「サプライズがあるの」
出迎えたサオリ(仮名、39歳)はそう切り出し、助手席に座るリョウ(同、37歳)に目を閉じるよう言った。
次の瞬間、サオリの手には刃渡り約18センチの包丁が光っていた。
2020年11月13日夜。中部国際空港の駐車場で事件は起きた。
リョウは、結婚の約束をしていたサオリの家族にあいさつするため、九州から空路で到着したばかりだった。
自ら110番したサオリは、殺人未遂容疑などで駆けつけた警察官に逮捕された。
一方で、被害者であるはずのリョウも翌日、サオリに対する脅迫容疑で逮捕された。
その後の裁判では驚くべき事実が明らかになった。
2人が交際していた4カ月のうちに、直接顔を合わせたのはこの日が4度目。ところがLINEで交わしたメッセージは約6万通に上ったという。
首元を刺されたリョウが法廷で、検察官から「モラハラ男」と非難されるひと幕もあった。
いったいどんな関係だったのか――。
きっかけはオンラインゲーム
愛知県中西部で暮らすサオリは08年、勤め先で知り合った料理人の夫(44歳)と結婚した。
4人の子に恵まれ、我が子の成長記録を毎日のようにブログにつづった。
だが、新型コロナウイルスの影響により、平穏な生活は音を立てて崩れた。
料亭勤めの夫は仕事が激減した。月収は10万円近く減った。テークアウトを始め、帰宅は日付をまたぐようになった。
4人の子が通う小学校は一斉休校になった。サオリは食事の準備や兄弟げんかの仲裁に費やす時間が増えた。
唯一、サオリの気持ちが安らぐのは、子どもたちが寝静まり、夫が帰宅するまでの数時間。
友人に誘われて始めたオンラインゲームで、見ず知らずの誰かと、何気ない会話を交わすのがストレス発散になった。
6月ごろ、人気のゲーム「荒野行動」を通じてリョウと知り合った。
「特別枠」で交際することに
リョウは九州で暮らすシングルファーザー。フラワーアレンジメントの会社を知人と共同経営しながら、育児、家事もしていると聞いた。
印象は悪くなかった。リョウに促され、連絡先を交換した。子育てや家事に関するアドバイスを送り合った。
夫の帰宅は相変わらず遅かった。
夫婦の会話は夫が床に就くまでの1時間ほど。サオリが職場の愚痴に耳を傾けても、子育ての話には上の空の夫。そして、すぐ愚痴に戻った。
「特別枠があってもいいんじゃない」。知り合って1カ月後、リョウに交際を申し込まれた。後ろめたさはあった。でも日常的に話をする人ができただけ、と承諾した。
遠く離れて暮らすリョウと交際しても、何も変わらない。そう思っていた。
夫や子どもを送り出した後、リョウと連絡を取り合った。ハンズフリーで長電話し、相手の顔が見たければビデオ通話を使った。
話題の大半は晩ご飯の献立や子どものしつけ。夜になって夫が帰宅すると、サオリは電話を切った。
対照的なリョウと夫
そうした態度にリョウが不満を募らせ、怒りの矛先を夫に向けるようになった。
例えば、洗濯物や洗い物がたまっても、夫は「自分のペースでやればいいよ」と気にかけなかった。サオリは気遣いと感じた。
しかし、リョウは「結局、(夫は)やらない。悪いのは旦那だ」と責めた。「俺なら苦労させない」。そう言って、離婚するように促した。
家のことを気にかけないマイペースな夫。
一方、画面に映るリョウの部屋はこざっぱりしていて、仕事や家事、育児をテキパキこなしているようだった。
声のトーンでサオリの体調の変化に気付く細やかさもあった。
対照的な2人の間でサオリの心は揺らいだ。
ひょう変したリョウ
9月初旬、リョウから突然、夫と離婚する気がないなら、別れようと言われた。
まだ一度もリョウに会ったことがなかった。母親に子どもを預け、九州へ向かった。
その日のうちにとんぼ返りしたが、リョウのことがいっそう好きになった。
サオリは「一緒にいるのが苦痛だ」などと言って、夫に離婚届を突きつけた。リョウの存在は明かさなかった。
夫が近くの実家に戻る形で、別居が始まった。
リョウは9月中旬、「指輪を買いたい」とサオリに会いに来た。実際に会うと優しかった。
だがLINEに送ってくる文面は、「離婚が長引いて半年、1年経つようなら俺は旦那を殺す」「どんな手を使っても確実に殺す」と過激になった。
