男性スタイリストという職業の地位を自らの腕一本で高め、66歳を迎えた今なお木梨憲武、市川海老蔵、高中正義、葉加瀬太郎、田中将大ら数々の一流仕事人のスタイリングを手がけている。大久保篤志は、なぜこれほどまでに大物たちを惹きつけ、愛され続けるのだろうか?魅力の根源を知りたくて編集部は彼とその周辺を徹底取材し、その実像と半生を追った。すると徐々に炙りでてきたのは「反骨」と「アソビ」という相容れない生き様の同居だった。「大物たちを惹きつける反骨のアソビ人生、スタイリスト大久保篤志【独占インタビュー】」はこちら。「スタイリスト大久保篤志はなぜこれほどまでに大物たちを惹きつけ、愛され続けるのか?」はこちら。
独立40周年! 生涯現役66歳の戦歴
1982年4月5日発行anan別冊『スタイリストの本』。当時のananおなじみスタイリスト8 人がそれぞれ得意なジャンルで自由に表現。独立2年目の26歳大久保は「ミスマッチ タッグマッチ」という企画を立てモデルとしても登場(左)。
1978年11月10日号『POPEYE』。上京したての23歳。読者モデルとして誌面に登場。「オンワード樫山」就職後も編集部に出入りするうち、’80年に憧れのファッションディレクター北村勝彦の「3番目のアシスタント」に就任。「原稿が下手」などと評され、わずか1年でクビに……。
1981年5月1日発行『anan』(右)。このプレッピー特集号からフリースタイリストとして参画。同年11月13日発行(左)では表紙スタイリングを担当し、モデル・くればやし美子にマリテフランソワジルボーを着させて大ヒット。
1983年PARCOの広告『狩人か。旅人か。』。初めての広告の仕事はAD井上嗣也、Photo十文字美信、Copy糸井重里という大物に囲まれ「無名だったのはぽつんと俺ひとり」。少年たちの衣装はAD井上からカラーチェックを渡され、ハリウッドランチマーケットのゲン垂水に依頼。
ヤマハ発動機カタログ『55mph A BOOK FOR MORTORCYCLIST』。’80年代中盤、ダイアモンドヘッズAD横山修一に誘われスタイリング担当に。欧州、モロッコなどで過酷ロケを敢行。
80年代中盤以降、ヨウジヤマモトのカタログ『Y’s for men』のスタイリングを担当。40人ほどのモデルを東京・府中の野原に集めて撮影。他にも、サンタフェ(米国)、ハルピン(中国)など海外で毎年のようにロケを敢行。
1989年、ミュージシャン高中正義のスタジオ・アルバム『GAPS!』のジャケット撮影のためマイアミへ。この撮影後、“失踪事件”を起こしてしまう。
’80年代後半に長年憧れていた矢沢永吉のスタイリングを担当。写真上は1988年12月21日東京ドーム・コンサートでの衣装。下の紙は、大久保が大切に保管していたその年の矢沢のコンサートのスケジュール。9~12月の4ヵ月で計77公演。驚くほどびっしりと予定が埋まっている。
1991年、菊池武夫のショーのスタイリングを担当。写真は『流行通信』’91年9月号に掲載された菊池のインタビュー記事。「メンズファッションのなかでは一番の存在。まさか自分ができるとは思ってもいなかった」。
1992年のシンガーソングライター・大江千里のブックレットの衣装を担当。「自分の領域を広げていくためにもやった仕事。今見ても、古びていないスタイリングだと思うよ」。
サザンオールスターズは『エロティカ・セブン』のほかに、『クリスマス・ラブ』のB面『ゆけ!!力道山』では自身の後ろ姿が採用された。Original Love『接吻』やglobe『DEPARTURES』も担当。
男性誌『RAGE』1999年2月号に掲載された俳優・緒形拳が出演したスタイリングページを担当。
「大変、恐縮ながら」大久保自身がテストモデルとなり、事前にポラロイドカメラで撮影して準備万端。緒形は、ほぼほぼ想定のプランどおりの動きで応じてくれた。
1994年に発表されたPARCOのポスター『COORDINATE SESSION!』。自身の名前がポスターに掲載された。「今振り返ってみても、お気に入りのスタイリングだね」と自賛する。
雑誌『ブルータス』2006年11月号で植木 等(右)と谷啓(左)のスーツ姿をスタイリング。植木は翌’07年3月に、谷は’10年9月に鬼籍に入った。大久保は過去に自身が手がけたお気に入りの雑誌ページの確認用ゲラを大切に保存している。
2006年、自身のブランド「The StylistJapan®」を立ち上げた。ローンチ時から大久保とともに、ファッション・キュレーターの小木“POGGY”基史がブランドの顔としてモデルを務める。
初年度は専属スタイリストを担う木梨憲武のアトリエで展示会を開催。
2021年9月25日発売の『GOETHE』11月号のファッション特別企画「おしゃれな経営者が日本を救う!」では、NEXT ONE代表取締役社長の斉藤 徹氏をスタイリング。「知らなかった自分と出会えました」と斉藤が賛辞を送った。
Atsushi Okubo
1955年北海道生まれ。’78年に上京し、文化服装学院などを経てオンワード樫山に契約社員として入社。退職後、雑誌『POPEYE』編集部を経て’81年にスタイリストとして独立し、雑誌『anan』で活躍。その後、広告やショースタイリング、著名人の専属担当などに活動の舞台を移し、評価を不動のものに。2006年からは自身のアパレルブランド「The StylistJapan®」を展開する。
TEXT=鈴木 悟(編集部)
PHOTOGRAPH=鈴木規仁