間もなく1歳になる息子が、心底愛しい。
だからこそだ。麻衣さん(37歳、仮名)には、罪悪感にさいなまれる瞬間がある。
「わたしは、なんてことをしようとしていたんだろう」
1年前、中絶手術を申し込むために、産婦人科医を訪れていた。
第3子妊娠がわかった後に受けた、妊婦の血液から胎児の染色体異常を調べる「新型出生前診断(NIPT)」で、異常が見つかったからだった。
検査を受けたクリニックは、日本医学会からNIPTの実施機関としての認証を受けていない施設だった。
ただ「陽性が検出されました」という診断結果は、重たすぎた。
生まれ来る子を思う親たちの、切実な思いに迫った。
苦しみから逃れたいと中絶へ
中絶手術を申し込むため、麻衣さんは大阪医科薬科大学病院(大阪府)の診察室にいた。2021年5月のことだ。
「赤ちゃんは元気ですね」。若い医師は、超音波(エコー)検査のモニターを見てもらおうと、カーテンをさっと開けた。
「いいです」。麻衣さんは目をそらした。
だが、次第に胸が苦しくなった。涙がほおを伝った。
「実は……」。麻衣さんは口を開いた。
「この状況に耐えられないんです」。苦しみから逃れたい一心だった。
おなかの子を案じてNIPT
1カ月前、麻衣さんはインターネットで「NIPT」と検索していた。
夫、長男、長女と府内で4人暮らし。第3子の妊娠が分かると、これまでになく「おなかの子は大丈夫だろうか」と案じるようになった。初めて35歳を超える「高齢出産」になるためだ。
NIPTとは、母親の血液中に流れる胎児由来のDNA断片を解析し、染色体の変化を調べる検査だ。
検索で一番上に表示されたクリニックのホームページは説明が分かりやすく、検査項目が多いという宣伝文句にひかれた。
「分かるものは全部知っておいたほうが安心かな」。最も検査項目が多く、20万円以上のプランを選んだ。
日本医学会からNIPTの実施機関と認証されていない無認証施設だった。
認証を受けている大病院は学会の指針が認めた3種類の染色体のみ検査し、産婦人科医や遺伝専門のカウンセラーが対応する。
一方、無認証施設の検査項目は何十種類にも及ぶ。ほとんどが産婦人科医ではなく、美容皮膚科や内科などが多い。
「陽性:検出されました」
クリニックは、大阪市内の雑居ビルにあった。診察室は、簡易に間仕切りされていた。タブレットの動画と文書に目を通すよう言われた。
しばらくして診察室に入ってきた男性医師は、明るく声をかけた。「安心して」
だが、検査の詳しい説明はなかった。看護師がさっと採血して終わった。
数日後、麻衣さんは結果を確認するため、ノートパソコンを起動した。利用者専用のウェブサイトを開くと、大きな文字が目に飛び込んだ。
「陽性:検出されました」
すーっと、全身の力が抜けるようだった。
「ああ……だめだったんだ……」
書面には「8番染色体部分重複の疑い」とあった。23対ある染色体の8番目で、日本医学会の指針外の検査項目での異常だった。
羊水検査まで1カ月、浮かぶ悲観
ネット検索すると、この疾患を説明するウェブサイトが見つかり、身体的な面、知的な面で「極めて多様」な特徴が出ると書かれていた。どう受け止めてよいか分からなかった。
クリニックが別料金で提供するオンラインのカウンセリングを受けた。カウンセラーから陽性の項目について資料提供はなかった。
口頭の説明はよく分からなかったが、「てんかんや自閉症になる」と言われた。確定診断のため羊水検査を受けるよう促したカウンセラーは、最後まで名乗らなった。
「子どもに障害があったら生活が一変する。長男と長女にも負担になる」
つわりで体調が悪い中、悲観的なことばかり頭に浮かんだ。
膨らむおなかに焦った。今は妊娠10週。羊水検査を受けられるのは妊娠16週以降で、1カ月以上待つ必要がある。
