのフォード製V8エンジンが押し込まれていた。トレバー・フロストによるデザインだったが、彼は仕事上はイタリア人だった母の旧姓、フローラを名乗っていた。
1965年に発表され、当時でもかなり高価な15万ポンド(2175万円)で受注を開始するも、TVRの経営体制の変更が重なり、トライデント自体の販売も難航した。量産モデルのスチール製ボディは、イタリア・トリノのコーチビルダー、フィソーレ社によって作られていた。TVRはその後破綻し、最終的に英国東部、サフォークにあったTVRのディーラーにトライデントの販売権が奪われてしまう。新しいオーナーとなったマーティン・ラリーはトライデントを130台製造し、美しいプロトタイプを社用車として手に入れている。
◇マニアな小ネタ
トライデントのグラスファイバー製ボディは、TVRの隣に位置していたグランチュラ・プラスティック社によるもの。
TVRティナ(1966年)
トレバー・フロスト(フローラ)は、トライデントでデザインのコツを掴んだようで、その翌年には可愛らしいクーペ、ティナを手がけている。このクルマにはマッチョなV8エンジンもチューブラーフレームもなく、小さな2+2レイアウトがヒルマン・インプ・スポーツのフロアパンに設計されていた。コンバーチブルモデルは2シーターだ。エンジンは875ccの4気筒がリアに搭載されている。
製造はTVRの共同経営者でもあったマーティン・ラリーの働きかけでフィソーレ社が担当。ティナの名前の由来は、ラリーの友人でありTVRのレーサーでディラーの経営もしていたジェリー・マーシャルの娘から来ているという。1966年のトリノ自動車ショーでオープンボディがデビューし、その年のロンドンでクーペボディが発表されている。
全体的に市場の反応はポジティブではあったものの、TVRはグラスファイバー製のボディであっても、利益を上げるのに充分な台数を生産する計画が立てられず、販売を断念する。しかし幸運なことにプロトタイプは破壊されずに残った。
◇マニアな小ネタ
ジェリー・マーシャルは1989年にレストアする目的でクーペのプロトタイプを手に入れるが、時間がないまま放置。2005年に名前の由来ともなったティナへと渡った。復活する日は来るのだろうか。
SM TVRザンテ(1971年)
TVRの幻と消えたクルマの中でも特に有名で、かつアールズ・コート自動車ショーの中でも最も悪名が高いのが、スーザン・ショーとヘレン・ジョーンズという女性ふたりを裸で立たせて展示した、このプロトタイプだろう。このプロトタイプは役目を終えると、工場の廃材置き場へ投げ捨てられてしまった。
マーティン・ラリー時代のTVRがウェッジシェイプ・デザインへとシフトする2台目でもあり、デザインを行ったのはトライアンフTR7も手がけたハリス・マン。シューティング・ブレークのボディは、ケンブリッジシャーのスペシャライズド・モールディング社(SM)が担当する予定だった。
高級車やグランドツアラー市場へもモデルレンジを広げる意図があり、当時既に年代物だったビクセン2500のシャシーにトライアンフ製2.5ℓエンジンを搭載予定だった。最も重要なアメリカ市場での反応が鈍く、TVRとしても新しいMシリーズへと移行する時期にあり、量産には至らなかった。
◇マニアな小ネタ
俳優のシド・ジェームズと女優のバーバラ・ウィンザーは、クラブの資金集めパーティの見世物として、SM TVRザンテを注文しようとしたらしい。
グランチュラ・ジェム(1971年)
ブラックプールの工業地帯から生まれる商品は、必ずしも魅力的なものだけではなかったことは周知の事実。その中でも、TVRの系列企業でもあったグランチュラ・プラスティック社が生み出したジェムは、かなりのキワモノだった。広々としたキャビンと大きく開くテールゲートを備えているが、潰れたノーズ周りのデザインは、誰が見ても美しくは感じないだろう。
厳密にいえばTVRのクルマとはいえないが、もとはTVR創業者のトレバー・ウィルキンソンの子孫が立ち上げた会社がグランチュラ・プラスティック社で、当時はTVRの各モデルのボディを製造していた。またレーシングドライバーでありTVRのカークラブの代表を努めていたトミー・エントウィッスルも所属しており、仮にTVRが認めなくても、このリストに追加する価値はある。エントウィッスルは改良を加えを続け、50年以上に渡ってレースに参戦している。その点でも無視できないクルマだといえる。
