救出のタイムリミットは、24時間後に迫っていた。
彼は、もう祖国へ帰れないのだ。帰ったら命がない。
午後10時。約束の時間だ。彼が滞在している大阪の高級ホテル。裏口の駐車場の先、彼と落ち合う予定のドアノブに手をかけた。
開かない。日中には入れたドアが施錠されていた。まさか…。
焦る気持ちを抑え、彼の携帯電話を鳴らす。そもそも部屋で監禁され、外出すること自体できないという。
どうすればいい。助けに向かっていた在日ミャンマー人のアウン・ミャッ・ウィンさんは、頭を抱えた。
このままでは。このままでは――。
決死の3本指が持つ意味とは
救出を待っていた彼とは、サッカー・ミャンマー代表のゴールキーパーだったピエ・リアン・アウン選手(25)。
その2週間余り前の2021年5月28日。彼は日本代表とのサッカーW杯アジア予選で、国民を虐殺・支配するミャンマー国軍へ抗議を表す3本指のサインを立てた。
3本指は、「民主主義・連帯・選挙」の意味を持つという。
大阪でミャンマー料理店「ミャンマービレッジ」を経営する、来日して23年になるウィンさんは、ニュースを心配そうに見つめていた。
(ウィンさん)
「帰国したら間違いなく逮捕されるでしょう。ミャンマー国軍は許せないと思います、3本の指は。ミャンマーで今起きていることは、『きょう逮捕されたら、あす遺体が家に戻ってくる』。そういう状況ですよ。だから殺される可能性は高いです」
2021年2月、ミャンマーで国軍によるクーデターが起こった。民主主義を奪われた若者たちは、デモで国軍を非難するも、次々に逮捕され、拷問を受け、殺された。ミャンマーの人権団体・政治犯支援協会によると、2022年11月末時点で、国軍によって2500人以上の市民が殺害され、逮捕・拘束された人は1万6000人余りにのぼる。
後日、ウィンさんのもとに、知人を通じてアウン選手から助けを求める連絡が入った。ミャンマー代表は、大阪で残りのW杯アジア予選2試合を戦うことになっていた。
ウィンさんは、アウン選手の気持ちが痛いほどわかった。ウィンさん自身もかつてミャンマーの民主化運動に身を投じ、その後、日本へと亡命した過去があったからだ。
亡命を助ける男の過去
ウィンさんは、14歳でアウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟・NLDの青年部に参加した。スー・チー氏の演説を録音し配るなどして、2度国軍に逮捕され、厳しい拷問を受けた。
1997年、23歳のころに、船員になる道を選んだ。国内にいては、自らの身が危なかった。
翌年のある日、船員の入れ替えでミャンマー人は国に帰されると聞き、直後に寄港した広島で逃走を決意する。
不法滞在のまま東京に流れ着き、職を得た。ところが2002年6月、仕事帰りに職務質問され、出入国在留管理局(入管)に。入管施設で2年間収容された。
2004年に曲折を経て難民として認められたが、不思議と喜びはこみ上げなかった。
(ウィンさん)
「難民認定証をもらったとき、(入管職員に)うれしいですかと聞かれて。私自身が2年間も収容されていたので、うれしいとか悲しいとかの感情もなくなって、それをそのまま伝えました」
その後、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民向けの推薦入学制度を利用し、奨学金を得て関西学院大学法学部に入学。さらに大阪市立大学大学院に進み、法律や人権を学んだ。アウン・サン・スー・チー氏が来日した2013年には直接、ミャンマーの若者への人権教育を陳情した。
2018年には、大阪で祖国の料理を提供する店を開いた。日本語も流暢で、兄貴肌な性分。留学生や技能実習生など在日ミャンマー人の若者の悩みや相談をいつも受けていた。アウン選手がウィンさんを頼ったのも、そのためだった。
