吸い込まれそうなほど深く、透明な水の色。かすかに光が差し込む水面を2匹のペンギンが揺らす。
その絵を見つめていると誰もいない水族館で1人、水槽を見上げているような錯覚に陥る。だが孤独ではなく、むしろ静かな優しさに包まれるように感じる。
作者は長崎県諫早市在住の萩原慎哉(30)。約3年前から自宅で油彩画を描き続ける。
在宅でのウェブ制作の仕事が本業だが、画家として生計を立てることを目指し日々キャンバスに向かう。ペンギンが泳ぐ絵は制作を始めたばかりのころに手掛けた作品だ。
慎哉は首から下の体のほとんどを動かせない。高校1年の冬からもう14年近く車いすで生活をしている。
16歳で味わった絶望
アトリエは自宅の自室。ウェブデザインの仕事がある日は1日3時間、休みの日は7時間ほど描く。
イーゼルは車いすに座ったままでも描ける電動のもの。絵筆は指と指の隙間に差し込んで肩と肘の力だけで左右に動かし、点描のように少しずつ色を重ねる。
力強い筆致が必要な時は豚毛の筆、ぼかしを入れる時は馬毛の筆…。膝の上に何本かの絵筆を置いておき、用途に応じて口も使って取り換える。
「気付くと口の周りが真っ青になってて」
そう笑うが、絵を描くための一つ一つの動作は試行錯誤を重ねて見つけ出したものだ。
人を驚かせたい、生計を立てたい、有名になりたい―。
一枚一枚に希望と志が詰まった慎哉の絵。だが、絵筆を振るうような生活など以前は想像したこともなかった。
「本当に不思議な巡り合わせ」
16歳で体に重い障害を負い、一時は絶望を味わいながらも表現に生きがいを見いだしてきた半生に思いをはせた。
体が動かない
慎哉は3人兄弟の次男として、両親と祖父母との7人家族で育った。兄弟の中でも最も活発で、幼い頃から水泳や空手、ピアノなどさまざまな習い事に挑戦。学校でも家庭でも、いつも誰かを笑わせているような少年だった。
高校1年の冬休み中だった2008年1月4日の朝。
自宅で小学6年の弟と組み合っていた。体育の授業で柔道の技を習ったばかり。弟を相手に試してみたかった。
その瞬間は突然訪れた。何かの拍子にフローリングの床に転倒すると、全身に強い電気が走る感じがした。
体が動かない。体がどこにあるのかさえ分からなくなった。
「触ってる?」「触ってるよ」弟が何度体を触っても感じ取れなかった。
救急隊が到着すると、すぐにドクターヘリが呼ばれた。「今日から塾だったのに行けないな」
担架の上でぼんやり考えているうちに、佐世保市の病院に運ばれた。
下された診断は頸椎(けいつい)の関節を脱臼したことによる頸髄損傷。傷めた位置が少しずれていれば、その場で命を落としかねないけがだった。
その日の夜。脱臼した骨を戻し、まひの進行を防ぐ手術が行われた。
時間がたてば、きっと…
慎哉が目を覚ますと、喉には人工呼吸器が装着され話すことができなかった。首から下は全く動かず、呼吸も安定しない。ベッドを少し起こしただけで、血圧が下がりすぐに嘔吐した。
深刻な状況ではあったが、慎哉自身は楽観的だった。けがといっても自宅でつまずいただけ。今は動けなくても、足がしびれた時のように時間がたてば、きっと元に戻る―。
そう信じていた。痛みがない分、自分の体の状態を把握することができなかった。
「夏ぐらいには、学校に戻れるでしょ?」。入院して少し落ち着いた頃、慎哉は見舞いにきた両親に尋ねてみた。
「うーん」。返ってくるのは苦笑いばかりだった。
「これはやばいかも」
ぴくりとも動かない
ある晩。急に焦りを感じ、病室で寝ている時にふと手の指を動かそうとしてみた。
だが頭では動かしているつもりなのに、指はぴくりとも動かない。足も同じだった。元に戻るはずと思っていた体が動く気配が一向にない。
「想像していたのと、違う…」
己の現実が初めて切実なものとして迫ってきた瞬間だった。
