定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「他者を信頼して生きる」です。
共同体感覚と隣人愛
アドラー(※1)は軍医として第一次世界大戦に参戦したが、兵役期間中の休暇の間に、ウィーンのカフェ・ツェントラルで、「共同体感覚」(Mitmenschlichkeit)の考えを友人たちの前で初めて披露した。
人は他者と結びついており(mit)、他者は「仲間」(Mitmenschen)であって、「敵」(Gegenmenschen)ではないと主張するアドラーの元から多くの友人たちが去っていった。
「仲間」を意味するドイツ語Mitmenschenは「隣人」(Nachster, Nebenmenschen)とほとんど同じ意味なので、アドラーの共同体感覚はイエスが説いているような隣人愛、敵をも愛せという考えに近いと見なされた。
「まるで宣教師がいうような考え」(Phyllis Bottome, Alfred Adler)を突然聞かされた友人たちは「宗教的な科学」(前掲書)を認めるわけにいかなかったのである。
彼らが去ったのは、それだけが理由ではなかったかもしれない。
戦争は人と人を反目させる(gegen)という意味で、共同体感覚の対極にあるものである。
アドラーは戦場で悲惨な戦争の現実を目の当たりにしてきた。
それにもかかわらず、共同体感覚の思想に到達したことが理解できなかったのではないだろうか。
フロイト(※2)は同じ戦争を目の当たりにして、「死の本能」を着想した。
これは自己破壊衝動であり、外に向かうと攻撃性になる。
フロイトは、この攻撃性を「人間に生まれつき備わる他者を攻撃する傾向」といっている(Das Unbehagen in derKultur)。
フロイトは、敵を愛せという命令は「人間の攻撃性のもっとも強い拒絶」(前掲書)であるといい、「汝の隣人が汝を愛する如くに、汝の隣人を愛せよ」なら異論はないが、見知らぬ人は愛するに値するどころか、敵意、さらには憎悪を呼び起こすとまでいっている。
フロイトにとって隣人愛は「理想命令」であり、人間の本性に反していると考える(前掲書)。
しかし、イエスやアドラーのいう隣人愛はフロイトがいうように「人間の本性に反している」のだろうか。
※1 アルフレッド・アドラー(1870~1937年)オーストリアの精神科医、心理学者。
※2 ジークムント・フロイト(1856~1939年)オーストリアの精神科医。治療技術としての精神分析を確立した。
赤の他人は助けないのか
イエスは、「私の隣人とは誰か」とたずねる律法学者に、サマリア人が、強盗に襲われ傷ついていた、本来敵であるユダヤ人を助けたという話をした(『ルカによる福音書』)。
これははたしてフロイトが「人間の本性に反している」というような特別な行為なのか。
誰かが救いを求める時、救いが期待されていなければ救いを求めたりはしない。
しかも、危急の際、ただ親兄弟や友人だけに呼びかけるのではない。
誰に対しても呼びかけるのである。
和辻哲郎(※3)は、次のようにいっている。
「そうしてみれば人は、他の人々をすでに初めより救い手として信頼しているがゆえに呼ぶのである」(『倫理学』)
中には、サマリア人の喩え話にあるように、怪我人を見てもよけて通る人もいるだろうし、急ぎの用事があって助けられない人もいるだろう。
それにもかかわらず、他者は救いの手を差し出す者として信頼されているのである。
救いを呼ぶ声を聞き、救いの手を差し伸べるということは、この信頼の声を聞くということである。
だから、その救いを求める声を聞かずに立ち去ることはできない。
たとえ立ち去るにしても、後ろ髪を引かれる思いがするだろう。
助けを求める人がいれば、「胸が締め付けられる思い」がするであろうし(八木誠一『イエスの宗教』)、人の力になろうとする行為は「人間の本性から出た自然な行為」(前掲書)である。
※3 哲学者、倫理学者(1889 〜1960年)。『古寺巡礼』『風土』などの著作がある。
信頼に応えるのが人間の本性
このような信頼は、人命が危急に瀕するというような特別な場合にのみ見出されるのではない。
例えば、道に迷った時、近くを通りかかった見知らぬ人に道をたずねるだろう。
「その人がいかなる人であり、いかなる心構えを有するかを全然知らない場合でも、彼はこの人が彼を欺かず彼を迷いから救い出してくれると信じ切っているのである」(和辻哲郎、前掲書)
シャルル・ド・ゴール空港でパリ市街までどうやっていけばいいかたずねられたことがある。
私自身もフランスは初めてだったが事前にバス乗り場を調べていたので、幸い、私にたずねた人の信頼に応えることができた。
しかし、よくわからないままに答えていたら間違ったことを教えることになったかもしれない。
中には、意地悪でわざと嘘を教える人もいるかもしれない。
「しかし、それは当然期待さるべき親切な態度が欠如している場合に過ぎぬのであって、右のごとき信頼を覆し得るものではない」(前掲書)
実際、一度嘘を教えられたからといって、その後道をたずねるのをやめる人はいないだろう。
このような信頼は何か特別なことではなく、普通のことである。
電車に乗っている時、同じ車両に乗り合わせている人が乗客に危害を加えるとは思わないだろう。
そのような疑惧を抱いていれば電車に乗れない。
実際、普通は他の乗客に話しかけたりもしない。
本を読んだり、窓の外を見たりして過ごす。
満員電車の中では他者との距離はあまりに近く、隣にいる人に個人的には何の関心もないことを示さなければならないからである。
しかし、もしも何か緊急のことが起きればそ知らぬふりをするのではなく、助け合うはずである。
このような時、知らない人同士の集まりなのに一体感が作られる。
助けを求めても誰も救いの手を差し伸べないかもしれない。
道をたずねても無視されるかもしれない。
たしかに、何が起こるかはわからない。
しかし、その未知なことを補うのが信頼である。
他者は隙あらば自分を陥れようとする敵かもしれないと思って他者を信頼できないような人は、生きていくことはできない。
岸見一郎(きしみ・いちろう)先生
1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。