家族は無事か。職場は、学校は、帰れる家やふるさとはあるのか。
何をなくし、何が残ったのか――。東日本大震災は、被災地に生きる人と人の間に目に見えない境界をつくった。
多感な世代は誰かを気遣い、自分も傷つかぬように、胸の内に言葉をしまい込んだ。
震災から11年。当時17歳だった女性は今、あの日の自分に伝えたい言葉を、同じように悩む子たちに語りかける。
「話したかったら、話していいんだよ」
4年半も荷物取りに行けず…
2011年3月11日の午後、福島県立富岡高校の2年生だった清水葉月さん(28)は、教室で授業を受けている最中に突然、強く長い揺れに襲われた。
震度6強。あまりの衝撃に立ち尽くし、窓の外を見ると、地面が波打ち、車が跳ね上がっていた。揺れが収まって校庭に出ると、雪が舞っていた。
自宅は福島県浪江町にあり、高校まではJR常磐線で20分ほどの距離だ。高校最寄り駅の「富岡駅が流された」と聞かされた以外ほとんど情報はなく、避難所となった高校の校舎で、クラスメートと身を寄せるようにして励まし合いながら過ごした。
夜中に母が4歳下の妹を伴って車で迎えに来てくれた。余震が続く暗闇の中、津波の被害を免れた自宅に戻った。自宅から約7キロ先には、東京電力福島第1原発がある。「世界一安全」と説明されていた原発はその時、極限の事態に直面していた。
浪江町、高校がある富岡町など原発周辺に、避難指示が発令される。高校に残してきた荷物を取りに戻ったのは約4年半後。浪江町に出された避難指示は、6年後の17年3月に「帰還困難区域」を除く区域で解除されるまで続くことになる。
避難先で感じた孤独
翌日3月12日の異様な光景を、今も鮮明に覚えている。
全身を防護服で覆った警察官が、パトカーで原発のある双葉町方面へ向かっていくのが見えた。家の中の換気をしようと窓を開けていた時、ドーンという地面を突き上げるような鈍い音が響いた。近くの橋が落ちたのかと思うほどの音だ。すると車で巡回していた地区住民が声を上げて呼びかけてきた。
「原発が爆発した、逃げて」。危険が間近に迫っていることを知った。
町内の避難所はどこもいっぱいだった。葉月さん母娘3人は車中泊し、13日に母の実家がある千葉県松戸市へ向かった。町職員の父は浪江に残り、母と妹、大学進学で上京していた兄と4人の生活が始まった。
「望んできたわけではないのに…」
市立松戸高校に編入することにしたが、編入試験が必要と知り「望んで来たわけではないのに」と戸惑った。手続きに訪れた市役所では庁舎に入る前に制止され、乗ってきた車の中で放射線測定器を向けられた。
「受け入れられていない」。そんな感覚が積み重なり、「自分は社会からはみ出した存在なんだ」という思いにさいなまれた。父が、娘の身を守る気遣いから言った「福島出身と言わない方がいい」という言葉も、葉月さんの口を重くした。
周囲は、徐々に平穏な日常を取り戻しているように見えた。裏腹に、テレビでは被災地の深刻な状況が伝えられ、行方の分からない家族を捜す人たちの姿に胸が痛んだ。町職員の父は最前線で住民避難や事故対応に当たっている。画面越しにその姿を捜した。ニュースが浪江の様子を伝え、居たたまれなくなっても、義務感に駆られるように見続けた。
家族で一緒にニュースを見ることがあっても「つらい、さみしい」「お父さん大丈夫かな」という言葉はのみこんだ。「みんな父や浪江のことが心配なのはわかっていた。口にしてもつらいだけだから、言えなかった」
「比較しないで」語り始めた記憶
当時、松戸高の英語教師だった榎本正文さん(62)は、葉月さんが何か言葉をのみ込み、悩みを抱えていると受け止めていた。災害の記憶についてはかたくなに口をつぐむ葉月さんに、周囲の生徒も「どう接したらいいか」と悩んでいることもわかっていた。11年6月、知人で心療内科医の桑山紀彦さんが千葉県内で講演すると聞き、葉月さんらを誘った。
桑山さんは宮城県名取市を拠点に、被災者の心のケアに当たっていた。葉月さんに「被災体験を話すことはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を防ぐことにもなる」と話した。「私も話していいんだ」。そう感じた葉月さんの目に涙があふれた。震災後、初めて流した涙だった。
その言葉に後押しされ、葉月さんはクラスメートに被災後の苦悩を話した。
「聞いちゃいけないと思ってた」「話してくれてありがとう」
みんなが気遣ってくれたのを知り、心が少し軽くなった。
葉月さんは「なんでこんな目に遭わなきゃいけないのか」という苦しみと、「自分は避難所にも行かず、被ばくリスクの低い安全なところへ逃げ出した。福島にはもっとつらい思いをしている人がいるのに私がつらいなんて言っていいのか」という思いの間で揺れていた。