体が元に戻らないことを悟ると慎哉は一気にふさぎ込んだ。先のことなど考えたことはなかったが、16歳で首から下が動かなくなる現実は絶望でしかなかった。
物に気持ちをぶつけたくても体は動かせない。見舞いに来る家族に当たり散らすこともできない。
そして、死ぬことさえ自分ではできない。
「もう、いいや」。一時は感情を胸にしまい全てを諦めそうになった。
絵との出会い
しかし、日々変化もあった。体から“管”が外れたり、うまく話せるようになったり…。少しずつ体の状態が変わるたびに「次は何をしよう」と前を向けた。
4カ月の入院生活後、より専門的なリハビリを受けるため、2008年5月から福岡県飯塚市の施設で約1年間、さらに大分県別府市で約2年半を過ごした。
施設の環境は病院とがらりと変わった。最も違ったのは同じ悩みを抱える同世代の仲間がいたこと。
けがを負ってから友達に対してどこか壁を感じがちだったが、施設ではどんな失敗も共有し、笑い合えた。休日にはみんなで食事やカラオケにも行く。やっとひと息つけた気がした。
別府の施設ではもう一つの「出合い」があった。
筋力や持久力を高める訓練や織物の制作などの合間に受けたパソコン訓練。文書や表計算ソフトに始まり、イラストや画像編集のソフトにも触れた。
脊髄損傷はけがの位置によって障害も明確に分かれ、リハビリをしても完全回復には至らず「ゴール」を迎えることも珍しくはない。
だがパソコンを使ったデザイン作業は、障害者と健常者の垣根を越えて自分の世界を広げられる気がした。
「努力次第で何倍にもできることが増える」
そんな中で施設の文化祭のPRポスターを選ぶ投票があり、出品した。テーマは「彩り」。さまざまな色のしま模様の正方形を組み合わせたデザインで、見事採用された。
「すごい」「かっこいい」。仲間や職員の言葉をこそばゆく感じながら、手応えも得ていた。
「この道に進めたら」。暗闇をもがき続けた日々に淡い光が差し込んできた。
大学で学びたい
クリアファイルに収められた何枚ものデザイン画。隅には鉛筆で「45」や「80」などの数字も書き込まれている。
かつて手がけた作品を見ながら、「受験でお世話になった先生が付けてくれた点数ですよ」と慎哉は苦笑した。
けがをしてから約2年がたった2010年春。慎哉は大分県別府市の施設でリハビリに励みながら通信制高校に通い始めた。
「高校は出なければ」という思いはずっとあった。有名な大学を出ていた施設の先輩も勉強を助けてくれた。
2012年の年明けに施設を退所し、諫早市の実家に帰宅。通信制の最終学年に差しかかり、別府で触れたデザインを学べる学校への進学が頭に浮かんだ。
だが専門学校を探しても、車いすの受け入れができない所が多い。神戸市の神戸芸術工科大には慎哉も通学できる環境があると分かった。
「自分の手」で
入試では面接と自作の作品の持ち込みが必要だった。だが、「自分の手」で絵を描いた経験が慎哉にはほとんどない。
絵を学べる場所をと見つけた美術予備校の「諫早造形研究室」に相談すると、自宅での出張指導を提案してくれた。
その年の夏。受験対策は指が動かない慎哉が鉛筆を持つ方法を探ることから始まった。
「どこが動くの?」。講師らは「無理だ」という言葉を発さず、慎哉も淡々と体の状況を伝えた。試行錯誤の末、車いすのタイヤを動かす際に着用するグローブに鉛筆を差すやり方に落ち着いた。
それから約2カ月間、慎哉は1日中デッサンを描き続けた。思うように力が入らず線は真っすぐに引けない。
パソコンのイラストソフトならワンクリックで色が塗れるのに、鉛筆を動かしても画用紙に少し色が付くだけ。
「描くのが遅い。もっとできるよね」。様子を見に来る講師からねぎらいや同情の言葉は一切ない。だが特別扱いされないことで逆に発奮した。
「彼は明るくて自分の現実を受け入れていた。それに『ねちっこい』。途中で投げ出すなんてしなかった」。講師の一人だった諫早市の画家、中島秀明(68)は当時をそう振り返る。
