ベルウッド・レコード設立者と共に、70年代初期の高田渡を振り返る
日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年5月は高田渡特集。第2週は数多くの高田渡の作品を手がけて来た、ベルウッド ・レコードの設立者・三浦光紀をゲストに招き、ベルウッド・レコード所属期の高田渡を振り返る。
田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは高田渡さんの「コーヒーブルース」。1971年のメジャーデビューアルバム『ごあいさつ』の1曲。このアルバムはベルウッド レコードの発足前に、キングレコードから発売されました。今月の前テーマはこの曲です。
今月2021年5月の特集は高田渡。1969年にデビューして、ギターの弾き語りを基本に様々なルーツミュージックを取り入れながら、人間にとって大切なこと、世の中の矛盾、地に足をつけて生きていくこと、そんなことを歌い続けた方です。フォークソングとはどんな音楽を言うのか? フォークシンガーとはどんな人を言うのか? 生涯身を以て証明した答えのような人です。名誉や栄光とは無縁だった巷のレジェンド。2005年4月16日に亡くなって、今年で17回忌。彼を偲んで様々な企画が発表されております。
今月は改めて所縁の方を迎えて、彼の軌跡を辿ってみようと思います。永遠の高田渡。今週と来週のゲストは三浦光紀さん。高田渡さんのオリジナルアルバムを最も多く手掛けられたプロデューサー、ディレクターであり、ベルウッド ・レコードの設立者。その後の歴史に残る様々な名盤を手掛けられた方。現在は音楽事業家、5年後には世界があっと驚くようなプロジェクトを手掛けられています。アルバム『ごあいさつ』は、三浦さんが初めて手掛けたアルバムでした。改めて、高田渡はどんなアーティストだったのか? 2週間にわたってお話しいただこうと思います。こんばんは。
三浦光紀(以下、三浦):こんばんは。
田家:17回忌という時間についてどう思われますか?
三浦:あっという間でしたね。
田家:三浦さんの記憶や高田渡さんという人の存在感も変わってきましたか?
三浦:時が経てば経つほど、僕の中では存在が大きくなっています。
田家:改めて高田渡さんと三浦光紀さんの関係はどんなものだったのか? これは渡さんがエッセイ集『バーボン・ストリート・ブルース』の中でこう書かれております。「1970年の夏、第二回中津川フォークジャンボリーに出演していた時のこと。楽屋にいた僕に一人の若いダンディーな男がツカツカ近寄ってきて、名刺を差し出してこう言った。"あなたのレコードを吹き込みたいのですが、えーと、どうしたらいいでしょうか?"それがキングレコードのディレクター・三浦光紀だった」。この時のことはこれからゆっくりお訊きしていこうと思います。時が経つにつれて高田渡という存在がどんどん大きくなると言われましたが、どんな人になっていますか?
三浦:一言では言えないんですけど、やっぱりフォークソングのあるべき姿と言いますか。それを示してくれた、僕にとっては先生みたいな人ですね。
田家:三浦さんにとっての先生はもう一人、小室等さんがいらっしゃいますが。
三浦:小室さんと高田さん、あと細野晴臣さんですね。
田家:今週来週はそんな人物名が度々登場すると思います。三浦さんに思い出の曲を選んでいただきましたが、一曲目は「しらみの旅」です。
田家:この曲を選ばれた理由は?