◇マニアな小ネタ
ジェムのロングホイールベース版となるタスカンは、手作りによるアルミニウム製の型から取られたグラスファイバー製のボディをまとっていた。
TVRタスミンターボ(1982年)
マーティン・ラリーは、ウェッジシェイプ・デザインのTVRを1980年のタスミンでモノにする。だが、それから10年以上に渡って様々なバージョンのタスミンが生まれるとは、想像していなかっただろう。TVRの次期経営者となったピーター・ウィーラーはこのクルマのポテンシャルに着目。ローバー製V8エンジンを搭載し、クルマの性能をフルに引き出すことを目指した。
しかしそれに先駆けて、タスミン・ターボ・コンバーチブルが1981年に登場している。1982年の10月にはクーペが発表された。標準グレードに搭載されていた2.8ℓのV6エンジンにターボを取り付け、エクステリアデザインにも大幅に手が加えられている。ベースのタスミンから50%近く向上した最高出力は231ps/5600rpmで、34.3kg-mの最大トルクを発生させた。
◇マニアな小ネタ
TVRにとって、ターボを搭載したクルマはタスミン・ターボだけではない。マーティン・ラリーが所有していた3000Sターボ・コンバーチブルは、SEを改造したものだ。
ホワイト・エレファント(1988年)
当初192psの3.5ℓエンジンを積んでブラックプールで生まれたクルマは、1980年代に入るとローバー製V8エンジンを搭載し、パフォーマンスを向上させていった。しかしパワーアップするにつれて環境規制への対応も厳しくなり、TVRは方向転換を検討し始めた。そこで代替ユニットとして登場するのが、オーストラリアのGMホールデンが製造していた5ℓのV8エンジン。オーストラリアのマニュファクチャラーのために、ホールデン・コモドアのレースカーを製造していた、トム・ウォーキンショーによって供給を受ける計画だった。
446psを発生させるエンジンに、ボルグワーナー製のT5トランスミッションが組み合わされ、TVRの新しい経営者、ピーター・ウィーラーの好みに合わせて制作されたのがホワイト・エレファント。シャシーは420SEACのものが用いられ、350iベースのボディにはマッスルカーのようなオーバーフェンダーが付けられるなど大幅にモディファイ。ヘッドライトは固定式となり、パースペックス・ガラスのカバーが掛けられた。
しかし結果としてローバー製のV8エンジンでも環境規制を達成できることがわかり、ホールデン製のV8エンジンへの換装はなくなる。ピーター・ウィーラーは2年ほどこのクルマを所有したが、しばらくしてザンテのように工場の廃材置き場へ放置された。しかし幸運にもTVRのユニークな歴史を物語るクルマとして転売され、完全なレストアを受けている。
◇マニアな小ネタ
ウィーラーはクルマに銃を隠しておくため、秘密の小物入れを仕込ませたという。また、愛犬を乗せるためにシートの後ろに特注のカーペットも敷いたそうだ。
TVR 420スポーツサルーン(1986年)
実用性を意識したモデルは殆ど生み出してこなかったTVR。唯一ともいえるのが、TVR創業者のトレバー・ウィルキンソン時代に存在したスポーツサルーンと、タスミンの発表後しばらくして追加変更された+2モデルくらいだった。もちろんリアシートは小さな子供向けではあったけれど。
しかしTVRは、420スポーツサルーンで大人のパッセンジャーを載せたいという要望にこたえる。420SEAC由来のシャシーに、セルフレベリング機構付きのリアサスペンションを搭載。リアシートのヘッドルームを稼ぐために、ルーフラインは不格好に高められていた。
スタイリングは全く新しいとうたわれていたが、明らかにタスカンベース。まるでフォード・コルティナMkVのリアエンドを350iに取り付けたようだった。最高出力268psを発生するV8エンジンと、内容はまずまずだったが、10月のモーターショーに訪れた来場者の反応は冷ややか。プロジェクトはお蔵入りとなり、ボディは切断され、フロントエンドは先に紹介したホワイト・エレファントに流用されている。
その後もTVRの当時のボス、ピーター・ウィーラーは2+2のアイデアを諦めてはいなかった。そのかいあって、420スポーツサルーンから10年ほど経って登場したTVRサーブラウが、大きな成功をおさめるのだった。