リョウの上半身にはタトゥーがあった。
暴力団とも親交があると告げられ、「1人処分してほしいと頼んだ」と言い出した。費用として300万円を支払ったとも聞かされた。
サオリが夫の身を案じれば「まだ好きなのか」となじられた。
リョウの言動に恐怖を感じるようになった。ただ、一緒にいる時はおとなしく、別人のようだった。
夫との離婚届を提出
9月末、リョウに言われるがまま離婚届を出した。
リョウは、サオリの行動を束縛するようになった。家族や親戚以外の友人らと連絡を取ったり、SNSをしたりすることを禁止した。サオリが10年以上続けていたブログも削除させた。
電話には必ず出ろ、胸元が開いた服は着るな……。要求はどんどんエスカレートした。
再婚して九州へ引っ越すときには、自宅の窓ガラスをすべて割って過去を断ち切れ、と命じられたこともあった。
「亡くなった父親からお金を借りて建てた大切な家だ」と言うと、リョウは怒り狂った。
サオリはこのころ、別れも意識した。
だが、何をしでかすか分からないリョウと離れるほうが怖かった。
謝るサオリに浴びせたひと言
それから2カ月後。
サオリがふと漏らしたひと言から、旧友に連絡を取ったのがばれた。
一瞬の言いよどみもリョウは聞き逃さなかった。
「何嘘(うそ)つきよんの?」
「ころすぞごみ」
数秒おきに鳴り続けるメッセージの着信音。
リョウとサオリのやり取りのイメージ(毎日新聞が再現)
サオリがひたすら謝ってもリョウの怒りは収まらない。
「次それ言ったら死ぬまでこづく」
電話でも1時間以上、罵倒された。
「お前の顔を見たら殺しそう」
「お前と子供のことを調べ上げて『外人』に殺させる」
サオリが、自分の身にやいばを向けられたのは初めてだった。
身が震えた。
そしてリョウが追い打ちをかけた。
「お前の考える最悪なことが起きると思え」
サオリは警察に相談しようと思った。だが暴力を振るわれてはいなかった。
ドメスティックバイオレンス(DV)には当たらず、警察に相手にされないのではないか。
自分と子どもの命を守るには、あいつを殺すしかない――。
追い込まれたサオリは、台所にあった包丁を紙袋に入れた。
数時間後、結婚の準備を進めるため、リョウが会いに来ることになっていた。
家族に残した謝罪のメッセージ
午後5時過ぎ。
サオリは母親や家族に向けて5分ほどの動画を撮影した。
「みんなごめん。こうするしかなかった」
スマートフォンに向かって話すサオリの目の下にはくまができ、ほおもこけている。
「あいつは本当にやる」。リョウがいかに危険かを訴える一方、「優しい時は優しいの」とも語った。
焦点の定まらない、うつろな視線。画面に映る表情は、乱れた心そのままだった。
サオリは撮影を終えると、母親と元夫を家に呼び、交際相手と別れてくると告げた。
子どもたちの面倒を見てほしいと言い残し、一人で空港へ向かった。
午後9時50分。
車の助手席に座ったリョウを刺して、外に飛び出した。その後の記憶は、途切れ途切れだ。
スマートフォンに保存していた動画を母親に送り、自ら警察に通報。駆けつけた警察官に「彼氏を包丁で刺しました」と告げた。
証言台に立った恋人
童顔のリョウは終始うつむきがちで、一秒でも早く、その場から立ち去りたいように見えた。
事件から1年半ほどたった22年6月にサオリの裁判が始まり、リョウが証人として出廷した。
リョウは、脅迫の罪に問われた自分の裁判で、懲役1年、執行猶予3年の判決が確定していた。
検察側の質問に対し「ころすぞごみ」などと、何度もサオリにメッセージを送ったことを認めた。
しかし、なぜ暴言を送りつけたのかという問いには、小声で「記憶にない」と繰り返した。
弁護側は「誤想防衛」を主張
サオリの弁護人は、サオリは当時、恋人から受けた精神的な暴力が原因で、身の危険が迫っていると錯覚していたと指摘。「誤想防衛」(「正当防衛」などと思い込んだ行為)に当たるとして無罪を主張した。
サオリと約10時間面談した精神科医も、リョウから精神的に支配されてうつ状態だったと証言した。
サオリに言い渡されたのは、懲役3年、執行猶予4年(求刑・懲役5年)の有罪判決。
裁判長は判決理由で「(リョウが着ていた)セーターの首の部分が二重になっていて、全治2週間のけがにとどまったが、大変危険な行為だった」と指摘した。