三浦:ベルウッド・レコードは1972年に立ち上げたんですけど、その前の1971年にプレ・ベルウッドの時代があって。そこでシングル盤が3枚出ているんです。4月1日に小室さんの『雨が空から降れば』、同じ日にはっぴいえんどの『12月の雨の日』。それと5月20日に高田渡さんの『自転車に乗って』。アルバムも5月10日に小室さんの『私は月に行かないだろう』、6月1日に高田さんの『ごあいさつ』。それで、11月20日にはっぴいえんどの『風街ろまん』。だから1971年は、僕はこの3組をずっとやっていたんですね。渡さんは、大滝さんも色々なところに書いていますが、最初からはっぴいえんどはすごいと言っていた人で。僕が渡さんにアルバムを作ろうと声をかけて、最初の打ち合わせは、僕が尊敬する早川義夫さんと渡さんと3人でミーティングをしたんです。そこで渡さんからの条件が一つ、はっぴいえんどとやりたいと。
田家:渡さんの方からの条件だったんですね。
三浦:それで最初にスタジオに集まって、渡さんを囲んで車座にはっぴいえんどが並んで。打ち合わせしながら音を出したというのが印象に残っていて、その最初の音が「しらみの旅」だった。だからこれは、僕にとって絶対に欠かせない曲なんです。
田家:ベルウッドのレーベルのマークがありましたが、あれは高田渡さんのお兄さんがデザインされたんですよね。
三浦:そうです。ベルウッドは小室さんが付けた名前で、マークは渡さん、サウンドははっぴいえんどで。ありもので間に合わせたという感じです(笑)。
田家:ありものにしては前例のない人ばかりでしたけどね(笑)。お聞きいただいたのは、高田渡さんの1971年のアルバム『ごあいさつ』から「しらみの旅」でした。
ごあいさつ / 高田渡
田家:アルバム『ごあいさつ』の一曲目「ごあいさつ」。作詞が谷川俊太郎さんですね。この曲で思い出されることはありますか?
三浦:小室さんも谷川さんが好きで谷川さんの曲をいい感じで歌ってたんですけど、渡さんも負けないくらい凄くて。渡さんのアルバムをやろうと決めた時に、僕と渡さんと小室さんで当時5万円くらいのバンを運転してもらって日比谷公園に行って、バンの中で渡さんにアルバムの曲を歌ってもらったんです。僕と小室さんがそれを聴いて。要するにベルウッドを作る前から、小室さんと岩井宏さんが僕のスタジオワークの師匠だったんです。岩井さんは渡さんのことをすでに知ってましたから小室さんに聴いてもらって。小室さんも「渡はすごいねえ」と、ずっと言っていて。
田家:冒頭で高田渡さんがこんなことを書いていますよ、と紹介した、1970年のフォークジャンボリーの楽屋で名刺を渡した時のことを改めて教えていただけますか?
三浦:フォークジャンボリーがあるっていうのは、僕の後輩の牧村憲一というプロデューサーが教えてくれて。どういう人が出るのって訊いたら、はっぴいえんどとか僕の大好きなURCレコードのアーティストが全部出るので。それ全部録音しようかなって言ったら、「それURCの仕事ですよ」って言われたんだけど、どうしても自分が録りたくて(笑)。それでURCにお願いして、僕の録ったテープはURCでどう使ってもいいからということで強引に録らせてもらって。岡林信康さんのバックをやっているはっぴいえんどと高田渡さんがとても印象的で、URCに高田渡とはっぴいえんどをやりたいって言ったら、「はっぴいえんどはこの前レコード出したばっかりだ」って言われて。何も知らなかったんですよ(笑)。高田渡はフリーだから大丈夫ということだったんで、高田さんのところに行ってレコードを出させてくださいって言ったんですね。
田家:会社に黙ってキングレコードの録音車を持ち出して収録したという伝説もありますね(笑)。
三浦:いい上司だったんですよ(笑)。当時第2回フォークジャンボリーに8千人くらい集まったんですけど、ああいう大規模なイベントってなかったですからね。その前の年にウッド・ストックがあったじゃないですか。日本でもそういうのやってたんだっていうことに興味があるのと、出たアーティストに興味があって記録としてどうしても残したい、残さないと将来悔いるなと思って。それで記録として録りにいったんです。
田家:そこで高田渡さんに惹かれたと。渡さんはそれまでのURCを離れて、まさにフリーの時期だったんですね。このアルバム『ごあいさつ』には色々なミュージシャンが参加しているんですが、そのミュージシャンについては?
