不条理な世界と闘った、音楽史に残る「反逆のアイコン」15選
絶望ばかりの世界と向き合っていくために。反逆者と呼ばれたカリスマたちの生き様を振り返る。
心の奥底にわけいってみると、不良少年たちが繊細な感受性を持っているというのは本当によくある話だ――彼らは世界の痛みを感じ取っている。彼らは「他のみんながやっている」ようなことはしない。なんでそうでなければいけないのか、わからないから。しばしば彼らは、その代償として受ける排斥を歓迎しさえする。「ブラックリストがあるなら、そこに載りたい」社会問題に意識的なソングライター(であり、クラッシュの著名なファン)であるビリー・ブラッグは、かつてそんなふうに歌っていた。ここに挙げるのは15人の真なる革命者たち。彼らにとって唯一いるべき場所は、誰からも除け者にされた外側だった。
1. プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァース
ロックが弾圧された共産主義圏の「反乱分子」
チェコスロバキアのプラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァースのメンバーたちは、レベル・ミュージックを生死に関わるものだと捉えていた。1968年、プラハの春に対する弾圧から生まれたこのバンドは、強硬なチェコ政府によって地下活動を余儀なくされた。バンド名はフランク・ザッパの楽曲からとられていて、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを崇拝していた。1976年、バンドは作家であり政治指導者として頭角をあらわしていたヴァーツラフ・ハヴェルと面会したが、直後にメンバーは反乱分子として逮捕された。彼らのレジスタンス活動はハヴェルを勇気づけ、同僚にこう語るほどだったという。「この若者たちのようにリスクを覚悟しない限り、私たちはなにも達成できないだろう」時の権力者との闘いに疲弊したプラスティック・ピープルは1988年に活動を停止。その1年後、ハヴェルはビロード革命を率いることになる。一説には、この革命の名前の由来は、チェコのヒッピーたちに物言うことを鼓舞した、例のアメリカのバンドとも言われる。
2. フェラ・クティ
音楽による独立と黒人解放を訴えた闘士
ナイジェリアでバンドを率いたフェラ・クティは自らの政治的な信念に強い情熱を注いでいた。彼は自分自身の共和国を築き、ナイジェリアからの独立を宣言したのだ。ブラック・パワーの提唱者として、クティは自らの音楽スタイルをアフロビートと呼んだ。「奴隷」としてのミドルネームであるランサムを捨て、彼は自らフェラ・アニクラポ・クティと名乗った。このミドルネームは「死を司る者」と訳される。1977年にリリースしたアルバム『ゾンビ』でナイジェリア軍の腐敗を批判した後、このバンドリーダーが築いたカラクタ共和国というコミューンは、1000もの兵士によって襲撃された。施設は焼かれ、リーダーも同僚たちも打ちのめされ、さらにフェラの母親は窓から放り投げられたために後を引く致命傷を負った。これに対するフェラの応答は、母親の棺桶をラゴスにある司令官の宿舎に届けることだった。のちに彼がつくったアルバムのなかには、『コフィン・フォー・ヘッド・オブ・ステイト』(国の長に棺桶を)と名付けられたものがある。
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3. エルヴィス・コステロ
自分の使命は、人をイラつかせることだ
「養ってくれるあの手、噛み付いてやりたい」と歌ったのはエルヴィス・コステロ。パンクなプロテスト・ソング「レイディオ、レイディオ」だ。サタデー・ナイト・ライヴに招かれた際、怒れる若者たるコステロはこの曲の演奏を固く禁じられた。セックス・ピストルズのかわりに(ビザの問題があった)番組に登場したメガネのシンガーは「レス・ザン・ゼロ」の冒頭を演奏したかと思うとバンドの演奏を止めさせ、続いて禁止された楽曲を演奏しだした。彼はSNLから出禁を食らい、それが解かれるには10年以上かかった。「自分の究極的な使命は、人をイラつかせることだ」と彼は語ったことがある。もともとはパンクの第二波の一員と見なされていたが、コステロはカントリーから室内楽まで実に多様なスタイルで楽曲を書いては演奏し、ファンを困惑させてきた。また彼は、パンクのニヒリスティックな傾向に棹さすかのように、ニック・ロウのヒッピー回顧曲「(ホワッツ・ソー・ファニー・バウト)ピース・ラヴ・アンド・アンダースタンディング」をカヴァー。記憶に残るバージョンとなった。
