2018年2月9日に開幕した、平昌冬季五輪。これから3週間にわたって様々なドラマが生まれることでしょう。
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今回は、そんなオリンピックの歴史に残る記念すべき瞬間の数々を冬季・夏季併せて、写真とともにご紹介しましょう。
1936年ベルリン夏季オリンピック
1936年、ナチス独裁政権下で行われたベルリン五輪では、ジェシー・オーエンス選手が陸上競技で4個の金メダルを獲得しました。アドルフ・ヒトラーの目の前で、非アーリア人のアスリートとして、驚異的な力を発揮したのでした。
1960年ローマ夏季オリンピック
ローマ五輪のマラソンでは、アベベ・ビキラ選手が2時間15分16秒という、当時の世界新記録で優勝。金メダルを獲得した初のアフリカ人アスリートとなりました。驚くべきことに、アベベ選手は裸足でこのマラソンに勝利。出身国のエチオピアでは、裸足で走ることに慣れていたそうです。
1960年ローマ夏季オリンピック
モハメド・アリ選手は、1960年のローマ五輪で金メダルを獲得しました。しかし、帰国後のアリは黒人であることを理由にレストランで入店を断られた後、失意のあまりこの金メダルをオハイオ川に投げ捨てたと言われています。
https://youtu.be/-DkLQiijQos
1968年メキシコシティ夏季オリンピック
短距離走者のトミー・スミス選手とジョン・カルロス選手は、米国での黒人差別に抗議するため、黒人のプライドを象徴するスカーフやリンチを受けた人を哀悼するロザリオを身に着けて表彰台に上がりました。米国歌が演奏されるなか、2人は頭を垂れ、拳を高く突き上げり「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれるポーズをとりました。この抗議はスポーツの歴史のなかでも、もっとも象徴的な瞬間と言えるでしょう。
1968年メキシコシティ夏季オリンピック
米国の走幅跳選手であるボブ・ビーモン選手は、いわば、辛うじてオリンピックに出場できたような選手でした。ですが、その彼がメキシコシティ五輪で驚異的な世界記録を打ち立てました。8m90cmという現在も残る記録(世界歴代2位。1位は1991年マイク・パウエルが出した8m95cm)は、当時準備されていた測定器では測りきれなかったほどでした。
https://youtu.be/tnXjdv_GM9g
1972年ミュンヘン夏季オリンピック
ミュンヘン五輪の男子バスケットボール決勝戦では、試合時間残り3秒の時点でソ連が米国を1点リードしていました。その後、米国がファウルによるフリースローで、50対49と逆転。試合終了のブザーがなると米国チームは大喜びしましたが、ソ連がタイムアウトを要求していたことが明かされ、残り3秒の時点から試合が再開されました。ここからソ連が得点を入れ、再び逆転して優勝したのでした。
1972年ミュンヘン夏季オリンピック
前ページのつづき…この判定に抗議した米国チームは、銀メダルの受け取りを拒否。表彰台でソ連の下に立つことを拒み、表彰式をボイコットしました。
1976年モントリオール夏季オリンピック
ルーマニア人のナディア・コマネチ選手は、モントリオール五輪の段違い平行棒でオリンピック史上初の10点満点を出しました。その後コマネチ選手は、この大会でさらに6回の10点満点を出し、3個の金メダルを獲得しました。
https://youtu.be/Yi_5xbd5xdE
1980年レークプラシッド冬季オリンピック
ミネソタ大学のハーブ・ブルックスコーチが率いた無名の選手たちが、当時、無敵とされていたソ連のチームを4-3で破りました。この試合は、現在も「氷上の奇跡」とも呼ばれています。その後、決勝ラウンドに進んだ米国チームは、フィンランドを破って金メダルを獲得しました。
https://youtu.be/NuBcvNmsVvs
1988年カルガリー冬季オリンピック
メダル獲得などの好成績を残したわけではありませんでしたが、ボブスレーのジャマイカチームは初めてのオリンピックで、一躍有名になりました。そして彼らは、世界中から愛されることになったのです。
https://youtu.be/nm4DjRcmoPY
1988年ソウル夏季オリンピック
米国の飛込み選手であったグレッグ・ローガニス選手は、予選の演技で飛び込み台で頭を強打して脳震盪を起こし、頭皮に5cmもの傷を負いました。しかし彼は、翌日には傷を縫って競技に復帰。見事、金メダルを獲得したのでした。
https://youtu.be/qP20D5vQsmM
1988年ソウル夏季オリンピック
「フロー・ジョー(Flo-Jo)」の愛称でも知られる、米短距離選手のフローレンス・グリフィス=ジョイナー選手が、女子100mと200mで世界記録を樹立しました。これらの記録は現在も破られておらず、彼女は史上最速の女子スプリンターとして名を残しています。
https://youtu.be/o2MGfxwl3WM
1992年バルセロナ夏季オリンピック