「必ずあなたを助け出す」
2021年6月15日、いよいよミャンマー代表の最後の試合の日。
ウィンさんはその夜、ミャンマー代表が宿泊している大阪のホテルへ向かった。綿密に計画したはずの脱出計画は、国軍側のチーム関係者による監禁によって水泡に帰した。
落ち込んでいる暇はない。何とかして次なる手を考えなくては。
日付の変わった深夜1時。支援を買って出た空野佳弘弁護士が駆け付けてくれた。かつてミャンマー人の難民認定訴訟を担当し、認定を勝ち取った実績のある弁護士だ。 ホテル前の路上でともに、アウン選手をビデオ通話で励ます。
「必ずあなたを助け出しますから」
携帯電話の画面に映るアウン選手はそれには答えず、うつむき、悲しそうに眼を潤ませている。
そして電話は突然切れた。支配者の権力に、本人の気持ちは折れかかっているのかもしれない。
(ウィンさん)
「彼さっき泣きそうになった。俺わかるね。俺ミャンマー人だから彼の気持ちがわかる」
時間切れが、刻一刻と迫る。
もう時間がない
なすすべがないまま迎えた、翌日の夜8時。
アウン選手らを乗せたミャンマー代表のバスがホテルを出て、関西空港へと向かう。その時、バスの座席に座るアウン選手と電話がつながった。
小声で答えるアウン選手。
(ウィンさん)
「彼は最後には『ごめんなさい。許して下さい、ミャンマーに帰ります』と、言っていました」
残された道は…。ウィンさんが伝えた「最後の手段」。それは、飛行機に乗る直前、出国審査のときに出入国を監理する入管職員に訴え、自ら帰国を拒む方法だ。問題は、国軍側のチーム関係者もいるなか、アウン選手がその意思を示すことができるかどうか。そこで日本に残ることを宣言し、帰国を拒む意思を明確に伝えなければ、もはや未来はない。
アウン選手は悩んでいた。一緒に戦った代表メンバーとともに帰るべきか。しかし帰れば、命が危ない。家族は。民主主義は。祖国の未来は。
チケットを受け取ったアウン選手は出発ゲートへと進み、その姿は見えなくなった。
ギリギリの決断
午後10時15分―。
空港に入って1時間20分が経った、その時。
アウン選手からの電話が鳴った。
出国審査のタイミングで、帰国を拒否する意思を示したのだ。係官に別室に通された、アウン選手の顔がビデオ通話の画面に映る。
「大丈夫か?」
ウィンさんは、ミャンマー語でアウン選手に無事を確認し、横にいる入管職員に電話を代わるようにお願いした。そして、彼に身元保証人はいるのか、と問う入管職員に日本語で答える。
(ウィンさん)
「私は政治難民認定者です。政治難民認定者で…保証人になります!」
電話を切ったその場で、表情から緊張が溶けていく。
「よかった…」ウィンさんは、日本語で呟いた。そして思わず、笑みがこぼれた。
午後11時55分。ミャンマー代表を乗せた飛行機は離陸した。
命を落とした仲間たち
日付が変わった6月17日午前0時10分。アウン選手が、空港ロビーに姿を見せた。
掲げたのは、あの3本指のサイン。 「民主主義・連帯・選挙」。自由の身となったいま、改めて国軍へ抵抗の意思を示した。
(アウン選手)
「ミャンマーでは国軍が鶏一羽を締め殺すかのように、国民を無差別に殺しています。亡命しても、いずれミャンマーに帰るつもりですが、軍事政権がいつまで続くかわからない状態です。日本でサッカーをする目的ではなく、政治的問題のため、しばらくいたいです」
ウィンさんは少し安らいだ顔で、振り返った。
(ウィンさん)
「私自身も大変でしたけど、彼自身がすごい勇気を出して、頑張ったので、彼が自由になったことがすごく嬉しいです。彼を助けることはミャンマーを助けることになりますから。彼のことを応援しているのはミャンマーのためになる」