4. MC5
カウンターカルチャーの早すぎた先駆者
「ジャムを始めるぞ!(キック・アウト・ザ・ジャムズ!)」カウンターカルチャーが政治的アクションへの消極性をストリートに打ち捨てた頃、60年代後半を代表する掛け声といえばこれだ。このフレーズを生んだバンドはデトロイトのMC5。人使いの荒いロックグループで、所属するメンバーたちは当時のカオティックなフリー・ジャズへの愛を共有していた。彼らが演奏を始めると、あるライターが言うには、そのサウンドはまるで「バンドがほとんど制御できないような、自然の破滅的な力」のようだった。ブラック・パンサー党に刺激を受け、バンドのマネージャーであるジョン・シンクレアはそのシンパであるホワイト・パンサー党の設立に重要な役割を果たした。バンドの好戦的な性格をあらわすため、ステージ上に弾を抜いたライフルを積ませたのも彼だ。1968年、シカゴでの民主党全国委員会で行われたものの、警察による暴力で潰されたヴェトナム反戦運動において、唯一複数回の演奏が予定されていたのがこのバンドだった。彼らは8時間にわたって演奏した。シンガーのロブ・タイナー、ギタリストのウェイン・クレイマーとフレッド・”ソニック”・スミスが率いたこのバンドは、3枚のアルバムが商業的にふるわなかったこともあり、早々に燃え尽きてしまった。しかし、彼らがラディカルなロッカー兼パンクの先駆者として残した財産はいまも生き続ける。
5. ピーター・トッシュ
バビロン・システムと戦った、永遠のルード・ボーイ
ボブ・マーリーは「レベル・ミュージック」を歌ったが、ウェイラーズにおける真のレベルは偉大な故ピーター・トッシュだった。「起き上がれ、立ち上がれ/権利のために立ち上がれ」この広く知られるチャントを共同執筆したのはトッシュだった。彼の言葉使いは独特だった――彼の世界では、抑圧者(オプレッサー)は「ダウンプレッサー」だった。アイランド・レコードの大物クリス・ブラックウェルがトッシュによる初のソロアルバムのリリースを拒否したときには、グループと契約を結んだこのイギリス人を「ホワイトワースト(白く最悪)」と呼んだ。トッシュの信念は、アルバムのタイトルに明らかだ。たとえば、『Equal Right(平等の権利)』、『No Nuclear War(核戦争反対)』、『Legalize It(解禁せよ)』。ジャマイカの首脳陣を前にしてステージ上でマリファナを吸って大麻合法化を擁護すると、彼は警察に拘束され、留置の際には殴打された。侮辱に甘んじることのなかったトッシュだが、1987年に自宅に侵入した強盗によって殺害されてしまった。「俺はステップを踏むカミソリ」ある歌詞で彼はこう警告する。「俺は危険人物だ」
6. シネイド・オコナー
「真の敵と戦え」たった一人の抗議活動
シネイド・オコナー は永遠に記憶されることだろう。1992年10月3日に放送されたサタデー・ナイト・ライヴのエピソードでヨハネ・パウロ2世の写真をずたずたに割いたためだ。それは聖職者による性的虐待の証言を長きにわたって握りつぶしてきたカトリック教会に対する抗議だった。彼女が歌ったのはボブ・マーレーの「ウォー」。2週間後も彼女は同じ歌詞を叫んでいた。マディソン・スクエア・ガーデンで開催されたボブ・ディランのトリビュート・コンサートでのことだ。彼女は聴衆の野次に押し流されんばかりだった。「ろくでなしどもに心を挫かれてはだめだ」クリス・クリストファーソンは彼女にそう伝えた。「挫かれてなんかない」と彼女は応えた。オコナーはエスタブリッシュメントの考え方に反抗するキャリアを歩んできた。第一に、トレードマークである剃り上げた頭は、女性の客体化に関する直截なステイトメントだった。同性愛者の権利を支持して、彼女はかつてこう語った。「私は3/4がヘテロセクシュアルで、1/4がゲイ」。ショーの前に国歌を演奏するのなら、と彼女がニュージャージーのヴェニューでのパフォーマンスを拒否したときには、フランク・シナトラの怒りを買った。「私はトラブルを起こすために行動したりしない」と彼女は語った。「たまたま私のすることが自然とトラブルを呼んでしまうだけ」
