2021年シーズンも佳境を迎えているメジャーリーグ。年々選手の市場価格が高騰し、近年では北米スポーツ史上最高契約の更新が相次いだ。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて状況は一転。昨季は60試合制となったことで、選手の年俸は本来の約37%となり、平均年俸も2019年の437万5000ドルから117万7000ドルに激減した。
この事態は、日本人選手にとっても例外ではない。昨オフは菅野智之投手がメジャーリーグ挑戦を表明するも、条件面が折り合わず日本球界残留を決意。7年間メジャーの第一線でプレーした田中将大投手も帰国を決めるなど、日本人選手にとっても、高額契約を結ぶことが困難な状況となっているようだ。
これから、歴代日本人メジャーリーガーの最高年俸ランキングを紹介していく。時代によって1ドルの価値が変化する様や、日米の年俸格差、そして成功した選手の存在が後続の選手らの契約に与える影響を感じることができるかもしれない。
(※年俸は2021年シーズンまでのデータを使用、『BASEBALL REFERENCE』を参照。1ドル110円で統一した。)
30位 長谷川滋利
最高年俸:322万5000ドル(約3億5500万円)
対象年度:2005年(シアトル・マリナーズ所属)
1996年オフにアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)と契約した長谷川滋利。異例の金銭トレードという形でメジャー移籍を果たした。
日本球界では主に先発として起用されていたが、1年目の97年からリリーフとしての地位を確立。同年は50試合登板、翌98年は61試合と着実に登板数を増やした。以降も活躍を続け、2000年には10勝6敗9セーブ18ホールド、防御率3.48とリリーフながら2桁勝利を挙げた。
01年オフにはシアトル・マリナーズと契約。03年はシーズン途中からはクローザーを任され、63試合登板で2勝4敗16セーブ12ホールド、防御率1.48の好成績を残した。オフには2年総額630万ドルでマリナーズと契約延長。MLB通算517試合登板は日本人最多となっている。
29位 石井一久
最高年俸:357万5000ドル(約3億9300万円)
対象年度:2005年(ニューヨーク・メッツ所属)
2001年オフにロサンゼルス・ドジャースと3年契約を結んだ石井一久。1年目の02年から先発ローテーションの一角を担い、28試合(154回)を投じて14勝10敗、防御率4.27をマークした。
03年は防御率3.86と良化したものの、故障離脱も影響して9勝、04年は31試合(172回)を投げ、13勝8敗をマーク。しかし防御率4.71と安定感を欠き、チームはポストシーズンに進出したが、石井はロースターから外れた。
オフにはニューヨーク・メッツにトレード移籍。同年の年俸は自身最高の357万5000ドルとなったが、けがの影響もあって19試合登板にとどまり、3勝9敗に終わった。
28位 井口資仁
最高年俸:385万ドル(約4億2400万円)
対象年度:2008年(サンディエゴ・パドレス、フィラデルフィア・フィリーズ所属)
2004年オフにシカゴ・ホワイトソックスと2年契約を結んだ井口。「2番・二塁」で開幕スタメンを勝ち取り、チームの象徴となった「スモール・ベースボール」を体現した。
レギュラーシーズンでは135試合に出場し、打率.278、15本塁打、71打点、15盗塁をマークして地区優勝に大きく貢献。左右別の相性を見ると、左投手に対して打率.274、右投手に対して打率.279と満遍なく打ち返していた。ポストシーズンを勝ち抜いて迎えたワールドシリーズでも存在感を発揮し、1年目でチャンピオンリングを手にした。
07年シーズン途中にはフィラデルフィア・フィリーズへトレード移籍すると、オフにはパドレスと1年総額385万ドルで契約。しかし08年は開幕から打撃不振に陥ると、故障離脱もあってシーズン途中に契約解除となった。直後にフィリーズへ復帰。井口の出場はなかったが、チームはワールドチャンピオンに輝いた。
27位 井川慶
最高年俸:400万ドル(約4億4000万円)
対象年度:2007〜11年(ニューヨーク・ヤンキース所属)
2006年オフにニューヨーク・ヤンキースと5年総額2000万ドルで契約した井川慶。先発左腕として大きな期待を背負った。
1年目の07年は開幕ローテーション入りを果たすも、2度のマイナー降格などもあり、14試合登板でわずか2勝。防御率6.25、67回2/3を投じて15本の本塁打を浴びた。
巻き返しを図りたい08年はわずか2試合の登板で未勝利。09、10年はシーズン前のスプリングトレーニングに招待選手として参加するものの、昇格の切符は掴めず。09年以降はマイナー暮らしが続き、メジャー登板なしに終わった。
26位 和田毅
最高年俸:407万ドル(約4億4800万円)
対象年度:2012〜13年(ボルティモア・オリオールズ所属)
2011年オフにボルティモア・オリオールズと2年総額815万ドルで契約した和田毅。しかし、1年目の12年はスプリングトレーニング中のけがで左肘靱帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を受けることとなり、1年間を棒に振った。
投球再開後も患部の状態は思わしくなく、13年も再び長期の故障者リスト(IL)入り。復帰後はマイナーで先発登板を続けたが、オリオールズ在籍2年間はメジャー登板なしに終わり、同年限りで自由契約となった。
オフにはシカゴ・カブスとマイナー契約。シーズン途中にメジャー契約へ移行した。14年は初登板を含む13試合に先発し、4勝4敗、防御率3.25をマーク。翌15年は8試合(7先発)で1勝1敗、防御率3.62の成績となった。
<1〜5位>
<6〜10位>
<11〜15位>
<16〜20位>
<21〜25位>
<300万ドル以上の選手たち>
外部リンク