やっぱり何か異常なことが起きている…
溜まった郵便物。
窓からは山のような本が積み上がって見える。
ただ人が住んでいる気配はない。
彼はいったい、どこへ行ってしまったのか。
歴史学者の“失踪”
最初に異変に気がついたのは、古くからの友人だった。
2022年の4月のこと。
元大学教授の今西一さん(73)と連絡が途絶えた。
堀和生さんは今西さんの学者仲間で、50年来の付き合いがあった。
民衆史の研究者である今西さん。
北海道の大学を定年退職後、京都の自宅で一人暮らしをしていると聞いていた。
ついこの前の正月も、今西さんと年賀状や電話のやりとりをした。
退職後も精力的な研究活動をしている今西さんのことだ。海外調査にでも行っているだろう。
そう思って、最初は深刻には考えなかった。
しかし、連絡がとれなくなってもう3か月が経つ。
さすがにおかしい…
思い切って京都市内の今西さんの自宅を訪ねることにした。
すると、郵便受けには郵便物がどっと溜まっている。
ああ、これはただ事ではないー
堀さんは、すぐに近所の交番に駆け込んだ。
「知人と連絡が取れず、家は荒れた状態なので、調べてください」
警察官に訴えたが、台帳を見て調べたうえでこんな返事が返ってきた。
「警察は第三者に対しては何も言えません」
「調べたかったら弁護士を立てたらどうですか?」
それでも堀さんは食い下がった。
「とにかくちゃんと見てくれませんか」
しぶる警察官とともに今西さんの家まで行き、周辺を調べた。
窓からは本が積み上がっている様子がうかがえる。が、人が生活しているような気配は感じられない。
警察官とともに近隣の住民に聞き込むと、こんな答えが返ってきた。
「正月明けの朝に救急車で搬送されました。それっきりです」
家に入ることもできず、なんとか親族に連絡を取れないかと考えた。
今西さんには兄弟がいたはずだ。
調べていくと、今西さんの弟夫妻と連絡をとることができた。
家は電気がついたまま
弟の今西恵一さんと妻・淳子さんは、車で10分ほど離れた、同じ京都市内に住んでいた。
「堀さんに言われなければ、本当にわからなかった」
堀さんから連絡を受けた夫妻は、寝耳に水だった。すぐに兄・一(はじめ)さんの安否を確認しに向かった。
最初に家の中の様子を見に行ったのは、妻の淳子さんだった。
淳子さん
「バイクですぐ行きましたら、電気が、廊下灯がついているのが見えました。あれっ?と思って一瞬ひるみました。家に鍵はかかっていました。合鍵を預かっていましたので、それで中に入りました。もしかしたら戻って来ているのかもと思い、『お義兄さん!お義兄さん、いますか?』と呼びました。でも、返事はありません。なぜか台所の窓は開いていたんです」
救急搬送されたというのなら、救急隊の方が窓から出たのかもしれない。
淳子さんは消防に連絡した。
しかし、そこでは詳細を教えてもらえなかったという。
今度は警察に行って尋ねると、搬送先の病院までは知ることができた。
その病院に電話をかけると、「明日医師が来るから連絡してください」とのことだった。
最後のおせち
淳子さんは、一さんが北海道から京都に戻ったとき、家探しも手伝っていた。両親も既に亡くなり、結婚はせず1人暮らしということで、時々様子を見に行っていた。
盆や正月には、夫婦で一さんと一緒に食事をしていた。淳子さんはその様子をこう振り返る。
淳子さん
「お義兄さんは、とてもいろんなことを知っているんです。本当に難しいことから芸能界のことまで。楽しそうにお話しする方でした。なかなか携帯電話には出ない方なので、ときどきご飯を作ったりして定期的に様子を見に行っていたんです。体調はあまりいいようではなかったので『無理せんといて下さいね』と言っていました」
その年の正月にも、淳子さんはおせちを届けていた。
「兄は亡くなったんでしょうか」
搬送され、家に戻っている様子もない。淳子さんからその状況を聞いた弟の恵一さんは、“兄は、もしかしたらもう…”と頭によぎった。
1948(昭和23)年生まれの兄・一さんと恵一さんは、9つ違いの兄弟だった。幼い記憶にある中学生の兄は、柔道やプロレスが好きだった。
高校に進学すると、急に“本の虫”となり、学問の道に突き進んでいった。
恵一さん
「とにかく本が生きがいで、お酒も飲まない、車の免許も持たない状態で、生粋の学者肌みたいな感じでした。兄は北海道の大学に勤めていましたし、私も社会人になるとさほど話す機会は多くなかったんですけど、兄は母親が好きで、よく京都に戻ってきていました」
今度は恵一さんが、実の弟だと名乗って病院に電話をかけた。
「兄は亡くなったんでしょうか?」
しかし、病院側からしばらく情報の提供はなかった。
ようやく情報が得られたのは、恵一さんがみずから病院に「死亡診断書」の発行を申請してからだった。
「死因 急性心筋梗塞」
兄はこの病院で、確かに亡くなっていた。
堀さんが家を訪ねてから、すでに1週間が経過していた。
「兄は最期どんな状況だったのでしょうか?」
病院で死亡診断書を受け取った際に、そう尋ねた。
しかし、担当医がすでに退職してわからないとのことだった。
無縁仏
“兄に何が起きたのか?最後はどこへ行ったのか?”