7. カート・コバーン
「世代の代弁者」が持っていた社会への視点
ニルヴァーナがローリングストーン誌の第628号の表紙を飾ってくれることになったとき、カート・コバーンが着たTシャツにはこう書かれていた。「商業誌はやっぱり最悪だ」短い生涯において、彼は信念を疑うことを自らの使命とした――ファンの信念を、そして彼自身の信念を。学生のころ、彼は同性愛者の子供と親しかった。クラスメイトは彼も同性愛者ではないかと信じ込んで嫌がらせをしてきたが、その嫌がらせも楽しんでいたと嘯いた。後年、彼が有名になったとき、バンドは堂々とLGBTの権利を擁護したが、オーディエンスは必ずしも賛同してくれたわけではなかった。コバーンにとって、成功は解くことができないパズルだったが、彼にとって意義深い社会問題――いじめ、リプロダクティヴ・ライツ[訳注:子供を産む・産まないを自ら選択できる、生殖に関する自己決定権]――について語る演台を手に入れもした。それでも彼は自分のバンドがアンダーグラウンドから現れて、メジャーレーベル所属のロックグループに収まったことをひどく嫌っていた。「最悪の罪とは人を騙すことだ」とかつて彼は語った。そして、彼は自らを有罪とみなしたのだった。
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8. ビクトル・ハラ
愛と正義を歌い、独裁政権に殺害されたチリ人歌手
チリのフォーク・シンガー、ビクトル・ハラによる愛と正義の歌は、1973年のクーデターを率いた軍の指導者たちにとってひどく脅威であったらしい。そのためハラを殺さなければならなかったのだ。劇場でキャリアを開始したのち、彼の祖国が1960年代の社会的動乱を耐えぬくなかで、ハラは作曲に取り組んだ。彼は社会主義者の大統領候補サルバドール・アジェンデを支援したが、アジェンデはチリの右翼の手によって公職を追われ、後に不可解な状況下で亡くなった。数千の人びとと共に、今や彼の名前を冠しているスタジアムに囚われ、ハラは拷問を受けた。両手を砕いたのち、彼らはこの歌手をからかって、ギターを弾くよう命じた。反抗的にも、彼は「私たちが勝つ(Venceremos)」と訳される政治的なアンセムを歌ってみせた。こうした不服従のために、ハラはマシンガンで蜂の巣にされて亡くなり、遺骸はサンチアゴ郊外の通りに投げ捨てられた。数カ月後、ボブ・ディラン、ピート・シーガー、そしてフィル・オックスは、ハラの名前を冠した慈善コンサートをニューヨークにて開催した。
9. ジェリー・リー・ルイス
型破りな元祖ロックンローラー
いとこであるテレビ伝道師のジミー・スワガートと同じく、ジェリー・リー・ルイスはきちんとした信心深い家庭で育った。勉学のためにサウスウェスト・バイブル・インスティチュートに送り出されたこの新進エンターテイナーは、ゴスペルのスタンダード楽曲をブギウギにアレンジして演奏したために追放されてしまった。この出来事が、罪と贖罪の狭間に行きた彼の生涯のトーンを決定したのだった。彼の最大のヒット曲、「火の玉ロック(Great Balls of Fire)」や「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」は、あからさまにセクシュアルな暗示のために放送禁止になることもあった。13歳の従姉妹マイラ・ゲイル・ブラウンとの秘密裏の結婚が報じられると、ルイスのキャリアは深く冷え込んだ。型破りなロックンローラーのオリジナル世代のひとりであったザ・キラー[訳注:ルイスの愛称]は、60年代末にはロックンロールに背を向けてカントリーシンガーに転向した。「もし地獄に行くのなら」とかつて彼は語ったことがある。「そこにピアノを弾きに行くよ」
10. パブリック・エネミー
ヒップホップによる音楽革命「権力と闘え」
