佐野義英(仮名、裁判当時58歳)は平日の午前8時頃にJR千葉駅の改札を通り総武線上りの電車に乗り込みました。通勤ラッシュの時間帯です。
裁判で彼は、
「東京がどうなってるか確かめたかった。街を巡りたかった」
と、電車に乗った理由を話しています。誰かと会う用事などは特になかったようです。そんな理由ならわざわざ満員電車に乗らず少し時間をずらせばいいように思えますが、彼はそうはしませんでした。
何度も途中下車をしながら少しずつ東京へと近づいていきました。途中下車を繰り返した理由は、
「トイレが近いので」
ということです。いくらトイレが近くても約1時間ほどの間に5回も途中下車をしていたのはやはり不自然と言わざるを得ません。
そうこうしながら電車に乗っていた彼が事件を起こしたのは、電車が市川駅から新小岩駅までの間を走行している時でした。時刻は午前9時過ぎです。
「この人、痴漢です」
お尻を触られた被害女性(当時18歳)が彼の手を掴んで声を挙げました。周りの乗客によって彼は取り押さえられました。
彼には前科が多数あります。電車内での痴漢が3回、公然わいせつが3回、異種の犯罪ですが万引きの前科もあります。もちろん服役もしていて、今回捕まる約半年前に刑務所を出所したばかりでした。
犯行に至った経緯を、
「被害女性の後ろ姿を見ていたらムラムラしてきて気がついたら触ってしまっていた」
と話していて、
「痴漢をするために電車に乗ったわけじゃない」
と主張していました。
客観的には途中下車をしながら女性を物色し狙いを定めた上で犯行に及んだとしか思えませんが、あくまで突発的な犯行だと言っていたのです。
どんな罪の裁判でも「犯行に計画性があった」と見なされればより刑が重くなる可能性があります。
なぜ彼は服役まで経験しながら痴漢を繰り返してしまうのでしょうか?
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犯行動機について、
「被害女性の気持ちはまったく考えてませんでした。痴漢モノのAVが昔から好きで、自分勝手な気持ちで突っ走ってしまいました」
と話した彼に弁護人が問いかけました。
「そんなAVみたいなこと、現実にあると思いますか? 痴漢されて喜ぶ女性が実在すると思いますか?」
その問いへの答えです。
「頭の中で現実とAVを混同してしまったと思いますが…でも今まで女性と付き合ったことが1度もなくて…」
たとえ女性と交際した経験がなくてもAVの世界と現実の違いくらいはわかりそうなものです。しかし、58年間ずっといわゆる恋愛市場から弾かれ続けた男性の認知がどのように歪み変遷していくのか、それは他者が簡単に想像しうるものではありません。
彼もただ、漫然と欲望のままに性犯罪を繰り返してきたわけではありません。彼も彼なりに痴漢をしてしまう自分を持て余し悩み、周囲に助けを求めてもきました。具体的に言えばNPO団体に相談に行ったり、病院に通ってカウンセリングを受けたりはしていたのです。性欲を抑える薬も服用していましたが効果はあまりありませんでした。
「性欲を抑えられない、というわけではなくて…でも薬は飲んでました。薬で何かが変わるとか改善するとか実感はなくて、正直少し失望しました」
彼が初めて痴漢で捕まったのは平成11年でした。その点を踏まえて裁判官は彼に説諭をしました。
「あなたはもう20年間、治療を受けながら治らなかった。これから先また20年治療を受けても治らないかもしれない。でも治療は止めないでください。今後は覚悟を持って治療に臨んでください」
もし彼が更正できなければまた新たな被害者が生まれるだけでなく、彼自身の人生も壊れていきます。それを彼が望んでいるとは思えません。初めて捕まったという20年前のその日、それまで犯罪を犯すことなく生きてきた彼の中で何が起きたのかはわかりません。しかしその日以来、彼はずっと「痴漢」という沼から脱けだせずにいます。
この裁判の判決は「懲役10ヵ月」でした。(取材・文◎鈴木孔明)