事件のきっかけについては「(リョウが)殺害を示唆する発言を継続的にし、実際に自分や子供を殺されてしまうかもしれないと恐怖を感じたこと」だったとし、「(リョウの)落ち度もかなり大きい」と述べた。
だが、結論は「警察や周囲に相談していれば、事件は避けられた」というものだった。
理解されなかったサオリの訴え
判決から数日後、サオリと喫茶店で落ち合った。
悩んだ末に控訴することにしたという。
判決で特に引っかかったのは、「明白な脅迫行為を警察に相談することの妨げとなる問題はなかった」とみなされた点だった。
リョウの命を奪いかねない危険な行為をしたことは、深く反省している。
ただ「警察に相談できるならしていた。でも怖くてできなかった」という。
「そこが分かってもらえなかったのが残念で……」
サオリの言葉には無念さがにじんでいた。
そして「結局不倫じゃんと思われただけなんでしょうね」と小さく笑った。
サオリは12月の控訴審でも「ほかにどうすることもできなかった」と訴えたが、最後まで裁判官には理解してもらえなかった。
1審に続き、2審も有罪だった。リョウとサオリが支配・被支配の関係にあったことを認めつつも、警察に相談するのは難しかったという主張は退け、サオリの責任能力には問題がなかったと結論づけた。
「裁判って、こんなにモヤモヤするものとは思わなかった」
ぼうぜんとするサオリ。上告はせず、今年1月に有罪判決が確定した。
「怖いなら、LINEや電話を避ければよかったのではないか」
ある検察幹部が口にした感想も、趣旨は判決に近いものだった。
専門家は事件をどう受け止めたのか
サオリの行動に秘められた気持ちを理解するため、DV被害者のカウンセリングに長年携わる臨床心理士の福田由紀子さんに話を聞いた。
DV被害とは「最も信頼し、大切にしてもらいたい相手からの暴力だ」と強調する。それゆえに「自分を好きだと言ってくれる相手を信頼できなくなっている中で、ほかの誰を信頼できるのか」と、サオリの置かれた厳しい状況について説明した。
リョウと恋愛関係になったことを後悔し、「自ら招いたことだからと誰にも相談できず、自分で決着をつけなければと思い詰めたのではないか」と推測できるという。
福田さんによると、サオリのように、相手と一度も会うことなく恋仲になる男女は、スカイプの利用が広まった10年くらい前から増えているという。
コロナ禍以降は、ウェブ会議やオンライン飲み会が当たり前となった影響も大きい。その裏で、ビデオ通話をつなぎっぱなしにするよう強要され、私生活を監視される被害も報告されている。
「SNSの普及により、身体的暴力の有無で支配の強さを測れなくなっている」と福田さんは言う。
遅れる精神的DVに対する理解
政府は2月、DV防止法改正案を閣議決定した。
4度目となる今回の改正案では、被害者への接近などを禁じる「保護命令」の対象を、身体的DVだけでなく「精神的DV」にも拡大する。
内閣府のまとめでは、24時間態勢で対応している相談窓口事業では、相談内容の約6割が精神的DVを含んでいる。
DVやパワハラなどの問題に取り組んできた岡村晴美弁護士(愛知県弁護士会)は「DVの捉え方は時代とともに変わってきたが、学校でのいじめや職場でのパワハラと比べ、特に精神的DVに対する理解が進んでいない」と指摘する。
被害に遭っているさなかには、「相手から逃げられない」と考えがちだ。支配関係を「愛情」と勘違いするケースも多く、自分だけで解決するのが難しいのが実情という。
サオリは実際、リョウから暴言を浴びても、自分がDV被害者とは思っていなかった。
事件を振り返って「便利な時代になったけれど、一歩間違えたら大変なことになる」と痛感させられたという。判決に対する疑問は残るが、「事件前と変わらずに接してくれる家族や友人に感謝しながら、前向きに生きていきたい」と話している。
【毎日新聞中部報道センター 藤顕一郎】
※この記事は、毎日新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。
DVに対する国の主な相談窓口
・DV相談ナビ<内閣府>
・DV相談+(プラス)<内閣府>