ジャズシンガー齋藤悌子(さいとう ていこ)さんが、アンコールの曲を歌い終えると、最前列で終始うつむいていた老紳士がいきなり立ち上がり、悌子さんを抱きしめた。
悌子さんは驚いた。男性は、ここに来るはずのない兄だった。
ジャズシンガーと牧師 基地をきっかけに交わらなかった2人の人生とは
石垣島在住の齋藤悌子さん。「もう米寿なのよ、やんなっちゃうわ」とおどけてみせる。
ジャズのスタンダードを歌う、やわらかで豊かな声。沖縄がアメリカの統治下にあった時代、悌子さんは、米軍基地の中で10年にわたってステージに立ち続けてきた。
悌子さんの兄は、牧師の平良修(たいら おさむ)さん。修さんは、本土復帰前の沖縄で「沖縄の帝王」と呼ばれたアメリカの高等弁務官の就任式で、挑戦状を叩きつけるような行動に出て世間を騒然とさせた。
ともに沖縄戦を生き延びた兄妹。戦後、米軍基地に反対の立場だった兄は、軍人のために歌う妹を許せないままでいた。基地によって引き裂かれた兄妹がたどった、2つの沖縄をのぞいてみる。
太平洋戦争の戦火が幼い兄妹に迫る
平良兄妹は宮古島出身。修さんは、満州事変の起きた1931年に、悌子さんは1935年に生まれた。那覇出身の父は薬品会社を経営する商売人で、厳しい人だったと悌子さんは話す。
子どもの頃の記憶で鮮明に覚えているのは、兄がいたずらで近所の子どもの酢昆布を奪って食べたときのこと。激怒した父は「そんなに食べたいならこれを食べろ」と、出汁用の硬い昆布を兄の口に突っ込んだ。
土間で昆布をくわえた兄が正座をしながらしくしく泣いているのを見て、つられて悌子さんも泣いた。
修さんは、自身を『軍国少年の優等生』と振り返る。小学4年生のとき、日本の艦隊による真珠湾攻撃の報せを聞くと、躍り上がって喜んだ。
1944年、太平洋戦争が次第に激しさを増し、沖縄が戦場になる危険性が高まってきた。修さんが旧制中学1年の途中で、妹と母の3人で、日本の統治下にあった台湾に疎開。台中に暮らす母の親戚のもとに身を寄せた。
修さんは「前途有為な少年たちを安全地で育成するための手段」という説明に心地よく納得したという。
そして、修さんが中学2年生の夏に敗戦。学校では、それまで抑圧されてきた台湾出身の生徒が、日本人のクラスメイトに報復の制裁を加え始めた。
「教室の腰掛を振り回して、それでぶん殴るわけですよ。でも、やられる側も文句も言えない。敗戦国だから抵抗できなかった」
しかし修さんは、『琉球人』であることを理由に暴力の対象から外された。この体験が、修さんの日本人としてのアイデンティティを崩すとともに『沖縄へのこだわり』を生むきっかけとなった。
輝いて見えたアメリカの文化や生活 歌に夢中だった
戦後、平良家は、父の故郷・那覇へ引っ越した。
高校に進学した悌子さん。歌の才能を教師に見いだされ、米軍基地で演奏するバンドのオーディションを受けてはと勧められた。
1953年、悌子さんはオーディションに合格。高校卒業と同時に、ジャズシンガーの道を歩むことになった。所属したのは、のちの夫となるギタリスト齋藤勝さん率いるバンドである。
1950年代から60年代にかけて、沖縄には米軍基地が次々に建設され、それに伴い、軍関係者が音楽などを楽しむための娯楽施設が急増。フィリピンや本土からミュージシャンが集まっていた。
演奏者不足を補うため、吹奏楽の経験者や音楽が好きな学生にも声がかかったという。
県内各地の基地ごとに設けられた「米軍クラブ」。階級によって「将校クラブ」「下士官クラブ」などに分かれていて、バンドは、ひと月から数か月単位でクラブを移動しながら演奏する生活を送る。
基地の中は、毎日がパーティーのようだったと、悌子さんは回想する。
「みんなドレスアップしてね、ステージの前が全部ホールになって、その先がお食事したり飲んだりするようになっているわけね、そして音楽を聞いて踊ったりする方たちもいらっしゃるわけですよね。とにかくあまりの華やかさにびっくりしましたね」
客は、本場のジャズを知る人々。悌子さんはアメリカで流行中の曲を調べ、歌詞を全てノートに書き留めた。
英語の発音は、軍人やアメリカの新聞記者が教えてくれた。
「本当にラッキーな時代だった、私にとっては。英語の発音を丁寧に教えてくださって、帰りには必ずご馳走してくださる。私が自分勝手に思うのは、やっぱり沖縄の子どもたちにも戦争で苦労かけたって気持ちもあったのかな」