チャックDの轟く声とバンドメイトによる音の暴力のおかげで、パブリック・エネミーは狙っていたリアクションを獲得することができた。彼らが近づくと、上流社会は彼らを避けて通りの向こうへ逃げていった。彼らのランドマークとなる楽曲「ファイト・ザ・パワー」は、スパイク・リーの長編映画におけるブレイクスルーとなった『ドゥ・ザ・ライト・シング』の鍵だった。この曲はまた、メインストリームのアメリカ文化に対するパブリック・エネミーの徹底した軽蔑をたしかなものにした。彼らはエルヴィス・プレスリーやジョン・ウェインといったアイコニックなヒーローたちを一撃で退けたのだ。1988年のアルバム『パブリック・エネミーⅡ(It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back)』からの1stシングルは「レベル・ウィズアウト・ア・ポーズ」。チャックDにとってこの曲は、バンドが巻き起こしたいと願ってきた、いわば音楽的な暴動を象徴するものだ。「明日死んでもいいくらいだ」ハンク・ショックリーによるワイルドな最終ミックスを聞いたチャックDはこう言ったという。近年ロックンロールの殿堂入りを果たした際に彼が語ったところによると、予測不能なサイドキックであるフレイヴァー・フレイヴを御してきたために、チャックの役割は長い間「キャンプのリーダー」みたいだったという。
11. マリリン・マンソン
社会の闇を体現したアンチヒーロー
小学校に通う誤解されがちな子供たちすべての代弁者として、元ブライアン・ワーナーは自らのペルソナとキャリアをつくりあげ、奇抜さを誇張してみせることで人と違うことを祝いだ。彼のステージネーム――マリリン・モンローと大量殺人犯のチャールズ・マンソンの組み合わせ――ひとつとっても、ショック効果を最大にするために考えられたものだった。おぞましい厚塗りのメイクとコンタクトレンズで、彼はまるでアンデッドのよう。その姿でマンソンは自らを「アンチクライスト・スーパースター」として提示したのだった。1999年、コロラド州のコロンバイン高校における銃乱射事件の後、マンソンは自分の音楽が犯人たちをそそのかしたのではないかと非難され、自己弁護を余儀なくされた(蓋を開けてみると、彼らはマンソンのファンではなかった)。この事件以来、彼は思いのよらぬ理性の声としての姿を表すようになり、「こういう無責任な非難が人と違って見える子供たちに対する差別を増やさないことを望む」と表明した。
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12. スティーヴ・アール
オルタナ・カントリーの先駆者、波乱万丈のアウトロー
ハードコアなカントリーの伝統主義者であるスティーヴ・アールは、自らのキャリアをかけてナッシュヴィルのエスタブリッシュメントに反抗し、かつてグリニッチ・ヴィレッジのフォークシーンが育んだ左翼的な価値観を擁護した。敬愛するソングライタ―であるタウンズ・ヴァン・ザントを称えるなかで、彼はヴァン・ザントをこう呼んだ。「全世界で一番のソングライター。カウボーイブーツを履いて、ボブ・ディランのいるコーヒーテーブルの上に乗って言ってもいいくらいだ」。9.11以後、アールは「ジョン・ウォーカー・ブルース」をめぐって世論を二分する存在になった。この曲が、アフガニスタンでタリバン軍として戦ったジョン・ウォーカー・リンドを人間味あふれる人物として描こうとしたものだったからだ。アールは楽曲で反戦プロテスターたちへの支持やオキュパイ・ウォール・ストリート運動への支持、そして死刑制度への反対を表明してきた(たとえば「エリス・ユニット・ワン」を参照。『デッドマン・ウォーキング』のサントラに収録されている)。「私は父親が最も恐れたことを具現化した存在だ」アールは1990年に「ジ・アザー・カインド」でこう歌った。当時、彼は深刻な薬物中毒と戦っていた。「壊れ、屈服する者もいるが/私はまた別の類の者だ」
13. ザ・クラッシュ
音楽に政治を持ち込んだ、永遠の社会派バンド