10月に受験。そして11月に大学の封筒が自宅に届いた。恐る恐る確認すると、文書に「合格」の2文字が並んでいた。
「やっと始まる…」
けがから約5年。そばにいた祖父母の歓声を聞きながら、慎哉は感慨深い気持ちで満たされた。
「俺、必要とされているんだ」
合格後は1人暮らしの準備が始まった。
運良く大学前のアパートが借りられ、車いすでも生活できるように洗面台などを改装。起床と就寝の介助のために早朝と深夜に対応してもらえるヘルパー探しに難航したが、何とか支援に入ってくれる事業所も見つけた。
2013年4月。ついに入学式を迎えた。約5年ぶりの本格的な学校生活のスタート。
望んで迎えたこの瞬間だったが、胸中を占めたのは「1人で生活ができるのか」「学校には毎日通い続けられるのか」という思い。
ただ、そんな不安の一方で、改めて不思議な縁も感じた。「けががなければ俺は、ここにいなかったんだよな」
講義が始まると、教室で授業を受ける時間に懐かしさが込み上げた。美術史やウェブの技術、文字のデザイン…。デザインという一つの世界にさまざまな分野があることに驚き、学ぶことは楽しかった。
体調が悪化して入院が必要な時のために単位は一つも落とせない。パソコンの前で一日中課題を作り上げた日は帰宅後にぐったりとなった。
だが仲間と切磋琢磨する時間が何よりもうれしかった。同級生は車いすの自分に気兼ねすることなく、作品の感想を寄せてくれた。イラスト専攻の学生との共同制作では何度も打ち合わせを重ねてポスターを作り上げた。
「障害者」も「健常者」もそこにはなかった。
大学3年のゼミでは、個人やチームで企業広告を手がけるコンペに挑んだ。
印象深かったのは、JR芦屋駅に掲示するポイ捨て禁止などのマナーを啓発するパネル。おしゃれなまちの雰囲気をイメージし、赤いハイヒールや青いスニーカーなど人々の色鮮やかな足元をあしらった作品でコンペを勝ち抜き、採用された。
本当に自分の作品が飾られているのか。それを確かめたくて慎哉は駅まで見に行った。構内を行き交う大勢の中でパネルを見上げている人を見つけた。
「それ、俺が作ったんです」。思わず声をかけたくなった自分を慌てて止めた。
高校1年でけがをしてから懸命にリハビリに取り組んできた日々は、自分が生きていくための時間だった。
そんな自分が生み出した作品が他人の評価を受けて選ばれ、誰かの役に立っている。
「俺、必要とされているんだ…」
大げさと言われるかもしれない。だが、そんな気持ちが静かに湧いた。
就活の挫折から原点回帰
手のひらの部分に固定器具が付けられた黒革のグローブ。太い紺色のシャープペンが差し込まれてあり、右肘を動かすと線が少しずつ太くなる。
「もともとはフォークやスプーンを使うための道具なんです」。慎哉は、思うように動かない体で描くための創意工夫を笑顔で説明した。
アートやデザインに関わる仕事に就きたいと就職活動では広告代理店に的を絞った。だが結果が出ない。「自分が車いすだからだ」。障害が壁になっていると思っていた。
ある大手企業の選考試験だった。過去の作品を持参するように言われ、慎哉はA4ファイル1冊分を用意した。
控室で待つ間、隣の学生を見ると箱を抱えている。中にはファイルが20冊ほど入っていた。費やした時間とレベルの違いを突きつけられた気がして息をのんだ。
結果的に希望の企業には入れなかった。自信はあっただけに、ショックは大きかった。だが不思議とデザインをやめようとは思わず、ウェブデザインの仕事がある企業に就職を決めた。
この経験を経て、大学でのポスターの授業で教員に言われたことが思い出された。「萩原君は最近、美術やデザインを始めたでしょう」。あらゆる作品の基礎となるデッサンができていないことを指摘されていた。
「原点回帰だ」。それまで好まなかったデッサンに真剣に向き合い始めた。