三浦:渡さんと相談しながらです。『ごあいさつ』は、早川義夫さんが選曲から構成まで全部考えてたんですよ。僕は当然早川さんがスタジオに来ると思ってたんですけど、来たのが岩井さんだったんですね。なんで早川さんは来ないのかなと思いながら、最後まで来なかったんですよ。未だに理由はわからないです。これは僕の憶測なんですが、早川さんは高田さんは言葉が大切だから、言葉明快に伝わるにはギター一本がいいって言っていたので、はっぴいえんどが参加することを気に入らなかったのかなって。詳しくは分からないですけどね。
田家:それでこういう人たちが集まって出来た曲ということで、続いて三浦さんが選ばれたのはこの曲です。「銭がなけりゃ」。
田家:生ギター中川イサトさん、バンジョーとコーラスは岩井宏さん、バンドがはっぴいえんど。コーラスに加川良さんと遠藤賢司さん。「銭がなけりゃ」は、1969年にURCから出たアルバム『汽車が田舎を通るそのとき』にも収録されていますが、そちらの方は”銭”がカタカナ表記ですね。高田渡さんの命日には写真集『高田渡の視線の先に-写真擬-1972-1979-』も発売になりました。これはどう思われましたか?
三浦:時々渡さんが「歌う写真家もいいね」って言ってたんですよ。カメラは今、なぎら健壱さんが持ってるのかな? 写真が大好きなのは当時から私も知っていて、写真というのはギターと一緒でその人の個性が出るんだってよく言ってましたね。アルバム『石』の時に高田さんが吉祥寺の煙草屋さんのおばあさんのモノクロの写真を使ったんですが、こういう写真を撮るんだなと初めて知りました。
田家:写真集の中には、今名前が挙がった当時の仲間のミュージシャンの写真がたくさん載っていて。そういうミュージシャンの写真が、カメラマンが撮った写真とは全然違う表情をしていて。はっぴいえんどの写真を見ると皆が笑っているんですが、あれは驚きましたね。
三浦:話は飛んじゃうんですけど、僕の実家は酒田の火事で焼けちゃって僕の写真が一枚もないんです。それ以来僕は、自分の生きた証は写真で残すのはやめようと思って、未だにアルバムもないんですよ。今僕の写真を見るのは、友達の佐高信君とかの家に行くと見れるという状態です。この前、高田漣さんが作った写真集を見たら僕も写っていて懐かしくて。僕はこういう顔してたんだって初めて知りました(笑)。渡さんはこんな僕まで撮ってくれたんだって恐縮して見てましたけどね。
田家:彼はミュージシャンの中でいかに愛されていたかっていう証拠みたいなものですね。そういう人たちが作ってこの曲を、こんな風に演奏されています。
自転車に乗って (ファンキーヴァージョン) / 高田渡
田家:ベルウッドからの第一作アルバム『ごあいさつ』の中の一曲。実はこのアルバムにはもう一曲「自転車に乗って」があって、そちらはシングルにもなっているオリジナル版です。でも、三浦さんが選ばれたのはファンキーヴァージョンですね。
三浦:これはワケがありまして。オリジナル版の方ははっぴいえんどが演奏しているんですけど、あれは大滝さんがベース、細野さんがピアノと何かをやってるんですよ。それはそれでいいんですけど、漣ちゃんが自分のアルバム「コーヒーブルース」でシングル版の方を自分でやってるんだけど、漣ちゃんがすごいのは「自転車に乗って」の前に神長瞭月というバイオリン演歌の人が歌ったハイカラ節を入れてるんですよ。当時僕は教養課っていうところにいて、長田暁二さんという僕の上司が明治大正の歌とか、舞踏歌謡みたいな古い音源を集めていて。そこに神長瞭月のハイカラ節があった。当時は自転車がハイカラなものだったので、自転車節とも呼ばれていたらしいんですよ。渡さんはそれを知っていて、ハイカラ節を「自転車に乗って」という歌詞にしたんですね。