行政からも、誰からも何の連絡もなかった。恵一さんたちはさらに自力で調べるしかなかった。
3週間たって、たどり着いたのは、京都市が管理する納骨堂。宗教宗派の別なく「無縁仏」となった人たちも納められている場所だった。
恵一さんは園内にある納骨堂の事務所を訪れた。
「今西一は、ここにおりますか」
すると、担当者はパソコンを見ながら、何も言わずに首を縦に振った。
兄はすでに火葬され、骨になっていた。
やはり“身寄りのない人”として埋葬されていたのだ。
「せめて遺骨は取り出せませんか?」
だが、事務所の職員はそれはできないと回答した。
なぜ何の連絡もなかったのか
「そんなばかな…」
当初はただただ驚くばかりだったが、すこし落ち着くといくつも疑問が湧いてきた。
“近くにいたのに、なぜ何の連絡もなかったのか”
“いったい誰が火葬の許可を出したのか”
“兄はどんな最期を迎えたのか…”
“なぜ遺骨は取り出せないのか”
行政に問い合わせたが、詳しい説明はなかった。友人の堀さんとともに、経緯を調べた。
それから2年の月日が流れた。
そして、ことし2月。京都市は今西さんの死の経緯について、恵一さん夫妻らに対して「説明する場を設けます」と伝えてきた。
“真相”
「時系列でご説明させていただきたいと思います」
出てきたのは、京都市伏見区役所の醍醐支所の「総務・防災課」の課長と係長だった。2人とも、当時の担当者ではなかった。
係長が経緯を説明し始める。
「令和4年1月6日午前10時2分、ご自宅にいるご本人様から、呼吸苦のため119番通報がありました。救急隊が到着するも、玄関は施錠されており、呼出にも応じないため、窓を割って入って、自宅内で心肺停止状態で倒れられているところを発見。10時29分に病院に救急搬送した、ということです。病院で蘇生術を施したものの、お亡くなりになったということ、初診のため病院側で本人確認が行えず、所持品もなく、“身寄りがわからない”ということでした」
ではなぜ、“身寄りがない”ということになったのか。
京都市の職員は、家族の情報を確認するため「戸籍」の情報を調べてはいた。しかし、弟の恵一さんがいるとの情報にはたどり着けなかった。
問題は、調べた戸籍情報の範囲だったという。
兄の一さんの本籍地は、引っ越しなどで何度か移っていたが、当時、職員は京都“市内”にあった戸籍情報だけを調べていた。
だが、兄弟の記載があったのは、家族が京都“市外”にいたときの、以前の戸籍情報だったのだ。
係長
「調べる範囲を“市内”までということで判断させていただきました。ご両親も亡くなられ、ご結婚もされておらず、お子さんもいないという状況でしたので、『親族はいらっしゃらない』と判断してしまいました」
“ルールなき”葬送
判断の根拠は何だったのか。
市町村が行う埋葬については法律にこう書かれている。
墓地埋葬法(第九条 第一項)
「死体の埋葬又は火葬を行う者がないとき又は判明しないときは、死亡地の市町村長が、これを行わなければならない」
一方、身寄りがいるかわからないケースで、親族の有無をどこまで調べるべきか、具体的な規定はない。
そのため、調査範囲は、各自治体の判断に委ねられているのが実情なのだという。
京都市の職員は弟夫妻にこう釈明した。
課長
「マニュアルといいますか、要するにどこまで調べるべきかという明確な規定がなかったところかと思います。結果として、ご兄弟様がご近所にいらっしゃるにもかかわらず、至らなかったところについては、課題があることだったと思います」
調査にかかる「期間」も障壁の1つになった、と職員は説明する。
京都市内の戸籍調査ならば3日ほどでできる一方、他都市の調査となると通常2週間ほどかかるという。
課長
「われわれも長期間(ご遺体を)お預かりするのも、なかなかちょっと困難な状況ですので、調査に時間がかかる、今回のようなケースにつきましては、先に火葬、短期納骨をさせていただき、その後、お申し出があれば引き取りができるよう個別対応していくということでして」