「羊水検査でも陽性となったらどうすればいいのか。もし中絶となれば、かなり成長した赤ちゃんを自分の意思で死なせてしまうのだろうか」
妊娠を続けることが怖い
妊娠12週以降の中絶は、人工的に陣痛を起こしての流産となるため数日間の入院が必要だ。短時間で終わる妊娠初期の中絶手術と異なり、肉体的にも精神的にも負担は大きい。
「私もそうなるんだろうか」。想像するだけで、涙があふれた。
夜も眠れなくなり、妊娠を続けることが怖くなった。
「もう中絶するしかないのかな」
麻衣さんは決心し、大阪医科薬科大病院で診察を受けた。診察した若い医師は中絶に反対せず、淡々と手続きを進めた。麻衣さんは手術の予定日を決め、病院を後にした。
羊水検査で「再び陽性が怖い」
自宅に帰ると、携帯電話が鳴った。相手は大阪医科薬科大病院産科・生殖医学科の藤田太輔科長だった。
「中絶を決めたら決めたでいいが、一度話を聞いてほしい」
この直前、藤田さんは、麻衣さんを診察した若い医師から報告を受けた。
NIPTを実施したクリニックが無認証施設で、陽性とされたのも学会指針が認めていない検査項目だったため、検査精度が低い可能性があると考えた。「これはちゃんとせなあかん」と引き取った。
確認には、子宮内の羊水を採取して胎児の染色体を調べる「羊水検査」が必要だ。
再診の日、藤田さんは羊水検査を勧めたが、麻衣さんは「賭けに出るようなことに進むのは怖い」と返した。再び陽性になる可能性が高いと怖くなった。
NIPTの結果から2カ月
麻衣さんは、NIPTで陽性となった箇所について解説するウェブサイトを印刷した紙を手にしていた。手や足などにさまざまな症状が出ると書かれていた。
その紙を見た藤田さんは、超音波検査を始めた。
「指は5本あるよ」
「心臓はちゃんと(左右の)部屋が分かれている」
藤田さんは、胎児を観察しながら体の部位ごとにじっくりと説明した。モニター画面には高精度の3D画像で、胎児の姿がくっきりと映し出された。
「妊娠初期なのにここまで分かるんだ」。1時間以上話を聞き、ようやく麻衣さんは気持ちが落ち着いてきた。藤田さんの提案を受け入れ、羊水検査に進むと伝えた。
結果は藤田さんの予想通り、特段の症状が出ないタイプだった。
診察室で、検査結果の報告書を示されると、麻衣さんは「良かったです」と顔をほころばせた。
その半面、NIPTの結果が出てから既に2カ月近くたっていたことに「ここまで時間をかけて検査しないと、前向きになれないのか」と複雑だった。
次男は3400グラムの元気な男の子だった。
諦めかけたことに今でも罪悪感
麻衣さんはその後、ふとした時に、出産を諦めようとしたことを思い出し、「なんてことをしようとしていたんだろう」と罪悪感に襲われた。
「NIPTの結果だけぽんと渡されて、もうだめだと思って、シャットダウンしてしまった。詳しい先生にしっかりと診てもらうことが大事なんだと思う。私の場合はそのおかげで希望が持てたから」
無認証施設の多くは、学会指針が認めていない染色体の微細な重複や欠失に検査項目を広げている。
藤田さんはこうした検査項目では、本当は陰性なのに誤って陽性と出る「偽陽性」や、今回の麻衣さんのように実際は特段の症状が出ない場合があると指摘。「NIPTの結果に動揺して、羊水検査など確定的検査を受けずに正常な胎児を中絶する事例が一定数あるのでは」と危惧する。
実際に、指針外の項目で陽性となった妊婦が羊水検査を受けないまま中絶した例もある。
「NIPTで陽性と出た場合に、確定的検査までフォローしながら、メンタル面でサポートすることが不可欠だ。そうしたサポート体制ができていない施設でNIPTを受けるべきではない」と話す。
「産めなんて簡単に言えない」
染色体異常による疾患があり、先天的な障害を持って生まれた子の家族は、NIPTの拡大をどんな思いで見ているのだろうか。
