先日開催された「ULTRA JAPAN」(主催:Avex)。3日間で15万人の来場者を熱狂させたダンスミュージックフェスを、5年前からクリエイティブディレクター(現在はクリエイティブアドバイザー)として関わってきたのが小橋賢児だ。その名に聞き覚えのある人はかなりいるだろうが、彼のどの顔を知っているかは人によりバラバラではないか。 俳優、映画監督、イベントプロデュース……。時期によって注目される側面が次々と変わっていく、まさにマルチな活動ぶりだ。いまや特定の領域に閉じこもってばかりいては、先が拓けない時代。 ジャンルを軽やかに跳び越えていく者だけが、真に革新的なことを為し得る。それを見事に体現する小橋賢児が自身の半生を語る。
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なんでも一人で思ったことをやった子供時代==
僕は東京の大田区で育った。家は裕福じゃなくて、小さいころに住んでいたのは、戦時中から残るオンボロの家。畳も床もところどころ抜けて、ゴキブリもネズミも出る。
両親は共働きでいつも家にいなかった。学校から帰ると「これ温めて食べなさい」と置き手紙があって、兄とふたりで食事をした。
そんな環境がイヤだったわけじゃない。小学3年生で引っ越すまでそこしか知らなかったから、むしろ愛着があって、いざ引っ越すとなったらすごく悲しかったくらい。
いつも親がいなくて、当時は携帯電話もメールもない。誰かに聞いたり許可をもらったりする前に、なんでも自分の思ったことを実行するクセがついた。公園の裏山に基地を作ったり、近所の交番の警察官と仲良くなったり、自分が宇宙飛行士になって乗るためのロケットを作ろうとして、工場の周りでネジを大量に集めたり……。いつも自分で工夫を凝らして遊んでいた。
僕の生活を少し方向転換させたのは、テレビ番組だった。小学2年生のころ、夕方のバラエティ番組に『パオパオチャンネル』があった。高田純次さんらが日替わりで司会をして、数人の子どもたちが出てきていっしょに遊んでいるというもの。
好きでいつも観ていたら、あるとき番組の終わりに「レギュラー募集中」とテロップが流れた。レギュラーっていう言葉の意味がわからなかったけれど、もしかして番組を観に行けるのかなと思って、家にあったハガキに必要なことを書いて送ってみた。
後日、オーディション開催の通知が来て、親が「何これ?」と訊ねる。番組を観に行きたかったんだと伝えると、これは試験を受けて番組に出る人を決めるためのものだと教えてくれた。
それを聞いて、余計に行きたくなった。観られるだけでもうれしいのに、出られるならもっといいじゃないか! と。親からは、忙しくてそんなことに付き合ってあげられないと言われたけれど、とりあえずオーディションだけでも連れていってほしい、あとは自分でなんとかするからとお願いした。
オーディションに行ってみると、周りはステージママみたいな人ばかり。僕にできるのはただ元気にふるまう事だけ。それでも一次選考には通って、16人が選ばれた。そこからは一度番組に出演して、視聴者の人気投票でレギュラーを決めるという。
どういうこと? とスタッフに訊ねると、ハガキがいっぱいくればいいんだと教えてくれた。そうかと母に頼み込んでハガキをたくさん買ってもらい、何十枚も自分を推薦するお便りを書いた。最初は友だちの名前とか書いていたんだけど、すぐ尽きてしまって、途中から織田信長とか武田信玄って書いたりして(笑)。
しばらくして番組のディレクターに呼ばれて出向くと、「そんなことしなくたって、ちゃんとたくさんきてたぞ」とハガキの束を見せられ、合格を伝えられた。自分で何十枚も送っているのはバレバレだった。
それで1年間、毎週番組に出られることになった。親は仕事で忙しくてついてきてくれないから、僕は学校が終わると六本木のスタジオまで一人で通った。そのうちにモデル事務所の存在を知って、所属させてもらった。
とはいえそんなに仕事があるわけはない。ひたすらオーディションを受けまくるだけ。受かれば仕事になるけど、めったに受かったりなんてしない。
それも当然で、当時の僕はオーディションで笑ってみてと言われても、「なんでおもしろくものないのに笑わなくちゃいけないの?」なんて答えちゃう子どもだった。それじゃ受かるわけないんだけど、100回に1回くらいはそういうところがいいねと言われたりもして、少しずつ仕事が増えていった。
意識が変わったのは、中学2年のとき。岩井俊二さんのドラマ「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」に出演した。たいていの撮影現場では、子役なんてガキ扱いされるだけだけど、岩井さんは僕らと同じ目線で話をして、一人前扱いしてくれた。気づけばそのままの僕をうまく引き出してくれている。魔法みたいだ。演じるって楽しいと思えるようになったのは、岩井さんのおかげだった。
翌年にはドラマ「人間失格」に出演。こっちの経験は、僕のいる環境をガラリと変えた。社会現象になるくらいの人気ドラマだったから、全国的に一挙に顔を知られることとなったのだ。ある日突然、段ボール二箱分のファンレターが届くようになっちゃうんだから、そりゃあ中学生としてはうれしかったりとまどったりもする。
名が売れて、芸能界での仕事はもちろんしやすくなっていくのだけど、自分にとってはいい面も悪い面もあった。その功罪と、今の仕事につながる考えの芽生えを、また次回に語りたいと思う。
次回に続く
Text=山内宏泰 Photograph=太田隆生
【小橋賢児の半生①】俳優から転身! なぜULTRA JAPANを手掛けたのか?