そのうえで「遺骨は取り出せない」と話した納骨堂での担当者の説明は誤りだったとして、職員は謝罪した。
話し合いは2時間に及んだ。
恵一さんたちは職員に対しこう伝えた。
「非常に労力を注がされ、不誠実な対応に翻弄されてきて、正直、腹立たしい部分も持ってきました。ただ、いまさら個人の過失がどうのと、追及しようとは思っていません。せめて、このようなことが二度と起こらないような仕組みにしてもらいたいと思います」
「多死社会」の現実
近くに親族がいたにもかかわらず、誤って“身寄りのない人”として火葬してしまった今回の事態。
取材を進めると、国が明確なルールを示していない中、今回のケース以外にもさまざまな混乱が起きていることがわかってきた。
去年、2023年の1年間に亡くなった人の数は、約159万人(速報値)。高齢化に伴って右肩上がりで増え続け、平成元年と比べると倍近くで過去最多となっている。
国の推計では、少子高齢化が進む中、2070年ごろまで年間の死亡者が150万人を超え続ける見込みで、“身寄りのない人の死”も増加する傾向にある。
“身寄りのない”とされる遺体を行政がどう扱うか。
「多死社会」の現実に、法制度やシステムが追いつかず、問題化したケースがあった。
3年以上、放置されていた
2022年のことだった。
愛知県名古屋市では、身寄りがいない、もしくは引き取り手がない19の遺体が長期間火葬されないまま、葬儀会社に預けられていたことが判明した。
中には3年以上、放置されていた遺体もあった。
「死者に対する尊厳を軽視するものであり…」
名古屋市は記者会見で、謝罪に追い込まれた。
なぜこうしたことが起きたのか。
市の担当者が理由を語る。
名古屋市の担当者
「いろんな事務がある中で、誰からも『早くやりなさい』ということで責めたてられることはなく、やっぱり1つ優先順位が後になってしまったというのが、事務が遅れた1つの原因でもあるのかなと思います」
市によると、引き取り手のいない遺体の葬儀執行件数は、10年前の平成26年度には58件だったものが、令和4年度には256件と、実に4倍以上に上っている。一方で、対応にあたる職員の数はほとんど変わっていないという。
増えていく冷蔵庫
遺体を保管する現場もひっ迫していた。
「一番多かったときは、冷蔵庫にお入れすることもできず、外に10体、10人ぐらい出ていました。棺にお入れして、ダーっとこちらの部屋に安置するしかない状況で」
こう話すのは、名古屋市の葬儀会社の社長だ。
警察や自治体などから、身寄りがない、もしくは引き取り手のない遺体の保管や葬儀を引き受けている。
「今もそちら、入っておられます。あの方は引き取り手のない方です。うちは、半分以上がそんな状態で」
毎年300件以上扱う葬儀のうち、およそ6割を“身寄りのない”遺体が占めるという。
遺体を保管する冷蔵庫は全部で3台。最大で13人の遺体を安置できるが、埋まってしまうこともあり、さらなる増設を考えているという。
社長
「私のところで預かって1日、2日で出て行かれることはまずないですね。だいたい1週間から1か月ぐらい。長い人では3か月、3か月半ぐらいかかります。病院で亡くなったご遺体でも3か月ぐらい経つとやっぱり傷んできますから、3か月が限度でしょうね」
取材していた日にも、名古屋市内で亡くなった70代の身寄りのない男性の遺体が、急きょ運ばれてきていた。
社長
「これからも増えると思います。減ることはないでしょうね。どこが悪いって言ってもしょうがないですよね。社会がそうなってきているから。まあ世の中が、みんな、なんて言ったらいいんかね、自分のことで精一杯なのかな」
執行前、執行前、納骨済
行政も従来にはない対応を余儀なくされている。
「34番の方の事務処理状況になりますが、現在は事務が終了しておりまして、納骨済みという状況がこちらに示されております」
問題が発覚した名古屋市では、100件、200件と膨れあがる葬儀関連の事務処理に対応すべく、手引きの見直しを迫られた。
