12月10日、スウェーデンでノーベル賞2024の授賞式が行われた。話題を集めたのが、アジア出身の女性で初めてノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさん。彼女の作品の魅力とは何か。どの作品から読めばいいか。韓国文学の翻訳の第一人者に聞いた。
10月にノーベル文学賞が発表されて以降、韓国のみならず、世界中でハン・ガン作品の売り上げが急上昇。作品の舞台を訪れるツアーが開催されるなど“ハン・ガンシンドローム”なる現象が続いている。日本でも、大手書店には次々と「ハン・ガンコーナー」が設けられ、注目度の高さが見て取れる。
ハン・ガンさん(54才)は1970年、韓国・光州広域市に生まれた。父のハン・スンウォン氏も小説家だ。1993年に詩人としてスタートし、翌年作家デビュー。
韓国史に残る弾圧事件など歴史的な事件をモチーフにした作風が多く、著名人にもファンは多い。一方、パク・クネ政権時代には、政権に批判的であるとしてブラックリストに載ったこともあった。
ノーベル賞受賞について、彼女の作品をはじめ多くの韓国文学を翻訳している古川綾子さんは、こう語る。
「正直、びっくりしました。ハン・ガンさんは2002年に発表した『菜食主義者』で、韓国で権威あるイ・サン文学賞を受賞。ほかにも国際的な賞を数々受賞し、韓国文学界では群を抜いた存在です。
ただ、ノーベル賞は長く功績を残してきた重鎮に贈られる傾向があるため、まだ54才で、これから精力的に作品を発表していく彼女が受賞するのは、もう少し後だと思っていました」
それでも選ばれたのにはどんな背景があるのか。
「選考委員は、『歴史のトラウマと向き合い、人間の命のもろさを浮き彫りにしている』と評していました。
彼女は、光州事件を題材にした『少年が来る』(クオン)や、済州島四・三事件【*注】をモチーフとした『別れを告げない』(白水社)など、国内で封印されてきた歴史的な事件を土台に、抑圧された市井の人々の犠牲や心の傷を描いてきました。
世界を見渡せば、いまも同じような悲劇が繰り返されています。ハン・ガンさんの作品に、国や時代を超えた“普遍性”が見出された。そこが受賞理由の1つではないかと感じています」(古川さん・以下同)
【*注/「光州事件」は、1980年に韓国の光州広域市で起こった、軍事政権に抵抗し民主化を求める市民を軍が虐殺した事件。「済州島四・三事件」は、1948年、米軍占領下にある南朝鮮の単独選挙反対を掲げた済州島の青年らが蜂起し、3万人近くの島民が虐殺された事件】
歴史的背景のない著作も含め、ハン・ガン作品は「傷ついた人の内面の苦しみ」に主眼を置いているのが特徴だという。
「昨今“自己責任”という言葉が使われがちですが、彼女の文章には、そう突き放すのではなく、苦しむ人を理解しようとする繊細な感受性がある。そして、個人的な問題の背景には常に社会全体の問題が潜んでいて、『人はひとりでは生きられない。誰もが自分事なんだ』と言われているような気になります」
純文学であるハン・ガン作品はテーマも重く、やや難解だといわれるが、その中でまず手に取るなら、どの作品がいいのか。
「2011年に初めて日本で紹介された『菜食主義者』です。歴史的な背景を知らなくても大丈夫だと思いますし、連作小説なので少しずつ読み進められます」
『菜食主義者』は、ある日突然肉食を拒否し、死に向かっていく女性の物語。前述のとおり、イ・サン文学賞のほか2016年に英国のマン・ブッカー国際賞を受賞し、世界に知られる契機となった。
「主人公が“木になりたい”と願うところが、植物好きの私には強く共感できましたが、当時、仲間からは『あんな怖い作品に共感?』と言われたものでした(笑い)。
不思議な物語ではありますが、父親が無理矢理肉を食べさせようとするシーンには韓国の家父長制に対する無言の抵抗が表現されるなど、ハン・ガンさんらしい間接的なメッセージがちりばめられています」
古川さんが翻訳した初期のエッセイ集『そっと 静かに』は、音楽にまつわる回想が詩的に綴られている。
「この作品は、当時(2007年頃)、腕や指の痛みで書くことができず、精神的にも苦しんでいた時期に執筆したもの。一時は書くことをあきらめるほどの絶望を抱えていたそうです。
しかし、文章は決して暗いものではなく、『よしよし』と慰められる安心感や、『もう一回頑張ってみよう』と励まされる感じもある。彼女の静かな文章の中に、苦しみながらも立ち上がる芯の強さが感じられます」
先に挙げた著作のほか、小説『ギリシャ語の時間』(晶文社)、『回復する人間』(白水社)、短編集『すべての、白いものたちの』(河出文庫)、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(クオン)と、日本語で読めるハン・ガン作品は8作。美しい装丁とともに、ハン・ガンワールドに身を委ねてみたい。
●はじめての1冊におすすめな作品
『菜食主義者』きむ ふな訳・クオン 2011年発売
ある日突然肉食を拒否し、やせ細っていく妻・ヨンヘ。日に日に衰弱するヨンヘを見つめる夫、ヨンヘを芸術的、性的対象として見るようになる姉の夫、崩れ始めた日常の中で前に進もうとする姉の3人を通して語られる連作小説集。
『そっと 静かに』古川綾子訳・クオン 2018年発売
静謐なエッセイ集。巻末のQRコードからハン・ガンさん自作の歌や朗読を聴くことができる。
【プロフィール】
古川綾子さん/翻訳家。神田外語大学講師。延世大学教育大学院韓国語教育科修了。主な訳書にハン・ガン『そっと 静かに』(クオン)ほか。最新刊は、イ・ソス『ヘルプ・ミー・シスター』(アストラハウス)、チョン・セラン『J・J・J三姉弟の世にも平凡な超能力』(亜紀書房)。
取材・文/佐藤有栄
※女性セブン2025年1月1日号
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