「良き妻、良き母でいなければならないというのがあったんだと思う。夫に褒められたかった」
長崎県内に暮らす40代のユウコさん=仮名=が酒を手放せなくなったのは32歳の頃。結婚後、夫の仕事を妻として手伝ううちに酒浸りとなり、アルコール依存症になった。
「おまえが頼りだ。おまえが頑張れば」-。年上の夫の言葉をそのまま受け止め、慣れない仕事と子育てに無我夢中の日々だった。充実感に比例するように酒量が増えた。
帰宅し自室で着替える時、隠している酒を飲んで一息入れてから、家族の元へ向かうようになった。「とにかく必死で、自分のキャパを超えていた。嫌なことがあっても飲めばスーッとなって、“まあいっか”と忘れられた」
数年後、夫の仕事がうまくいかなくなってからは子どもと自宅にこもりがちに。朝から飲むようになった。ベビーカーを押してスーパーに行き、その日の食材と焼酎を買って家事の合間に飲んだ。
やがて飲みすぎで動けなくなる状況が頻発。夫に受診を勧められ、精神科病院の西脇病院(長崎市)を初めて受診、入院することになった。治したいという強い思いがあり、配布された依存症関連の冊子をノートにまとめたり治療プログラムに毎回出席したりした。
退院後しばらくは順調だったが、ある日、体がきつくなった。「ちょっと飲んだら治るかも」。その時は一口だけ。だが数日後、再び酒を手放せなくなった。
毎朝5時にどうしようもなく具合が悪くて目が覚める。そのままトイレに駆け込み吐こうとするが、何も食べてないので胃液しか出ない。近くの24時間営業のスーパーで紙パックの焼酎を買ってきて、トイレの中でパックの注ぎ口にそのまま口を付けて喉に流し込んだ。飲んで吐いてを5回くらい繰り返すと、体にアルコールが回り、具合の悪さが消えた。酒が抜けるとまた体がきつくなるため一日中飲むしかない。夜、次のつらい朝が来るのが怖かった。
どうしていいか…助けて
そんな日常に体はぼろぼろになっていった。黄疸(おうだん)が出て、髪の毛は抜けた。大量の鼻血、赤ワイン色の血尿。親に連れられ総合病院を受診すると、肝硬変で肝臓が普通の5倍に腫れ、体中が悲鳴を上げていた。あと少し受診が遅れていたら命も危なかった。
退院後、3カ月ほどは元気だった。しかし夫との関係が悪くなり、また飲んでしまう。アルコールの“くびき”から逃れきれない自分。
自宅で一人座っている時、たまらなくなった。「わたし今、どうしていいか分からない」。いてもたってもいられず、泣きながら西脇病院に電話をかけた。
「助けてください」
病気を認めることができた
三年前の冬、アルコール依存症で再び精神科病院の西脇病院に入院したユウコさん。その頃は自暴自棄になっていて、クレジットカードで買い物をしまくり、外出を許されれば酒を飲んだ。退院後も1カ月ほどは隠れて飲んでいた。
同病院で毎週開かれる女性限定の治療プログラム「女性の集い」には初受診の頃から勧められ、参加していた。しかし、当初はなぜ行かなければならないのか分からなかった。表面的には真面目に出席し、終わればその足で酒を買って帰った。「それでもここに来ると、後ろめたさはあるけど、笑うことができた」
誰にも言えなかったこと、酒をやめられない葛藤…。打ち明けると皆、うなずいてくれた。「病気のまっただ中では集いの大事さは実感できないけど、こういう場があると知っているだけでも救いになる」
転機は一昨年春。病院とは別の市内の自助グループに参加するようになって徐々に変化した。処方された飲酒の予防薬シアナマイドの抑止効果もあり、この1年半は飲酒欲求に悩まされることもなく断酒している。
どうして変わることができたのか-。同病院の精神保健福祉士の宮﨑けいさんは「依存症は、自分を依存症と認めない“否認”の病気。同じ状況の人の話を聞いて、安心し、病気を認めることが大事」と話す。
ユウコさんは「依存症は『病気』だと自分でも勉強してきたつもりだったけど、どこかで自分の性格や意志の弱さの問題だと思っていた」と語る。自助グループで同じ依存症の体験を聞くうち、「やっと自分が病気だということを認めることができた」。
2019年7月下旬、同病院の「女性の集い」。「お酒しか自分を助けてくれるものはないと思っていた」。ユウコさんは涙ながらに話した。依存症と闘って8年。
「私は人によく見られたい、万人に好かれたいという気持ちが強い。『いい奥さん』と言われるのが心地よかった。でも家庭も夫の仕事の手伝いもキャパを超えて頑張って、無理した分をお酒で埋めていた」と振り返る。
現在、依存症のセミナーなどがあれば積極的に参加している。「活動することでストレスを発散し、飲まなくても良い状況をつくっている」
「自分の人生を歩んでこなかった」とも。「10年後、子どもたちもある程度大きくなって、親子だけどそれぞれ自立して、でも絆がすごいあってっていう仲が理想。あと、せっかくアルコール依存症になったので、自分にできることで少しでも人の役に立てたら」。“妻”でも“母”でもなく個人としてどう生きるのか。そんなことを考え始めている。