田家:それを高田漣さんは自分で生かして「コーヒーブルース」で歌ってたんですね。
三浦:すごいですよね。そっちの方は1971年のシングル盤として世に出ているので、僕はティン・パン・アレイと矢野顕子さんがやった方をかけようと。
田家:今お聞きいただいたのは、ティン・パン・アレイと矢野顕子さんが演奏したバージョン。1972年の『フォークギター:ベルウッドギターの楽しみ』というアルバムに入っていた。
三浦:そうなんです。僕の好きなレーベル「フォークウェィズ」が、よくギターの教則本を出してたんですよ。それに倣って、中川イサトさんと村上律さんに教則本をやろうと言って出来た時の音源だったんです。
田家:三浦さんが最初に仰った師匠の小室等さんとも、その教則本で出会ったという。
三浦:そうです、小室さんの教則本とイサトさんの教則本の二種類があるんですよ。
田家:そういう背景もこの選曲にありました。お聞きいただいたのは「自転車に乗って (ファンキーヴァージョン) 」でした。
田家:お聞きいただいているのは、1972年の3枚目のアルバム『系図』からタイトル曲「系図」。
三浦:一枚目の『ごあいさつ』は渡さんが自分で歌詞も書いていたんですけど、『系図』以降は自分の歌詞はほとんど使わなくなって。渡さんの好きな谷川俊太郎さんとか山之内貘さんの詩を歌うようになった。『系図』のちょっと前には、素人の僕が書くよりもプロの方が書いた詩を歌った方がいいと思ってるんだと言っていましたね。
田家:高田渡さんは『ごあいさつ』の発売後に上京して三鷹に住まわれた。その時のことはどんなふうに。
三浦:僕は当時の生活のことはよく知らないんですけど、早川義夫さんが一生懸命面倒を見ていましたね。
田家:なるほど。「早川さんは、岡林さんのバックをはっぴいえんどがやることをあまりいいと思ってなかった」って小倉エージさんが言ってましたからね。バンドや弾き語りということに対して彼のこだわりがあったんじゃないかとのことでした。
三浦:やっぱりそうなんだ。はっぴいえんどがどうということじゃないんですね。
田家:『ごあいさつ』と『系図』は音のイメージもかなり違っていて、ミュージシャンも変わってきましたね。『系図』の中には、ギターに中川イサトさん、ヴァイオリンに武川雅寛さん、バンドネオン、池田光夫さん、ギター・ボーカルいとうたかおさん、ギター駒沢裕城さん、武蔵野タンポポ団、そして細野晴臣さんがウッドベースで参加しています。それは皆で話し合ってそうなっていったという感じですか。
三浦:たまたまそこにいたんだと思います。ベルウッドって、はっぴいえんどの『風街ろまん』の時もそうなんですが、渡さんとか色々な人が見物とか遊びでスタジオに集まるんですよ。だから、たまたまそこにいたんだと思うんです。
田家:それは三浦さんの方針ですか?
三浦:いや、ただ仲が良かったんですよ。一つのクラブ活動をやっているような感じだったんですよね。
田家:でも責任者の人がそれを良しとしていなければ、集まって来れなかったとも言えますが。
三浦:そうですよね。本当に仲良いし、音楽的にも合う。
田家:三浦さんがこのアルバム『系図』から選ばれたのがこの曲です。
田家:1969年のアルバム『汽車が田舎を通るそのとき』にも収録されていましたが、この『系図』の中では唯一、自身で作詞作曲を手掛けております。この曲を選ばれたのは?
