“被災者”演じる自分に嫌気 大川小で命をつないだ青年、故郷で照らす「おかえり」の光 #知り続ける
どこにでもありそうで、でもここにしかない小学校の風景が確かにあった。
「好きな人にあげたい」っていう友達と、中庭で一緒に四つ葉のクローバーを探したな。
休み時間になるとみんな一輪車にまたがって、でも実は自分はうまく乗れなくて。
桜の木の下にシートを敷いて「お花見給食」するのがずっと楽しみだった。
運動会は子どもより大人たちの方が張り切っていたっけ……。
宮城県石巻市の只野哲也さん(24)は、東日本大震災で被災した母校・大川小学校の校舎を見るたび、そんな日々を思い出す。
あの日の津波で、一緒に学校にいた妹と、母と祖父を失った。児童70人が死亡、4人が行方不明となった大川小は、「悲劇の象徴」と呼ばれた。
津波にのまれながらも助かった只野さんは、被災直後からメディアの前で思いを語り、校舎を震災遺構として残す活動でも中心を担った。
ただ、いつしか「求められる被災者像」を演じている自分に、嫌気がさしてしまった。大学を中退し、故郷に目を背けるようになった。
今年2月、そんな只野さんが、大川小のそばで埼玉から来た学生たちに語り掛けていた。
「みんなが安心して帰れる古里をもう一度つくりたい」
あの日の少年はいま、再び過去と向き合い、故郷に「おかえり」の光を灯そうとしている。
古里再生の夢
川を伝って風が強く吹き付ける2月半ば。只野さんは、大川出身の若者らでつくる「Team大川未来を拓(ひら)くネットワーク」の代表として、聖学院大(埼玉県)の学生たちに語りかけた。「目の前で家が砕け散り、『ここにいたら死ぬ』と思った」。津波にのまれたその場所で、自身の経験を落ち着いた声で振り返った。
2011年3月11日。事前に2次避難先を定めていなかった大川小の教師らは、避難を決断できぬまま約50分間校庭にとどまり、ようやく橋のたもとの方向へ移動を始めた直後、川からあふれた津波に襲われた。
当時5年生だった只野さんは列の先頭付近にいた。黒い津波が見え、引き返す途中で波にのまれたものの、山の斜面に打ち上げられ、九死に一生を得た。しかし学校にいた当時3年の妹、未捺(みな)さん(9歳)を始め、母しろえさん(41歳)、祖父、弘さん(67 歳)を失った。
つらいあの日の記憶と、懐かしいあの日までの記憶。只野さんは大川に足を運んでくれた学生たちに、どちらも伝えた上で、これから始める古里再生の計画「コミュニティーデザインプロジェクト」の夢を語った。
チームは昨年、津波で住宅が流された跡地、約3600平方メートルを市から10年間の契約で借りた。企画に共鳴した投資家から支援の申し出があり、コンテナハウス製造会社からコンテナハウス2基の提供も決まった。只野さんは学生らを現地に連れて行き、「新しい街の風景を一緒にイメージしてほしい」と呼びかけた。
津波が地域をばらばらに
大川小学校は11年時点で全校児童108人、1学年1学級の小さな学校だった。海、山、川の豊かな自然と田畑に囲まれ、海水と川の水が混じる汽水域からは大きなシジミがとれた。只野さんの祖父も腕のいいシジミ漁師だった。
住民は誰もが顔見知り。地域の子どもたちを「てっちゃん」「みなちゃん」などと名前で呼び、自分の子や孫のようにかわいがり、時には叱った。
そんな集落の風景を、暮らしを、子どもという未来を、津波は奪っていった。助かった住民の多くも移転を余儀なくされ、地域はバラバラになってしまった。
苦しみ抱えていた子供たち
あの日、襲った津波で我が子やきょうだいを失った大川小周辺の子供たちを長い間支え続けた人がいる。元教師でカウンセラーの佐藤秀明さん(67)と保育心理士の別所英恵さん(47)。悲嘆に暮れる親たちの声を聞くうちに、助かった子どもたちや、亡くなった子のきょうだいにケアが行き届いていないのが気になった。
保護者らの要望もあって、学習支援という形で子どもたちのサポートにあたった。地域の公民館や仮設住宅の集会所に集まった大川の子どもたちは震災当時の5、6年生や、妹弟が大川小で犠牲になった中学生たち。最年少が小学6年生になった只野さんだ。
大人たちが傷つき、混乱している中で、子どもたちは学校でも家庭でも胸の内を明かせず苦しみを抱えていた。それでも皆と同じように進路を決め、受験勉強をしなければならない。
放課後や休日に「遊ぶ、食べる、学ぶ」という子どもらしい時間を大切にしながら交流を深めるうちに、子供たちは次第に心を開くようになっていた。
「大川小を残したい」。少しずつ心の平穏を取り戻し始めた只野さんが、友達同士で語ったひと言を、佐藤さんは鮮明に覚えている。その言葉が、津波にのまれた校舎の保存に向けて大きな意味を持ち始めたからだ。
校舎保存に共感の輪