実は、アウン選手には死んだサッカー仲間がいた。民主化デモに参加し、命を落とした仲間たち。アウン選手は彼らの写真を見せてくれた。
(アウン選手)
「これが国軍に殺された、ゴールキーパーのアンゼンピョ。マンダレーのリンレットFCにいました。20歳でした」
「こちらの写真はU-21代表のキャプテン、チェボーボーニェエンです。21歳。デモ中に銃で殺されました」
もし、あの飛行機で帰国していたら―。次は自分がそうなっていたはずなのだ。
監視される、祖国の家族
6月22日。アウン選手は大阪出入国在留管理局に難民申請を行った。国軍の暴走が止まらない祖国。家族の状況が気にかかる。
(アウン選手)
「国軍は私の実家の周りを監視しています。今は私服姿で監視をする怪しい人たちもいます」
7月、日本政府によるミャンマー人への暫定的な「緊急避難措置」によって、アウン選手に6か月の在留資格と労働許可が認められた。
苦悩するアウン選手を救うチームが
アウン選手の「職場」となったのは、フィールドの上だった。
苦悩するアウン選手に手を差し伸べてくれるサッカーチームが現れたのだ。
Jリーグ3部のY.S.C.C.横浜。「ボールで世界平和」を理念に掲げるこのクラブが、アウン選手をチームに招くことができないか、と手を挙げたのだった。
(Y.S.C.C.横浜 吉野次郎社長)
「クラブとしてボールで笑顔、世界平和という標語を掲げているなかで、ボールを蹴る場所を提供したいというのが素直な気持ちでした。最初はすごく緊張していたようですけど、練習でのさわやかな笑顔を見ると、色々苦しいなか、前向きな気持ちを引き出せて良かったと感じています」
3日間の練習を見た吉野社長は、アウン選手のサポートを続けることを決断した。練習生としてチームに加入することが決まった。さっそく、祖国の父親に喜びを報告する。
難民と認められるのか
8月19日、入管から連絡がきた。 難民認定の結果を伝えるため出頭せよ、とのことだった。期待とともに、不安も膨らむ。
(アウン選手)
「難民認定は、国軍には許せないことです。日本政府が国軍を批判した私を認めることになりますから。あす難民認定されたら、国軍が仕返しとして、家族に何をするかわかりません」
翌8月20日。アウン選手はウィンさんとともに、入管へ向かった。
この日、 アウン選手は異例の早さで難民と認められた。「帰国すれば迫害の恐れがある」というのが理由だった。 大勢のマスコミの前で、記者会見が開かれた。
(アウン選手)
「私には命があるので、いつかミャンマーが平和になったら、帰って家族と会うチャンスがあります。けれど、ミャンマーの民主化運動で命を落とした人たちはもう家族と会うことすらできません。私のやったことは、彼たちと比べたら本当に小さなことです」
支援者のウィンさんの身にも危険が
8月末、自らのミャンマー料理店にいたウィンさんの電話が鳴った。ミャンマーにいる友人が、至急伝えておきたいことがあるという。
(友人)
「お前の家族も気をつけたほうがいい。ミャンマーにいないお前を逮捕できないから、代わりにお母さんとお姉さんを逮捕するつもりだ」
国軍の逮捕リストにウィンさんの母親と姉の名前が載ったという。病気で足を切断し、歩くこともできない母親の身を案じ、すぐに電話を掛ける。
(ウィンさん)
「アウン選手を俺が助けることについて、お母さんとお姉さんは知っているのに、黙っていた。国軍に情報をくれないで黙っていたという罪で、お母さんとお姉さんを逮捕するらしい」
チームの力になれなくて…
アウン選手は結局、Y.S.C.C.横浜のフットサルチームへと入団することが決まった。日本フットサルリーグ(Fリーグ)の1部に所属する強豪だ。