米国はバルセロナ五輪に、「ドリームチーム」と呼ばれる男子バスケットボールチームを送り出しました。このなかにはマイケル・ジョーダンやチャールズ・バークレー、マジック・ジョンソン、スコッティ・ピッペン、カール・マローン、パトリック・ユーイングなどなどのNBA黄金期のスター選手たちが選出されていました。
1992年バルセロナ夏季オリンピック
英短距離選手のデレク・レドモンド選手のストーリーは、涙なしには語れません。1988年、アキレス腱を断裂してオリンピックに出場できなかった彼は、1992年のバルセロナ五輪にメダルを目指して出場しました。しかし、今度は競技中にハムストリングを負傷してしまいます。それでもまだ諦めずに、ゴールを目指すデレク。そんなときにセキュリティを振り切ってコースに現れたのは、父親のジムでした。デレクが父に支えられながらゴールに辿り着いたシーンには、世界中が感動したことでしょう。
1994年リレハンメル冬季オリンピック
リレハンメル五輪前の選考会で、トーニャ・ハーディング選手の元夫によるライバル、ナンシー・ケリガン選手への襲撃事件が起こります。ハーディング選手にも疑惑の目が向けられますが、彼女は結局オリンピックに出場。しかし、演技中に靴紐が切れたハーディングは2度目の演技も振るわず、8位に終わりました。いっぽう、ケガを乗り越えたケリガン選手は銀メダルを獲得しました。
1996年アトランタ夏季オリンピック
1996年、モハメド・アリ氏がオリンピックに戻ってきました。アトランタ五輪の開会式で聖火台に火を灯す聖火ランナーを務めたアリ氏は、ローマ五輪後に川に投げ捨てたとされる金メダルを再び授与されています。
https://youtu.be/80wMMFAcweQ
1996年アトランタ夏季オリンピック
アトランタ五輪での体操団体女子決勝、米国がロシアに勝って金メダルを持ち帰るためには、ケリー・ストラッグ選手が跳馬で完璧な演技を見せる必要がありました。しかし、彼女は1回目の跳躍で、足首を負傷してしまいました。アメリカはソ連と僅差で接戦を繰り広げているなかでの、 ストラッグ選手に負傷。痛みで悶絶するストラッグ選手を見て、 誰もがアメリカの勝利を諦めていました。しかし、たった一人だけ諦めずに次への対策をイメージしていた人がいたのです。足を使わずに、体操を続けられるのか? しかし、ストラッグ選手は成し遂げました、最後まで諦めなかったのです。 不屈の精神で2回目の演技へ。そして奇跡の片脚着地が起こったのです。もちろん、アメリカは見事金メダルを獲得しました。そんなアウトスタンディングなストラッグ選手を動画で確認してください。
1996年アトランタ夏季オリンピック
一回目の跳躍で、足首を負傷してしまった彼女は痛みに耐えて2度目の跳躍を大成功させ、9.712という高得点で米国チームに金メダルをもたらしました。このときの米国チームは「マグニフィセント・セブン」と呼ばれています。
https://youtu.be/Gj2K7RfKObY
2000年シドニー夏季オリンピック
シドニー五輪の開会式ではオリンピック史上初めて、韓国と北朝鮮の選手団が統一旗とともに合同入場しました。
2000年シドニー夏季オリンピック
1996年に4個目の金メダルを獲得した後、「シドニーオリンピックに参加するのか?」を聞かれた英ボート選手のスティーブ・レッドグレーヴ選手は、「私がボートにまた乗っているのを見たら、みんな撃っていいよ」という変わった引退宣言をしました。しかし、彼は再びボート競技に復帰。2000年にはイタリアを僅差で下して、5個目の金メダルを獲得しました。そして幸いにも、撃たれていません。
https://youtu.be/MVXP_Rgr-uI
2000年シドニー夏季オリンピック
「うなぎのエリック (Eric the Eel)」の愛称で知られる赤道ギニアのエリック・ムサンバニ選手は、オリンピックに相応しい競泳選手とは呼べませんでした。彼は出場の8カ月前に水泳を初めたばかりで、100m自由形には特別出場枠で出場しました。しかし、同じ組で泳ぐはずだった2人の選手が失格となったことで、彼は観衆の前で1人ぎこちない泳ぎを披露することになってしまったのです。このときのタイムはオリンピックのワースト記録を更新しましたが、観客からは万雷の拍手がおくられました。
2008年北京夏季オリンピック
北京五輪ではウサイン・ボルト選手が、200mでオリンピック記録と100mで世界新記録を樹立。衝撃的なオリンピックデビューを果たしました。
https://youtu.be/93dC0o2aHto
2016年リオデジャネイロ夏季オリンピック
最後のオリンピックとなったリオでウサイン・ボルト選手は、100m、200m、4×100mリレーの3冠を3大会連続で達成した初めての選手となりました。彼は金メダル9個で引退しています(後に、北京でのリレー金メダルが剥奪されたため、通算金メダルは8個)。
By Esquire Editors on February 7, 2018
Photos by Getty Images
ESQUIRE UK 原文(English)
TRANSLATION BY Wataru Nakamura
※この翻訳は抄訳です。
編集者:山野井 俊