変更点は、1.責任と期限の「明文化」、2.プロセスの「見える化」、の大きく2つ。
親族をさがす「戸籍調査」といっても、知識や経験の少ない職員では情報を見落とす恐れが強くなる。そこで区役所総務課の“受け持ち業務”として責任を明確化した。
と同時に、1人の職員が抱え込まないよう、進捗状況や葬儀スケジュールをデータで可視化し、上司やほかの職員にも常に共有するようにした。また、手続き面では、相続人など関係者の意向確認を原則「2週間以内」と期限を定めた。
すると、これまで通報から葬儀執行まで「平均5.3か月」ほどかかっていた事務のスピードは、昨年度は「平均2.8か月」までは短縮した。ただ、目標とする「原則1か月を目安」には届いていないようだ。
名古屋市区政課 沓名大介 課長補佐(取材時)
「以前は各区の担当者任せでしたが、組織的に進捗管理が行えるよう、新たな管理表を導入して取り組んでいます。今後、できれば国に指針やガイドラインを示してもらったり、また葬儀費用の財政面での負担軽減措置をとってもらえるとありがたいです」
「近代日本の前提」が崩れるとき
専門家は、社会のあり方自体が今、大きな転換点を迎えていると指摘する。
葬送の成り立ちに詳しい、国立歴史民俗博物館の山田慎也教授は、次のように話す。
山田慎也教授
「そもそも近代日本の法制度では、祖先祭祀をベースとして死者は家族や遺族が引き取るべきであり、行政が対処するというのはあくまで“例外的”であるというのが前提でした。しかし、現代ではその“例外“が多数を占めつつあります」
76年前(1948年)、戦後まもない時期に成立した「墓地埋葬法」。
山田教授によれば、当時は引き取り手のない遺体の存在は珍しく、法律は「公衆衛生」の観点から作られたもので、死者の尊厳など、福祉的な発想は薄かったという。
そのうえで、単身化が進む現在では、家族による葬送をベースにした制度のままでは立ちゆかなくなるとして、個人を中心にしたシステムへの移行が重要だと指摘する。
山田慎也教授
「やっぱり単身であっても亡くなった人をきちんと送る仕組みとして、指針やルールの整備は国が率先して対応していかないといけないと思います。と同時に、どこまで戸籍調査をやるかなどについては、社会全体で議論していく必要があると思います」
“「無意味な人生」はない”
「1つの区切りとして報告ですね」
ことし3月5日。亡くなった歴史学者の今西一さんの弟の恵一さんと妻の淳子さん、そして50年来の友人の堀さんは、京都市との話し合いを終えたあと、一さんが眠る“無縁”墓地を訪れた。
恵一さん
「どうすればよかったのかな、というのはわからないですけど、京都市に対して、せめて同じことが起こらない仕組みにしてほしいと、伝えられたことはよかったかなと思います」
同行した堀さんも、今西さんへの思いを語ってくれた。
堀さん
「今西さんは学者としての業績だけでなく、若い頃から世の不条理を正すという信念をもって生きてこられた方で、本当に偶然ですけど、自分の死に際しても、非常に重要な問題を提起してくれた、警鐘を鳴らしてくれたのではないかと、私は思っています」
今西一さんの著書の1つに『近代日本の地域社会』という本がある。
この本のあとがきで、今西さんは亡くなった父の葬儀に触れ、歴史家としての原点と家族について、こんな言葉を残していた。
最後に私事になるが、本書の校正中に父久一が八四歳で永眠した。優しいひとであったが、気が弱く、バクチの誘惑に最後まで抗えなかった。幾度も会社をクビになり、借金に追われた人生であった。
今流の嫌いな言葉で言えば人生の「負け組」ということになるのだろうが、どんな人間の一生にも『無意味な人生』というものはない。これが私の民衆史の原点となっている。
しかも最後は弟恵一のつれあいの淳子さんのおかげで父を暖かく見送ることができた。親の介護に追われている友人たちを見ると、淳子さんのご厚情には、ただただ感謝するだけである。
(『近代日本の地域社会』「あとがき」より)