三浦:小室さんが、高田渡さんのことを日本で一番歌の上手い一人だという言い方をするんですよ。そこで名前を出すのが、田端義夫と高田渡。僕にはよく分からないんだけど(笑)。話すように歌うとか、演技もそうだけど演技しない演技って一番いいって言われるじゃないですか。歌も歌わない歌が一番いいと僕は思うんです。小室さんも僕も合唱団出身だから、歌うことに対して恥ずかしい気持ちもあって。ああいう語るように歌えるっていうのは一種の憧れなんですよね。
田家:三浦さんは早稲田のグリークラブ出身で、業界内にもいっぱい後輩がいると。
三浦:それ言われるのがすごく恥ずかしいんですよ(笑)。でも、ああいう語るように歌えるのっていいよね、と小室さんと言っていて。それの代表的な曲だと思います。
田家:この「鉱夫の祈り」は、10代の時に、貧富の差や働く人と働かせる人という社会の構造に対して歌っているわけで。そういう時代ではありましたけど、感受性が強い人ですよね。そういう高田渡さんの視線についてはどう思われました?
三浦:その頃は共産党系の印刷会社でアルバイトをしていて、仲間とそういうメッセージソングの話もしたと思うんです。漣ちゃんが編集した渡さんの17歳頃の日記本『マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966‐1969』にも出てくるんですけど、ピート・シーガーとの手紙のやり取りとかあったりして。そういうプロテストソングを歌おうという決意とか書いてあったりするんですけど、17歳で大人が歌うような哲学的なことを歌うのは、ある種の天才なんじゃないかなと思うんですけどね。
田家:17歳とは思えないようなことを書いていますもんね。『バーボン・ストリート・ブルース』の中には「ごあいさつ」や「系図」の頃のことを、「自分の中のものを全て出し切りたいと思ってやっていた」、「シンガーとしてやっていけるかということよりも、こういうものを作りたいということだけで動いていた」と。
三浦:なるほどね。僕は幸い、小室さんとか細野さんとか色々な人の1stアルバムをやらせてもらったんですけど、1stアルバムはそのアーティストや作家の芸術性が一番出ると思ってるんですよ。そういう意味では、渡さんの『ごあいさつ』も渡さんのそういう部分が出たと思ってます。
田家:さて、ベルウッド三部作の三枚目、1973年のアルバム『石』の中から、三浦さんが選んだのはこの曲でした。
三浦:これは渡さんが大好きな曲で、色々な形で歌ってるんですよね。僕は子供の頃からエノケンさんの歌がすごく頭に残っていて、僕の上司の長田さんも歌謡史の研究家だったので。僕がレコード会社に入った頃は、まだステレオが全盛期じゃないんですよ。モノラルがまだある時代。古い歌謡曲はモノラルで残っていたんですが、長田さんが「三浦くん、これ擬似ステレオにしてくれ」って言うんですよ。エコーかけまくるだけなんですけど(笑)。それだったら本人たち呼んでステレオにしましょうよということで、エノケンさんが車椅子でスタジオに来て、この曲をレコーディングしたんです。チーフは長田さんで、僕はアシスタント。それで渡さんがやってるのを聞いたら、エノケンさんと声がそっくりなんですね。エノケンさんの「私の青空」を越えようと思って作った記憶があります。
田家:「私の青空」をやりたいというのは渡さんの方から言ってきた?
三浦:そうです。
田家:自分で録った曲をやりたいと言われた時はどう思われました。
三浦:ぴったりだなと思いました。驚きもしないし、嬉しかったです。
田家:どこに惹かれていたと思います?
三浦:内容がすごく渡さんの好きそうな歌詞だなと思って。家族とか。本人はめちゃくちゃなんですけどね、現実とは違うから。
田家:渡さんが亡くなって棺が運ばれるときにこの曲が流れたそうですね。
三浦:流した人はすごいですよね。 ニューオリーンズで人が亡くなったときに、ブラスバンドで隊列組んで街を練り歩きますよね。それを意識して使ったんですかね。
田家:高田漣さんじゃないんでしょうか。
三浦:たぶんそうだね。
田家:でも渡さんの声って、決して明るくはないですけど、歌い方も含めて湿っぽくないですもんね。
三浦:エッジが効いてるんですよね。
田家:その辺が、小室さんがボーカリストとして評価するポイントかもしれないですね。三浦さんがこのアルバムからもう一曲選ばれております。お聞きください、「当世平和節」。
当世平和節 / 高田渡
田家:この曲を選ばれたのは?