榎本さんは「彼女は言葉にならない心境を話したいし、聞いてほしかったと思う」と振り返る。「他の人と比較しなくていいんだ」。そっと彼女の背中を押した。
傷に触れないことがいいことなのか
東京電力福島第1原発事故後の体験を語る清水葉月さん=仙台市太白区で2022年2月24日
同じように苦しむ人、悩む子供たちがいる。彼らや彼女らが自由に話せる雰囲気を作れないか。葉月さんにそんな思いが芽生えた。
横浜市内の大学に進学し、学内のボランティア活動で、福島の子供たちを保養キャンプに招いた。「福島での日常や震災について、話せる時間を作れないでしょうか」。打ち合わせで提案すると、職員から「せっかく保養に来ているのに、つらい話をさせるのは……」と反対された。
震災からまだ日の浅く敏感な時期で、職員は子供らを気遣ったのだろう。「あなたは強いから話せたのかもしれないけど、子供たちはそうじゃない」とも言われ、胸に刺さった。返す言葉が見つからなかった。
葉月さんはその時に感じた違和感について考え続けてきた。
「寄り添うって何だろう。傷に触れないようにしてあげる方が『寄り添う』ようにみえるけど、何もしないことじゃない。大切なのは相手の望むことを受け止めること」
大学を卒業した葉月さんは、17年から、石巻市の子どもセンター「らいつ」の職員になった。「らいつ」は震災で被災した子どもたちが企画・デザインし、子供たちの声で運営されている児童館だ。
「お姉ちゃんだから我慢しなきゃ」
「らいつ」の訪問者の一人、西城楓音(かざね)さん(19)。楓音さんも、あの日のことを話せずにいた。
楓音さんが震災に遭遇したのは小学2年の時。石巻市内の自宅は床上まで浸水した。幼稚園に通っていた妹春音さん(当時6歳)は津波と火災に巻き込まれ、亡くなった。
幼稚園を巡っては避難対応や救助の際の不手際が明らかになり、両親も原告に名を連ねた。幼い我が子を追憶するように、語り部活動にも取り組んだ。震災の傷痕と必死になって向き合う両親を見た楓音さんは、お姉ちゃんなんだから我慢しなきゃ、と自分に言い聞かせた。
その頃の心境について、楓音さんは「両親の前で泣くのが恥ずかしかった。本心を知られるのが嫌だったのかもしれない」と振り返る。
「話したいのに話したくない」
楓音さんが葉月さんに初めて会ったのは3年前。震災については「話したい」「話したくない」と言う気持ちが入り混じっていた。
それでも、葉月さんと日ごろの悩みを語り合う中で変わったという。「話したいけれど、自分でアクションを起こす気力はなくて、そんなときにやる気を引き出してくれたのがはーちゃん(葉月さん)。落ち込んでいても否定しないし、『そういうときもあるよね』と見守ってくれるのがうれしい」。今では葉月さんと一緒に、語り部として自らの経験を伝えるようになった。
葉月さんはその後「らいつ」を離れ、一般社団法人「スマートサプライビジョン」に加わった。支援者と支援を必要とする人たちをつなぐ団体で、支援物資の仲介のほか、被災地の語り部ガイドやオンラインでの学校防災講座も開く。
「語れるようになった若者の力に」
この団体には、児童・教職員84人が犠牲になった大川小(石巻市)で次女を亡くした佐藤敏郎さん(58)も所属している。葉月さんは佐藤さんのもと、若者が震災について語るのを後押しする。彼らをつなぐネットワークを作るのが目標で、「今だからこそ、あの日を語れるようになった若者たちの力になりたい」と思う。
「震災後に背負わされた荷物は、下ろすことはできなくても、その中身を知ることで心がちょっと軽くなる。そして大切なものになっていく」。そんな佐藤さんの言葉を、葉月さんは大事にしている。
避難指示が解除された17年春、浪江の自宅に祖父母と両親が戻った。葉月さんは石巻市のシェアハウスで生活をしている。ふるさと・浪江をどう受け止めているのだろうか。
被災と現在進行形で向き合って
大学生の頃に再会した友人とは、昔のように気兼ねなくは話せなかった。
福島の原発事故は現在進行形。避難を続ける被災者がいる。「私は福島の被災者じゃないんじゃないか」「福島の人にはつらいとは言えない」という思いもくすぶる。葉月さん自身、故郷の被災と現在進行形で向き合っている。
震災から11年、そしてこれから。語りたい時に語れる場所があり、受け止めてくれる人がいたら。葉月さんは、そんな場所を作りたいと思っている。
(毎日新聞石巻通信部・百武信幸)
※この記事は毎日新聞によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。