◇マニアな小ネタ
2.8ℓのV6エンジンを搭載したタスミンの2+2は47台作られただけでなく、TVRはV8エンジンを搭載した350iの+2バージョンを6台製造している。
TVRスピードエイト(1989-1990年)
TVRが予算を注ぎ込んでクルマを開発する際、われわれが購入したいと思うクルマではなく、自社なりの視点で実験的に取り組むことも少なくなかった。先にプロトタイプを制作し、試乗の反応が良ければ量産するという流れだ。スピードエイトはその好例だったといえる。
1989年のロンドン自動車ショーに姿を表した時は、ウェッジシェイプにかわるスタイリングとして、ややエッジが丸められたデザインを持つ、ロング・ホイールベースの2シーターだった。しかし、その翌年に姿を表した時はボディラインはそのままながら、2+2のレイアウトになっていた。2+2レイアウトでのオープンモデルはTVRとしては初めてで、この身代わりの早さは、ホワイト・エレファントのプロトタイプ制作の際に獲得したモデリング手法が生かされていた。ボディ骨格に発泡性のフォームを吹き付け、それを削り出し、グラスファイバーのクロスを重ねて整形したのだ。
スピードエイトの完成度は悪くはなさそうながら、タイミング悪く1990年の同じ年、TVRからはグリフィスも発表されていた。もちろん脚光を浴びたのはグリフィス。破壊は免れたスピードエイトは、倉庫へとしまわれた。
◇マニアな小ネタ
1989年のクルマには228psのローバー製3.9ℓV8エンジンが搭載されていたが、1990年のクルマには243psの3.9ℓユニットか290psの4.3ℓユニットが採用されていた。
TVRエボリューションS(1987年)
TVRの新しいエントリーモデルとして登場したSシリーズ。1986年に発表され、ウェッジシェイプのモデルが上級志向に移っていく中で、低価格帯を支えることになる。しかしTVRはその翌年、エボリューションSという名前の兄弟モデルを1987年のロンドン自動車ショーで発表する。
そのクルマにもV6エンジンが搭載予定ではあったが、ショーに登場したコンセプトカーは、エンジンが載っていないモックアップ。フォード製ユニットをベースにしたスウェイマー社の3.2ℓか、新しい3.3ℓユニットの搭載を検討していた。後に3.3ℓの方はホールデン製のものの改良版だとわかっている。
ボディのスタイリングもフロント周りを中心に大きく手が加えられ、ヘッドライトは大型化。その後のV8Sのエクステリアデザインとの関連性を思わせる。スプリント社の幅の広いアルミホイールにリミテッド・スリップデフを装備し、前後のサスペンションも改良を受けていた。ウォルナットの木材が用いられたダッシュボードが、インテリアの特徴だった。
◇マニアな小ネタ
2.0ℓのコスワース製ユニットを搭載したSも製造された。最高出力は驚きの355psで、5速マニュアルがトランスアクスル・レイアウトで採用されていた。
TVRグリフィス・スピードシックス(1996年)
TVRグリフィス・スピードシックスは1990年代の曲線を多用したスタイリングを打ち出し、TVRをミレニアムへと導く橋渡し的な存在として誕生した。V8エンジンを搭載するモンスター、サーブラウとは一線を画し、自社で新しく開発された直列6気筒エンジンを搭載していた。
1996年のモーターショーに登場したスピードシックスは、グリフィスのシャシーを流用していたが、インテリアは全面的にデザインし直され、エクステリアデザインにも手が加えられていた。カバーで覆われたヘッドライトにはウインカーが内蔵されており、テールランプもデザインが変わり、高い位置に移されていた。
オールアルミ製のツインカム直列6気筒エンジンは3.2ℓ版では334psを発生。4.0ℓ版では385psを叩き出した。しかし翌年のアールズコートに姿を表したタスカン・スピードシックスはさらにスタイリングが改められ、シャシーも新しくなっていた。エンジンはタスカンと同じ365psの4.0ℓユニットが搭載されていた。
◇マニアな小ネタ
1994年のグリフィスにはAJPと呼ばれるV8エンジンが搭載されていた。この名称は、モジュラーエンジンの設計開発に関わった人物の名前の頭文字から来ている。アル・メリング、ジョン・レーベンスクロフト、ピーター、ウィーラーの3名だ。