さらに、基地の中では、軍人の慰問に訪れた有名歌手のステージも無料で聴くことができた。エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンなど一流の音楽に直に触れながら、10代の悌子さんはジャズを体得。
20代前半には、沖縄のジャズ界を代表するシンガーとなっていた。
ジャズを歌う 当時の貞子さんの音源
兄・修さんは、軍人相手に歌う妹を、冷ややかな目で見ていたという。
「米軍に媚びているような感じがして、気持ちの上では歓迎できない。私の生活の領域と彼女の生活の領域が、同じ沖縄で、同じ平良を名乗っているが、どこか違うなという違和感はありました」
修さんは、基地の外で、牧師としての道を歩んでいた。
アメリカ人と同じ人権が沖縄の人にはないのか 募る怒り
戦後、修さんは、どうしても割り切れないことがあった。軍国主義の化身に見えた教師たちが、平和主義者に変心していたのである。
国、教師と、安心して信じられるものを失い悶々とする中で、ハンセン病患者への差別と闘った牧師と出会い、キリスト教にひかれるようになる。
米軍チャペルの奨学金で、パスポートをもって東京神学大学校に留学。1959年、コザ市(現沖縄市)の沖縄キリスト教団上地教会牧師に就任した。
米軍チャペルとも交流のあった修さんが、明確に基地反対の姿勢を示すようになったのは、1965年のアメリカ留学がきっかけ。
当時のアメリカで、黒人は激しい差別に晒されていた。
テネシー州の教育大学で学んでいた修さんは、友人に誘われ、当時、キング牧師らを中心に黒人教会で開かれていた公民権運動の集会に出席。
そこで、集会の参加者が、白人による人種差別に怒りを爆発させ、黒人霊歌(ゴスペル)を激しく絶唱している姿に衝撃を受けた。
修さんは妻の悦美さんに手紙を送り、動揺する胸のうちを明かした。
「沖縄でもこういう叫びがあるはずなのに、僕は聞いていなかったというショックで、後の礼拝がどうだったか、もう分からなかった」
基本的人権を求める黒人たちの叫びや歌声に、アメリカ占領下の沖縄の人々の苦しみが重なった。それ以来、修さんは、牧師として、沖縄で泣いている人と一緒に生きることを誓った。
そして1966年、修さんに運命の時が訪れる―
修さんのもとに、アメリカから任命された第5代琉球列島高等弁務官の就任式で、牧師として祝福の祈祷をするよう依頼がきた。
高等弁務官は、米軍統治下だった沖縄の全てを牛耳る最高権力者だ。
就任式当日。修さんは母に電話し「何があっても心配しないで」とだけ告げた。
就任式で祈る修さんの音源(写真・沖縄県公文書館所蔵)
新しい高等弁務官を前にして、「これが最後の高等弁務官になりますように」と述べ、一日も早くアメリカの支配が終わるようにと、神に祈りを捧げた。
人が人を力で支配するのではなく、人間としての尊厳が大切にされる世界を願った祈りの言葉に、会場は水を打ったような静けさに包まれた。
修さんは、自分の後ろでこうべを垂れていた高等弁務官がどんな表情をしていたかは見ていない。ただ、発言のあと、会場にいた記者たちが慌ただしい様子だったのは覚えている。
沖縄県内外のマスコミは、就任式での発言を大々的に報道した。修さんは、米軍に身柄を拘束されることも覚悟していたが、予想に反して、何のお咎めもなかった。
修さんは「私への弾圧の結果、沖縄民衆がさらに反米的になることを恐れて黙殺した」と解釈する。
「大変なことになった」
悌子さんが兄・修さんの発言を知ったとき、そう思った。しかし、すでに沖縄を離れていたこともあって、どこか遠い話であった。
夫との早すぎる別れ 失意から救ってくれたのはやはり歌だった
25歳でバンドマスターの齋藤勝さんと結婚した悌子さんは、30歳を前に沖縄を離れ、鹿児島まで船で渡りオープンカーで1か月かけて夫の故郷・千葉へ。そのころには生活の拠点ができていた。2人の子どもに恵まれ、ライブ活動をつづけながら忙しい毎日を送っていた。
悌子さんの幸せな生活が大きく変わったのは50代のとき。
夫の好きな石垣島に移住してわずか2年…勝さんが病気のため亡くなったのだ。
「本当に優しい主人でしたからね。あっという間に逝っちゃったでしょ。それで私はもうどうしていいかわかんなくなって、しばらく音楽が聞けなかったんですね。音楽が流れるとすぐ涙が出ちゃうから、思い出して」
