競技者なら誰もが憧れる米プロバスケットボールNBAの舞台で、ルーキーながらチームの主力として存在感を放っている八村塁。コート外でも、チームにすっかりと溶け込み、先輩からの信頼も勝ち取っている。開幕戦を現地で取材したスポーツニッポン木本新也記者が、知られざる八村の人間力を分析した。
日本語と遜色ないレベルでインタビューに受け答え
米報道陣からの質問に英語で答え、数メートル横に移動する。続いて日本語での取材に応じる。ウィザーズの八村塁(21)は試合後、ロッカールーム付近で行われる囲み取材で2つの言語を操る。場所を変えるのは日米でスポンサーが異なる事情からで、背景となるバッグボードには米国向けは医療組織「MedStar Health」、日本向けは「NEC」のロゴが入っている。
当然、質問の内容が重なることも多い。そんな時、八村はそれぞれの言葉で同じ返答をしており、英語力が母国語の日本語と遜色ないレベルに達していることがわかる。6月のNBAドラフト直後から密着するワシントンポスト紙の記者も「八村の英語はまったく問題がないね」と話していた。
ニュージーランド留学経験のある元英語講師の母と、英語、フランス語、日本語など7カ国語を話せるベナン人の父を持つ八村だが、富山・奥田中時代の英語の成績は5段階中2。本格的に勉強を始めたのは宮城・明成高3年時からだった。
米国人の教師がマンツーマンで指導し、土曜日の練習前の午前や、平日の練習後の夜など勉強に励んだ。バスケと英語漬けの日々を過ごしたが、ゴンザガ大入学時には英語が話せるにはほど遠い状態。ゴンザガ大のフュー監督は「1年目は10%しかわからなかった。2年生になって40%。3年生では100%通じた」と証言している。
大学入学後、八村の英語力アップに一役買ったのがラップ音楽だった。コダック・ブラックやドレイクらの曲を聞き、歌詞の意味を理解できなくても真似をして口ずさんだ。ラップにはネイティブが日常会話で使う単語が多く、参考書では学べない生きた表現を吸収。Netflixでの映画やドラマ、テレビゲームなども利用して楽しみながら英語を習得した。
ウィザーズから1巡目指名を受けたドラフトの日にも、堪能な英語を披露した。
野球からバスケに転向
八村は人生において"楽しむ"ことを大切にしているように感じる。小学生時代は奥田少年野球クラブに所属し、捕手で4番を務めた。チームメートに八村の剛速球を捕球できる選手がいなかったために投手は断念。当時、監督を務めていた高嶋信義氏は「キャッチボールも大人のコーチとやることが多かった。走る競争をしても周囲に気を遣って手を抜いていました」と回想する。6年時の途中で野球から離れたのは、股関節痛を発症した影響もあるが、有り余るパワーや身体能力を持て余して競技を心から楽しめなかったことも一因だったかもしれない。
奥田中入学後にクラスメートに誘われて、バスケ部の練習に参加。いきなり坂本穣治コーチから「お前はNBA選手になるんだ」と言われた。NBAオタクの同級生から見せられたレブロン・ジェームズやドワイト・ハワードらの映像や雑誌に目を奪われ、バスケに熱中。小学生からバスケを始めた選手が大半を占めるチームで、競技歴の短さを補うために練習がオフの日も体育館に足を運びボールハンドリングなど地道な自主練習を行った。
坂本コーチは「塁はすぐにバスケを大好きになった。仲間にいろいろ教わっていたみたいで、吸収も早かった。できないことができるようになっていく毎日が楽しかったみたいです」と回想する。チームメートからプレーに関するアドバイスを受ける喜びは、飛び抜けた存在だった野球では味わえなかった感覚。楽しみながら練習を積むことで、急成長を遂げた。
NBA1年目。レギュラーシーズンは82試合で、ゴンザガ大時代の30試合前後から2倍以上に増え、長距離移動と時差も伴う。2日連続の試合も珍しくない過密日程が続くが、八村は開幕前に「大変なこともあると思うけど、バスケに集中できる環境を楽しみたい。勉強しないでバスケだけってところが楽しみですね」と語っている。
中学生で大好きなバスケと出会い、厳しい状況下でも楽しむことを忘れずに前進を続けてきた。12歳の頃から夢に描いてきた世界最高峰の舞台を、今、エンジョイしている。
Text=木本 新也 Photograph=Getty Images
【関連記事】
【八村塁の素顔】①後輩力 先輩からの信頼を得るために新人・八村が徹していることとは?