韓国の漬けものキムチ。唐辛子をたっぷり入った辛い漬けものとして世界中で親しまれているが、昔のキムチは今のように辛いものではなく、唐辛子が入ったのは18世紀ごろだといわれている。しかも、キムチが辛くなったのには秀吉の朝鮮出兵が関係しているともいわれているのだ・・・!キムチの起源から辛くなるまでの歴史についてひも解いてみよう。
1. キムチの起源
紀元前の中国の書物『詩経』によると、「祖」と呼ばれる胡瓜の塩漬けについて書かれており、当時中国の漬物は酢漬けと塩漬けの二種類のみであったことがわかる。この「祖」が、戦乱期に百済へ逃れた人とともに渡来し、朝鮮半島の極寒期の保存食として作られるようになったのが、キムチのルーツといわれている。
韓国において、キムチに関する記録が最初に登場するのは13世紀初頭ごろ。高麗時代の文人である李奎報の詩文集『東国李相国集』とされている。このころと前後して、祭祀のお供え物としての野菜の塩漬けも登場してくる。
「野菜の塩漬け」を意味する「沈菜(チムチェ)」の記述もあり、これが「キムチ」の語源となったという説が有力である。この沈菜は塩漬けした野菜ににんにくや生姜を入れて漬けたものであり、野菜から浸出した水分に沈んだ漬物がイメージできる。現在みられる、唐辛子と海産物のエキスといった特別な調味料を使ったものではなかった。
1600年代末頃の料理書『要錄』においても、キムチに唐辛子を使ったという記録はされていない。
このころのキムチは乳酸菌で発酵されたあっさりとした野菜の塩漬けであり、大根を丸漬けにして漬け汁も食す、トンチミとよばれるものもあった。
2. キムチと唐辛子
唐辛子入りのキムチの記述が見られるのは、18世紀に書かれた農書『増補山林経済』においてであるといわれている。ここには白菜キムチをはじめとする20種類以上のキムチの漬け方が記述されている。
17世紀末から19世紀末にかけての200年の間に、数千年前からあった山椒や胡椒を使用していた白キムチやトンチミに加えて、唐辛子や海産物のエキスを用いたキムチが発展していき、20世紀に入ると辛いものを好む国民性から、唐辛子は糸状のものから粉にされて利用されることが多くなっていった。
キムチが辛くなったのには、唐辛子の伝来が深くかかわっているのだが、キムチに使われる唐辛子は、いつ朝鮮半島に伝わってきたのだろうか。
南米原産の唐辛子がポルトガルと国交のあった日本に渡ったのち17世紀ごろに朝鮮半島に伝来したのだという説と、それ以前の文献の記録にコチュジャンを意味する「椒醤(チョジャン)」とよばれるものがあったため、唐辛子はすでに朝鮮半島に伝わっていたという説がある。
コロンブスが中央アメリカからアヒという唐辛子を胡椒としてヨーロッパに持ち帰り、日本を経て朝鮮・中国・インドというルートで伝わったという説と、唐辛子はすでに大昔から中国にあり、中国→朝鮮→日本という順に伝わったという説とでは全く正反対である。
3. 秀吉とキムチには関係がある?
このように、キムチが辛くなったのには唐辛子の伝来がポイントとなるのだが、一説には、
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本が朝鮮に持ち込んだものといわれている。
唐辛子は、アメリカ大陸からヨーロッパに伝わり、さらにポルトガルと国交のあった日本に渡ったといわれている。日本に伝わった唐辛子は、初期のころは食用ではなく、観賞用や毒薬、薬用として足袋のつま先に入れて霜焼け止めなどにも利用されていたとされるが、やがて防腐の目的で漬物の添加物としても使用されるようになっていったといわれる。
イギリス人の東洋史学者であるホールデン教授の「キムチのルーツは日本である」という研究で、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際日本勢が保存食として唐辛子と白菜を漬け込んだ漬物を携行しこれが朝鮮に伝わった、と主張したことから、「豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本が朝鮮に持ち込んだ」とする説が広まることとなった。
しかし、白菜が日本に伝来したのは20世紀の明治以降であるとされていることからも、この説は誤りではないかというのが有力だ。
朝鮮出兵の際に持ち込んだのは唐辛子で、目つぶしや毒薬としての武器として、凍傷予防薬として利用したのではないかともいわれている。
結論
辛さが魅力の一つであるキムチは、昔から辛かったわけではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵のあたりから唐辛子が使われた本格的なキムチが登場することから、辛いキムチは豊臣秀吉が持ち込んだという逸話が生まれたのだろう。だが、朝鮮出兵の際に唐辛子を日本に持ち帰ったとする説もあり、詳しくは謎につつまれたままだ。