特有の悩み 浮き彫りに
西脇病院で開いている依存症などの治療プログラム「女性の集い」は、1996年に始まった。同病院では1976年から依存症患者らが毎週体験談を話す「夜間集会」が開かれていたが、女性患者から「男性ばかりで話しにくい」という声が上がったためだ。
「女性の・女性による・女性のための」ミーティングで毎週1時間、依存症やうつなどの女性が集って近況や悩みなどを話す。「言いっ放し、聞きっ放し」が原則で、互いの批判をしなければ自由に何を話しても話さなくてもいい。
40年以上、夜間集会を担当している西脇健三郎院長は、「治療に一番良いのは当事者同士が語り合う集団療法。患者が集会に参加していくうちに、他の人の体験を聞きながら自分で解決していく」と語る。
7月下旬の午後3時半、女性十数人が集まった。年代も抱えている問題もさまざまだ。司会を務める精神保健福祉士の宮﨑けいさんらスタッフもみな女性。
宮崎さんに指名された人から近況を話していく。「外泊して飲んだくれていた」「やる気が出ないでごろごろしている」「1カ月半飲んでいない」「ビールを久しぶりに飲んでこんなに苦かったっけと思った」-。「飲んでしまった」という告白があると、クスクスと共感の笑いが広がる。
一通り近況を話し終えると、次は宮崎さんがテーマを決めて質問し、当てられた人から話していく。この日のテーマは「空いた時間について」。暇な時間に落ち込みやすかったり、依存しやすくなったりするため、そういった“魔の時間”との向き合い方をそれぞれ述べた。
宮崎さんは2015年から「女性の集い」の担当になった。回復を願って参加する患者のため、成果を出したいと意気込んで臨んだ。しかし気持ちとは裏腹に、当初は参加者の話が弾まず無言が続くなど、1時間もたたずに終わることもあった。
当時の集いはアルコール依存症の参加者が多く、飲酒に関する話が中心。ギャンブル依存症やうつの患者らが分からない話も多かった。宮崎さんは2~3カ月試行錯誤した末、思い切って「家族の理解」というテーマで話を振ってみた。すると予想以上に夫への不満や主婦業の大変さなどで盛り上がり、普段口数の少ない人も発言してくれた。
以来、テーマを人間関係の悩みやストレスなどに設定。参加者の話から、しだいに女性特有の悩みが浮き彫りになってきたという。
宮崎さんは「問題なのは『依存の問題』ではなく、女性たちの『生き方の問題』だと気づいた」と話す。
安心して話せる場を
西脇病院で依存症患者らの治療プログラム「女性の集い」を担当する精神保健福祉士の宮﨑けいさんは、女性参加者の声を聞くうち、ある傾向がみられることに気づいた。
それは、(1)「良妻賢母」の女性像にとらわれている(2)自分のことより人のことを優先する「共依存」に陥っている(3)「普通」を目指しているのに「完璧」を求めている-。
なぜそうなるのか。それは、いまだ男性中心の現代社会が、女性に社会での活躍を求める一方、良き妻、良き母であることも求めているから。女性自身、家庭の内外で完璧であろうと過度に努力するうちにストレスをため込み、その結果、依存症やうつになるのではないか。
依存症は脳がコントロールを失い、意志とは関係なく連続飲酒に陥ったり、ギャンブルにのめり込んだりする病気で、風邪などの処方薬や市販薬に依存する人も増えている。依存症への偏見は根強く、女性が患うと負い目を一層感じ、さらに自分を責めてしまう。
西脇健三郎院長は「依存は男女にかかわらず協調性があり、まじめできちょうめんな人が陥りやすい。仕事や家事に追われた現代女性は時間がなく、ストレスを発散させるはけ口がない」と指摘する。依存症をはじめとした精神疾患の増加の背景として、現代の“安全・快適・便利”を維持するために誰もがいろいろな役割を背負った、ゆとりのない社会を挙げる。
近年、依存症患者の男性に寄り添う妻や母らが女性の集いに参加する例も増えている。そういった支える女性たちも、「私が頑張れば夫(息子)は治る」と自分のことよりも家族を優先させて必死になる「共依存」に陥っている場合があり、西脇院長は集いへの参加を勧めている。
7月下旬の女性の集いでは依存症患者の妻たちが、当事者に交じって参加してきて変化した自身について述べた。「集いは(アルコール依存症の)主人から離れることのできる私の唯一の時間」「皆さんの話を聞いて、お父さんも(依存症を)止められない苦しさがあるんだと私自身理解が増した」-。
「夫が」「息子が」と話していた女性が、集いに参加するうちに、「私が」と自分に焦点を当てて話し始めるという。
「依存症患者を支える妻や母も周囲から求められる良妻賢母の生き方から離れ、自分はどう生きたいのかと集いで考えるようになる。それが患者本人の治療にも良い効果がある。女性が安心して話せる場がもっともっと増えたらいい」。宮崎さんはそう願っている。