三浦:渡さんの歌はほとんどメッセージなんですね。これは添田唖蝉坊さんの息子、添田知道さんの詩なんですけど、今でもこの歌は通用するんじゃないかなと思って選びました。ブロード・サイド・バラッドというか、新聞を売るために新聞の中身を歌うじゃないですか。添田唖蝉坊さんもそうですし。
田家:瓦版ですね。
三浦:シェイクスピアなんかも言っていますが、メッセージのない作品はただのアクセサリーだと、そういう意味でも高田渡さんの曲は全部メッセージ性があって僕は好きだったので、その流れで選びました。
田家:一曲目「しらみの旅」は、添田唖蝉坊さんの詩でしたもんね。
三浦:元々のタイトルは「流浪の旅」なんですよね。それを「しらみの旅」に。
田家:高田渡さんに添田唖蝉坊という人がいるんだと紹介をしたのが、評論家の三橋一夫さんで。『ごあいさつ』のライナーノーツも三橋一夫さんが書いてました。
三浦:すでにある曲に言葉を乗せるのはフォークソングの王道ですよね。それも三橋さんが持っていた替え歌100年とか明治大正のなんとかっていう本を渡さんが借りて来てことから始まったって、漣さんが書いてましたね。まさに高田渡になる瞬間ですよ。そういう意味でも三橋さんがすごい人なんですね。
田家:三橋さんにライナーを頼んだのは?
三浦:渡さんです。
田家:なるほど。アルバム『石』には、最後に11曲目「火吹竹」も収録されています。これはお父さんの高田豊さんの詩でした。労働詩人で一冊だけ詩集があるという。渡さんは親父の詩を歌いたいと言われてたんですか。
三浦:いや、そこまで強くは言ってなかったですけど、いつか歌いたいとは言っていて。それがこの曲でした。
田家:なるほど。ベルウッド三部作の最後はこの曲でした。さて、来週はどんな話になりますか?
三浦:来週はベルウッドを辞めてからの渡さんについてお話しましょう。
田家:アメリカに行くわけですが、三浦さんが首謀者であります。本日はありがとうございました。
田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」高田渡特集Part2。今年が17回忌、永遠のフォークシンガー高田渡さんの軌跡を辿る1ヶ月。今週と来週は、ベルウッド・レコード設立プロデューサーの高田漣さんをゲストにお送りしました。今流れているのは、この番組の後テーマ、三浦光紀さんの「静かな伝説(レジェンド)」です。
1970年代の音楽は今、色々な形で再評価されています。1970年代だからということではなく、新しいものとして若い人たちに受け入れられているのは素晴らしいことだと思うんです。音楽が時代を超えていく、作品がそこから時間がなくなっていくのは素晴らしいことだなと思うんですが、そこに一つのイメージの固定化みたいなものがあったりするのかなとも思っていて。ジャンルみたいなものですね。つまり、高田渡とはっぴいえんどは、そういう方達にとっては別ジャンルではないかと。単純に言えばフォークとロックですね。でも、当時お互いを分かり合っていたのが、高田渡にとってははっぴいえんど、はっぴいえんどにとっては高田渡だった、ということが分かってもらえると良いなと思うんです。何が共通していたかというと、共にメジャーではない、共にあまり売れていなくて、でも誰もやってない音楽をやっていたという共通項があったことは知ってほしいんですね。音楽はスタイルじゃなくて、志なんだということが伝わると良いなと思いながら、高田渡特集を続けております。こういう生き方もある、こういう物の見方もある、こんな風に世の中に対して思ってる人がいた。このことをどう思っていただけるかなという特集でもあります。
三浦光紀(左)と田家秀樹(右)
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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