デッサンを描く際には鉛筆の使い分けも必要になる。だが、慎哉には交換は面倒で、4Bの芯を入れたシャープペン1本だけを使った。
全身の体重をシャープペンにかけて押しつぶすようにして濃さを出す。力を入れすぎると芯が折れる。最初は失敗の連続。
それでも、負けず嫌いな性格とリハビリで課題を乗り越えてきた経験が「何とかなる」と思わせてくれた。
パソコンならクリック一つでできるぼかしの表現も、ティッシュや綿棒を使ったりするなど一つ一つ「技」を編み出した。次第にシャープペンで色を重ねただけのように見えていた部分が、本物の人の肌や髪のようにぱっと変わる瞬間が生まれ始めた。
「すごい!」。喜びを感じることが少しずつ増えていった。
下から見上げた夜の神戸ポートタワーや満面の笑みを浮かべる自画像…。一つの作品に40~50時間はかかり、決して楽しい作業ではなかった。
だが、自分の手で描く過程は新鮮だった。
「シャープペン1本で描けるところまで描こう」。いつの間にか夢中になっていた。
油彩画に挑戦
大型のキャンパスに広がる瑠璃色の海。その中を悠然と泳ぐ1匹のペンギン。そこに、筆が細かく動き、その青白い腹を少しずつ浮かび上がらせていく。
就職活動での挫折からシャープペン画を描いていた慎哉が油彩画を始めたのは2019年夏。洗練された写実作品で人気の画家、中島健太がその年に開いた展覧会に家族で訪れたことがきっかけだった。
テレビで作風を知ってはいたが、写真のようにリアルなのに独特の気配が漂う作品をじかに目にし、「自分も描きたい」と強く思い始めた。
だが油彩は全くの未経験。本や動画で基本を学び描き始めた。独学のため失敗はつきもの。使う液体を間違えて何十時間もかけて描いた絵を一気に溶かした時は落ち込んだ。
加えて、油彩画はイーゼルにキャンバスを立て掛けて描くため、腕を長時間上げ続けなければならない。車いす生活となって久しく感じなかった筋肉痛はつらかったが、うれしくもあった。
プロの画家から評価も
それから約3年。今も中島健太とやり取りをしながら制作を続ける。
「アーティストとして生きたい」。展覧会を訪れた日、そう声を掛けて自身の作品を見てもらった慎哉。
「独自の視座がある」と中島は興味を持ってくれ、その縁でオンライン画廊での販売も実現した。
そんな慎哉は今、初期に手がけたペンギンを再びモチーフにした大型の作品に取り組む。
車いすにのり、人よりも低い位置で過ごす自分がどれだけ大きな絵を描けるのか、水の荒々しい動きや美しさをどう表現できるのか―。
日々自分の可能性を模索している。
ペンギンを描く先に何が
なぜペンギンをまた選んだのか、慎哉は自分の思いを明確に説明できないでいる。
空を飛ぶ能力を失ったペンギンと歩けなくなった自分を重ねているように感じる一方、障害と作品を結び付けるのは抵抗もある。「『障害があるのに頑張ってる』という周囲の見方に甘えてしまいそうで」
ただ、見る者に飛べない事実を忘れさせるようなペンギンの生きざまには憧れる。「『(障害者ではない)君たちはこう描ける?』と挑発してくる感じだ」。再び描き始めたペンギンの絵に寄せた中島の言葉に静かな手応えも感じる。
数年前、神戸で家族と見た1枚の絵が忘れられない。
フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。一つの作品を見るため、数時間並んでも多くの人々が集まる様子に衝撃を受けた。
100人よりは千人に、千人よりは1万人に-。
今はネット上での発表だけだが、たくさんの人に直接見てもらえる強い魅力を持つ絵画をいつか世に出すことが目標だ。
「ペンギンを描く先に何があるのかを知りたい」
夢を追い、芸術という広大な海を力強く泳ぎ続けていく青年がここにいる。
(文中敬称略)
【取材・執筆、嘉村友里恵】
※この記事は、長崎新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。