「人間について、神について、法について考えてないんだとしたら」ザ・クラッシュのジョー・ストラマーはかつてこう語った。「君はなにも考えていないということだ」彼らにインスピレーションを与えたのはセックス・ピストルズで、ピストルズの初期のギグがきっかけとなってストラマーとギタリストのミック・ジョーンズはバンドを組んだ。しかしピストルズと違ってザ・クラッシュはニヒリズムを無視し、そのかわりに政治的アクティヴィズムを選び取った。彼らのデビューシングル「白い暴動」は、時折人種間戦争への呼びかけだと誤解されることがある。しかし実際には、ストラマーは黒人のアクティヴィストたちの姿に刺激を受け、イギリスの若者に対して支配者階級に対して立ち上がるよう呼びかけたのだ。アーティストとしてのブレイクスルーを経るごとに、バンドの視座はグローバルに広がっていった。たとえば「ロンドン・コーリング」(「スペインの爆弾」という歌詞がある)もそうだし、とりわけ1980年の3枚組『サンディニスタ!』はニカラグアの革命家たちから名付けたアルバムだ。「君は大人になって、落ち着いて、いまや弾圧に手を貸している」とバンドは歌い、リスナーに対して若き日の理想主義を失わないよう懇願した。ストラマーは2002年に50歳の若さで亡くなるまでそのスタンスを貫いた。
●ザ・クラッシュが人種差別と闘った、1978年の「白い暴動」を振り返る
14. セックス・ピストルズ
騙された気分はどうだい?
2006年、唯一のスタジオ・アルバム『勝手にしやがれ』の超人的な力強さが評価されロックンロールの殿堂入りを果たしたとき、このイギリス人たちは式典への出席を鼻であしらった。「式典には行かない」バンドは脅迫状のような声明でこう書いた。「お前らの猿じゃあないんだ」セックス・ピストルズが自分たちの育ったヒッピー的なカウンターカルチャーを拒絶し、パンクな世界を形づくるのを助けたのは確かだが、しかし彼らは間違いなく「反エスタブリッシュメント」であり、その点では先行するカウンターカルチャーと同様だった。「おれはアンチ・クライスト/おれはアナーキスト」ジョニー・ロットンは周知の通り、こう宣言して「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を歌い始めた。「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」では、イギリスで最も批判を許されない女王を「人間じゃない」と退けた。さらにもう一丁、彼はかつて、「大嫌い」と書き殴られたピンク・フロイドのTシャツを着ているのを目撃されたことがある。サンフランシスコでのステージ(下掲の動画)で唐突に活動が終わったとき、ロットンは加入してまだ3年しか経っていなかったが、こんないやらしい質問を残して去っていった。「騙された気分はどうだい?」
●セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズが語る「俺たちは破滅する運命だった」
15. ジョニー・キャッシュ
ドロップアウトした人間に寄り添い、支配層に中指を立てたカリスマ
ママは拳銃で遊ばないように教わったはずなのに、彼はリノの男を撃ち、「男が死にゆくのを眺めていた」。彼の最初のバンドは、ドイツで空軍に従軍していたころに組んだもので、ザ・バーバリアンズと呼ばれていた。ほかのどんなカントリー・アーティストをもさしおいて、ジョニー・キャッシュはアウトローの苦境を最もよく理解していた。彼がフォルソムとサン・クエンティンで行った刑務所コンサートは、囚人たちの誰もがモンスターというわけではなく、むしろ彼らは間違った決断を下してしまっただけなのだ、という彼の考えを強固にする助けとなった。悪名高い「ミドルフィンガー」の写真は、サン・クエンティンにてロック・フォトグラファー(かつ反逆者としての同志でもあった)ジム・マーシャルによって撮影された。刑務所長に贈る写真のためにポーズをとるよう頼まれた際のものだ。数年後、キャッシュがプロデューサーのリック・ルービンの後押しでキャリア再興のさなかにあったとき、彼らはビルボード誌に広告を出した。例の写真に、いかにも短気なこんなキャプションを添えたものだ。いわく、「ナッシュヴィルの音楽業界エスタブリッシュメントとカントリーラジオ局の皆様のご支援に感謝します」。
●音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50