寝たきりの息子を持つリエさん(40歳、仮名)は、いまは息子を「宝」と思える。だが7年間の介護生活を振り返り、NIPTで陽性となった人に「産めなんて簡単に言えない」という。
瀬戸内海に浮かぶ広島県の名勝・宮島を望む住宅街。「スー、スー」。人工呼吸器をつけベッドに横になっていた次男(7)をリエさんが抱きかかえると、次男の表情がゆるんだ。
「私だけに見せる表情。母親と認識されている」
一番幸せを感じる瞬間だ。
17番染色体の異常によるミラーディカー症候群で、人工呼吸器を付けている。言葉は出ないが、表情やちょっとした仕草で気持ちを感じられることがある。
死産覚悟、事前に決めた葬儀会社
7年前は悲嘆に暮れていた。
次男の病気は、リエさんが妊娠28週健診で受けたエコー検査がきっかけで分かった。中絶が可能な22週は過ぎていた。
「どうしてもっと早く分からなかったのか」「産みたくない」。涙ながらに医師を何度もなじった。医師は「時期的に中絶できないのは分かるでしょう」となだめたが、「なんで私がこういうくじを引いてしまったのか」と、切迫早産の恐れで入院した病室で涙を流した。
医師からは「9割方、おなかの中か出産時に亡くなる」と告げられた。死産になることを覚悟し、葬儀会社も事前に決めた。
次男は仮死状態で生まれ、蘇生措置で息を吹き返した。
「よく頑張ったね、ありがとう」
分娩台で横になっていたリエさんが赤ん坊に話しかけてほおに触れると、元気な泣き声を上げた。「その時の感動と喜びは、それまでの人生で感じたことのない、とても大きなものだった。必ずこの子を守っていこうと思った」
染色体異常を持った子は「宝物」
ただ、そんなリエさんも一度は介護を諦めた経験がある。
体力も気力も限界となり、1歳を過ぎたころ「もう家ではみられません」と医師に音を上げたのだ。
でも「体は楽になったが心は楽にならなかった」。
面会で次男を抱っこした時の笑顔、帰る時の泣き声に後ろ髪を引かれた。
「もう一度この子を受け止めたい」と、自宅で育てることを決めた。
深夜も続く介護
リエさんは午前6時に起きると、日付が変わって午前1時ごろまで介護が断続的に続く。自身が床に就くのは午前3時。
急激な体調悪化があり、脈拍や呼吸の回数のモニターを確かめるため、1時間に1回は起きてしまう。訪問看護は週4回、1日1時間半受けており、その間に家事を手早くこなす。睡眠時間も満足に取れない生活が続く。
リエさんは次男には「少しでも長く、楽しく生きてほしい」と願っている。
障害持った家族、負担感じない社会に
大学病院など医学会の認証施設でつくる「NIPTコンソーシアム」によると、染色体の異常が羊水検査で確定した妊婦の約9割が中絶を選んでいる。こうしたことに「命の選別」との声がある。
だがリエさんは違和感を覚える。
自分はおなかの子の病気が分かっても産むことしかできない状況だった。介護を一身に背負い、夫も家計を支えている。
早く異常が分かる可能性のあるNIPTについて「今生きているお母さん、お父さん、きょうだいがより良い生活をしていくために受けるのは理解できる」とし、「産む、産まないというどちらの選択をしても判断は尊重されるべきだ」と考えている。
医療費はわずかな自己負担で済むなど支援の仕組みはあるが、訪問看護は昼間しか受けられていない。「夜間の訪問看護が普及すれば、まとまった時間、寝ることができる」と考える。
「障害を持った家族がいた場合も負担を感じない社会になれば、出生前検査で染色体異常が分かっても悩む人は減るだろうな」
リエさんの言葉は息子への深い愛情と、介護の負担が家族にのしかかる現実を映し出している。
(毎日新聞くらし医療部・原田啓之、村田拓也)
※この記事は、毎日新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。