なぜ日本を代表するコメディアンになったのか
2020年3月、コロナの犠牲となって亡くなった志村けんさんは、なぜ日本を代表するコメディアンになれたのか。『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』で放送作家を務め、その後も志村さんに複数回取材を行った江戸川大学教授の西条昇氏に、テレビには映らなかった志村さんの素顔を明かしてもらった。
テレビで見せる陽気な表情と違って、どこまでもストイックなコント師──。それが志村けんさんとご一緒していた時期の印象です。
初めてお仕事をさせてもらったのは、TBSの『加トケン』でした。この番組は『8時だョ!全員集合』終了の翌年に始まった番組で、最初に約20分の長めのコント、後半にショートコントをやる構成は『全員集合』と同じ。私は若手の放送作家として番組に参加して、台本を書いていました。
といっても、台本がそのまま使われることはまずありません。毎週木曜日の午後3時。TBSのリハーサル室で台本会議(通称「木曜会議」)が行われます。出席するのは加藤茶さんと志村さん、プロデューサーと担当ディレクター、『全員集合』時代からのベテラン作家4~5人、そして新人の私。出前の蕎麦を食べながら1時間くらい世間話をした後、作家が書いた台本が配られます。
ここからが作家にとっては針のむしろでした。加藤さんと志村さんは台本を読むなり、「うーん」と唸り始めます。実は台本はあくまで叩き台であり、自分たちの納得いくものを作り込んでいくのがドリフターズ時代からの流儀。沈黙が続く中、ぽつりぽつりと「ここはこうしよう」とアイデアが出てきて、台本が完成していきます。
空気は重かったですね。沈黙が1~2時間続くことが珍しくなく、志村さんも机に突っ伏したり、一点を見つめてひたすら何かを考えていることが多かった。会議が終わるのは、早くても夜の10時過ぎ。台本は最終的に設定が残ればいいほうで、作家としてはしんどい時間でした。
どんなに酔っていても一人時間にやっていたこと
志村さんは海外の笑いを積極的に取り入れていました。『加トケン』でよく参考にしていたのは、レスリー・ニールセンの『フライング・コップ』です。たとえば最後にタイトルロールが流れるシーンで、ストップモーションのように見せかけているものの、実は演者が「だるまさんが転んだ」のように止まっているだけで、周囲の動物は勝手に動き回るというギャグがあったのですが、それをアレンジして演じたこともあります。
また、志村さんは、日本では未放映だったベニー・ヒルというイギリスのコメディアンのコント番組の話もよくされていて、ビデオを入手しては徹底的に研究して、ご自分のコント作りの参考にされていました。
笑いに関して志村さんは人一倍研究熱心で、当時、六本木にあったWAVEという輸入レコード屋さんに日本未発売の海外のコント番組やコメディ映画のビデオを毎回何十本と注文して、毎晩チェックしていました。志村さんはお酒が好きなことで有名ですが、どんなに酔って帰宅しても必ずビデオのスイッチを入れていたとか。テレビではひょうきんな姿を見せている裏で、一人の時間にさまざまな作品を見て自分の芸に取り込めるものがないか、貪欲に研究していたのです。そこに底知れない執念を感じます。
ビデオの見方は独特でした。基本的には倍速で見て、面白そうなシーンに差しかかると普通の速度で確認します。志村さんの笑いはご自身でも言うように、動き7割で言葉3割。映画の筋よりも役者の動きが最大の関心事なので、ストーリー部分は早送りにして、動きの笑いの場面を探していたのでしょう。
こんな話もあります。木曜会議での雑談中、志村さんがジャック・レモン主演の映画『おかしな夫婦』について話をしてくれました。田舎の夫婦がニューヨーク旅行中にさまざまなトラブルに巻き込まれるドタバタコメディです。私は志村さんの話を聞いてどうしても見たくなり、自分でも取り寄せて数週間後に見たら、おっしゃるとおりに面白かった。
私は1年半で番組を離れ、数年後に雑誌の企画で志村さんにインタビューする機会を得ました。そのときに好きなコメディの話になって、「西条君さ、ジャック・レモンがツイてない夫の役をやる映画、なんだっけ」とおっしゃった。さらに数年後、中村勘九郎(故・十八代目中村勘三郎)さんの番組にゲスト出演して、影響を受けた作品の話をしているときも、「ジャック・レモンがニューヨークに行く話なんだけど、題名は何だったかな……」とお話ししていました。志村さんほどコメディを真剣に見ていた芸人はいませんが、映画マニアの方とは違って、あくまでもコントのために見ていた。だから映画の中身は覚えていても、題名が飛んでしまうんですね。
見るものすべて聴くものすべてをコントに取り込んでいく
見ていたのはコメディだけではありません。志村さんにとっては、ホラーやサスペンスも研究対象でした。『加トケン』では、リアルな映像とギャグを組み合わせるという実験的な試みもしましたが、映像のカット割りにはコメディ以外の映画の技法を参考にしていました。ドリフ時代にさかのぼると、ソウルミュージックに造詣が深かった志村さんは、ひげダンスや早口言葉の音楽を自分で選曲していました。見るものすべて聴くものすべてをコントに取り込んでいく、まさに生粋のコント師でした。
お酒を飲みに行くのも、息抜きのためだけではなかったと思います。志村さんは一部のベテラン作家を除き、スタッフを飲みに誘うことはほとんどありませんでした。ただ、田代まさしさんやダチョウ倶楽部の上島竜兵さん、後年は千鳥の大悟さんなど、目をかけている共演者とはよく飲みに行かれていました。なぜ演者を誘うのかというと、きっとコントに必要な呼吸をプライベートでも合わせておきたかったからでしょう。志村さんにオンとオフはない。24時間すべてがコントのためにあったのです。
その後、『バカ殿』の台本会議で久しぶりにご一緒しましたが、コントを考えるときに発するヒリヒリした空気はまったく変わっていませんでした。
一方で、コンプライアンスの強化や予算削減が進む環境に合わせたりして、毎週同じ舞台の下町ドラマ風の設定でコントをするなど、時代に柔軟に合わせていくしなやかさもお持ちでした。志村さんがお元気だったら、コロナ禍の時代にどのような笑いを届けてくれたのか。それがもう見られないことが残念でなりません。
[江戸川大学メディアコミュニケーション学部マス・コミュニケーション学科教授 西条 昇 構成=村上 敬 写真=読売新聞/AFLO]