しかし、現実は厳しかった。リーグ戦が始まるも、試合に出られない日が続く。チームメイトは自分のいきさつを理解したうえで、優しく接してくれる。それだけにチームの力になれない、歯痒い思いが募っていく。
この頃、ミャンマーでは国軍と民主派の争いが激しさを増していた。民主派は、国民防衛隊(PDF)を設立し、内戦状態へと突入。国軍による空爆や村への焼き討ちで民間人の死傷者が増えていった。
サッカーに打ち込みながらも、祖国の家族や仲間の安否を案じていた。一方で、安全な日本にいる申し訳なさを感じ、夜な夜な思い悩む日々が増えていった。プレーするモチベーションを保つので、精いっぱいだった。
途中出場で公式戦デビューも果たしたが、自らのミスが失点に結び付くなど、思うような結果は得られなかった。
父からの絶縁宣言が新聞広告に…
2022年2月8日。 アウン選手をさらに追い詰める事実が判明した。
国軍が民主派への弾圧を強めるなか、アウン選手の父親がミャンマーの新聞に広告を出したのだ。
「親の教えに背き、何度も問題を起こしたので、本日からこの息子と縁を切る」
ミャンマーでは抗議活動を行う若者の親が、国軍の拘束を恐れ、絶縁を公にするケースが相次いでいた。
(アウン選手)
「いつかこうなると思っていた。お父さんは自分の身を守るために仕方がなく絶縁したと考えるしかありません。とにかく一番はお父さんのことが心配で、生きていてほしい。ミャンマーの民主化も先が見えずに悪化して、さらに外国で民主化運動をする人の家族の家を国有化したり、家族を逮捕する事例を次々に聞いたので、すごい心配がありました」
アウン選手は心労から睡眠障害を患い、チーム練習にも参加できない日々に陥った。結局、チームには今季限りで引退する意向を伝えた。クラブ側は「平和アンバサダー」の肩書きを作り、引き続き日本から民主化運動を行いやすい道筋を残すことにした。
(アウン選手)
「私は日本にいる限り、民主化運動を続けていきます。国内外にいるミャンマー人は団結して、さらに海外のミャンマー人は祖国にいるミャンマー人を支援して、いつかミャンマーに民主主義を取り戻します」
ミャンマーの未来を祈る
アウン選手は引退したいま、東京都内で暮らしている。製造業の工場で働きながら、SNSなどで国軍の蛮行を日々伝え、ミャンマーの民主化を訴える活動をしている。Y.S.C.C.横浜で、地域の子どもたちへサッカーを教えることもある。民主化の先も見えず、自らの運命に対する複雑な思いが、正直、心をよぎる。それでも自分を受け入れてくれた人たちへの感謝を忘れることはない。
(アウン選手)
「これまで日本で私を助けていただいた人たちに、本当に感謝しています」
大阪のウィンさんの元には今も、アウン選手と同じように苦悩する、来日したミャンマーの若者が駆け込んでくる。
一人一人に寄り添うウィンさんは、こう語る。
(ウィンさん)
「日本にいるミャンマーの若者たちが、日本で様々な知識を学んで、将来民主国家になった日には帰って、新しいミャンマーを作れたらいいと思います。彼たち彼女たちが日本とミャンマーの懸け橋になる日が来る。私自身も、新しいミャンマーに帰れるその日まで、闘いを続けます」
民主化を訴える自国民を殺す国軍。
国軍とのパイプを保ち、政府開発援助(ODA)の既存事業を続ける日本。
ミャンマーで経済活動を続けたい日本政府の曖昧な外交が続くなか、失われた自由と民主主義を取り戻すために、日本で必死に声を上げる人たちがいる。
いまこの瞬間も、ミャンマーでは国軍による無慈悲な暴政が続いている。
(MBS報道情報局 和田 浩)
※この記事は、MBSニュースによるLINE NEWS向け特別企画です(年齢は取材当時)。