歌を封印する日々は10年以上続いた。しかし、そんな悌子さんを救ってくれたのはやはり歌だった。ある日、喫茶店から流れてきたジャズを聴いて、もう一度歌いたいという気持ちが湧いてきたのだ。
再び歌い始めた悌子さん。ウクレレサークルで仲間と歌う程度だったが、悌子さんのこれまでの歩みを知った音楽関係者が、音源を残そうとレコーディングを実施。
2022年夏、86歳にして初のアルバム「A Life with Jazz」をリリースする。
兄妹のすれ違いが続く中で、悌子さんのCDデビューの話題は、報道によって修さんのもとにも届く。
この頃までの修さんは、牧師として基地の反対運動に徹し、多忙な生活を送っていた。悌子さんと会うことはほとんどなく、悌子さんの夫・勝さんの葬儀にも参列しなかった。
修さんは、妹が再び歌いだしたことを知って、ジャズがどれほど妹にとって大切なものだったかを理解した。
「妹も、自分が良しと信ずる道を選んで生きている。おおいに歌いたかったら歌ったらいい」
91歳を目前に控え、修さんは初めて妹の歌を聴くことにした。
長いすれ違いを乗り越えたもの
2022年11月、CD発売を記念してライブがひらかれた。
会場は満員だった。悌子さんは20代の頃のステージ衣装に身を包み、「サマータイム」や「テネシーワルツ」など、基地の中でもよく歌った曲を、丁寧に味わうように歌っていく。
最前列に座る修さんは、悌子さんとは目も合わせず、うつむいて聴いていた。
ライブの中盤、修さんの心を動かした歌があった。それは「ダニー・ボーイ」。
アイルランド民謡の「ロンドンデリーの歌」の旋律に歌詞をつけたこの曲は、大切な人との別れを想起させる。
♪ ダニー・ボーイ
ダニーボーイを歌う悌子さん
悌子さんは、会場で、この曲にまつわる米兵との思い出を語った。
「若い軍人さんと素敵な女性が踊っていらして、よく見ると軍人さんが泣いているの。どうしたんだろうと思って、あとでスタッフに聞いたら、あすベトナムに行くんだと。ショックでした。あの人は、生きて帰ったかわからない」
1960年から75年まで、およそ14年半にわたって続いたベトナム戦争。沖縄は最大の後方基地として、アメリカ軍の支えとなっていた。
「あの頃は、ダニー・ボーイをきれいないい曲だなって歌っていた。でも、内容を聞いたり、歳を重ねるごとに、胸を打たれちゃう。ましてや今でも戦争している所があるじゃないですか。戦争は絶対いけないと思うの」
死を覚悟した兵士の涙や戦争の悲しさを自分なりの言葉にまとめ、歌で伝えようとしている悌子さんの姿を見て、修さんは感激した。そして妹の歌が、兵士たちの心を癒していたのだという思いに至る。
「兵士たちは気持ちをほぐされて、休息を与えられて、優しい気持ちを養われて、その場にいたと思う」
ライブ会場が大きな歓声で包まれる中、修さんは、無意識のうちに、妹を抱きしめていた。
平和への思い胸に 兄妹で肩を寄せ合い歌う讃美歌
悌子さんの暮らす石垣島は、自衛隊配備で揺れている。
石垣の港の近くにある自宅からは、自衛隊の車両が大量に運び込まれる様子や、迎撃ミサイルPACー3が配備されている様子がよく見える。
物々しい雰囲気に「再び戦争を起こしてはならない」という気持ちが、悌子さんはさらに強くなる。
修さんが悌子さんの歌を聴いた日から半年。今度は、悌子さんが修さんの活動の場を訪ねた。
修さんは週1回、普天間基地のゲート前で讃美歌で平和を訴える抗議行動を、2012年から続けている。
米軍にむけて、悌子さんはダニー・ボーイを歌う。騒音に抗うように、声に力が入った。そして兄と肩を寄せ合い讃美歌を合唱。
悌子さんは「兄と一緒に夢中になって歌ったのは初めて。今日は最高の日」と話す。
兄妹で肩を寄せ合い歌う讃美歌
兄妹が、やっと同じ歌を歌えた。修さんはその重みを強く感じていた。
「軽い合唱ではないです。昨日覚えたメロディを今日歌うようなものじゃない。何十年も前から深い所でうずいていたメロディを吐き出したんだと思います、兄妹そろって」
悌子さんは、命ある限り戦争反対を訴えたいという。
「あくまでも私達は運よく生かされたわけですから、それを感謝すると同時に、もうとにかく戦争は絶対あっちゃいけないことだと、それをもう願うだけのことですよね」
基地をめぐり立場が分かれた兄妹。ふたりは今、平和を願ってともに歌い、失われた時間を取り戻している。
(取材・執筆 琉球放送 比嘉チハル)
※この記事は、沖縄RBCニュースによる LINE NEWS向け特別企画です