只野さんが東京で校舎保存を求める意見を表明すると、ともに学んでいた大川小の先輩たちも一緒に声を上げることを決意。現団体の前身となる「チーム大川」の誕生だった。卒業生6人が中心となって14年以降、仙台や東京で校舎保存を願う意見表明をするようになった。
当時はつらい記憶を呼び起こすとして、解体を望む地元住民も少なくなかった。15年3月には校舎保存を話し合う地元協議会で只野さんたちはそれぞれ「思い出の残る母校。未来に語り継ぐため残してほしい」などとと発表。共感の輪が広がり、石巻市長が翌16年に校舎保存を決める原動力となった。
市は被災校舎周辺を公園として整備し、震災遺構としての保存を進め、21年7月に公開を始めた。
「大川小の只野哲也」という虚像
大きな成果を成し遂げたチーム大川のメンバーはその後、進学や就職などそれぞれの道を歩み、活動は自然消滅した。
最年少だった只野さんも高校では柔道部主将を務めるなど多忙を極め、次第に大川との関わりは減っていった。いや、本当は自ら離れていったのだ。
現場で津波にのまれながらも助かった児童4人のうち、只野さんが唯一取材に応じたことで注目を一身に浴びてきた。「証言するのは、津波にのまれた瞬間を思い出して苦しい。でも亡くなった友達のためにも、二度と繰り返してほしくないから話すんだ」。只野さんを間近で見守ってきた別所さんは、そんな決意を聞いたことがあった。
くりくり頭に愛らしい笑顔から「てっちゃん」と親しまれ、いつしか「奇跡の少年」という言葉も独り歩きした。しかし成長するにつれ、その言葉が重くのしかかった。
「奇跡」の裏には「悲劇」がある。「あなたは選ばれた人」などと言われるたび、命を落とした人たちの人生が「悲劇」の一言で片付けられてしまう気がして、苦しかった。「自分は偶然助かっただけ」。好奇の目にさらされ、身近な人から「目立ちたがり」といわれるのもつらかった。
高校時代は柔道に打ち込むことで気が紛れたが、卒業を機に、張り詰めた糸が切れた。大学の工学部に進学すると、本当に学びたいことなのかわからなくなり、中退した。いつしか、進みたい未来も見えなくなっていた。
「大川ともう一度向き合いたい」
震災から10年を迎えた21年3月。久しぶりに再会した只野さんが漏らした「大川にいるのがつらい」という言葉に、佐藤さんは驚きを隠せなかった。
だがよく聴くと、嫌なのは大川ではなく、作られた「大川小の只野哲也」像なのだと分かった。メディアに囲まれ、「被災者像」を演じてしまう自分が嫌なのだと。
佐藤さんは周囲に気遣い過ぎて振り回されている哲也さんに「周りじゃなくて、自分の枠を広げよう」と呼びかけた。ただ、具体的にどうすべきかは言わず、耳を傾け、言葉を待った。
震災前の大好きだった大川。校舎を残そうと声を上げた時の情熱。そんなことを振り返るうちに、気づけば只野さん自身がこう話していた。「大川を抜きにして自分は前に進めない。もう一度向き合いたい」
再び集った仲間たち
新たな決意が芽生えた。進学や就職で首都圏に暮らすかつて「チーム大川」のメンバーだった先輩たちに次々と会い、語り合った。みんな自分たちが残した大川小のその後を気にしていた。
それだけではない。彼らはずっと只野さんのことも心配していた。大川を離れて見えたこと、今の仕事のこと、家族との関係性などを話してくれた。
そんな中、同級生で、保育士になることが決まっていた今野憲斗さん(24)は「自分も直前まであの場所にいた1人。取材をてっちゃん1人に背負わせてしまったけど、これからは支えたい」と副代表を引き受けてくれた。
只野さんとともに仮設の集会所で遊び、学んできた佐藤さんの三男、周作さん(26)は「笑顔の絶えない大川を取り戻そう」と仙台でのホテルマンの仕事と両立しながら広報を担当。アメリカに留学中の周作さんの兄、涼介さん(31)もオンラインなどを通じ、活動の助言者となってくれた。
新たな団体名「Team大川未来を拓くネットワーク」は、大川小校歌のタイトル「未来をひらく」にヒントを得て、仲間の輪を広げていく思いも込めた。結成表明は22年2月のことだ。
活動の基本理念に掲げたのは「未来のいのちを救う」「子どもの笑顔を守る」「みんなと向き合い心を育む」の3本柱。発足後からフェイスブックなどを通じ、地元・大川での語り部活動や、県外での講演など、多くの依頼が舞い込んだ。
心のよりどころを作りたい
「大川は自然の恵みとともに生きてきた。今は暮らしはなくなってしまったけど、空間はかろうじてある」。Team大川は震災・防災の発信にとどまらない活動を模索し始めた。
その一つは、団体を設立した22年夏に形となった。お盆の時期に企画した「おかえりプロジェクト」。地元を離れた若者たちが、帰省の折に大川小へふらっと立ち寄れる機会を作れたら、と考えた。
つながりのできた高知や広島の若者や、地元の幼稚園児に夢や願いを書いてもらい、360個の紙灯籠(とうろう)を作り、明かりをともした。
中庭に配置した灯籠の数は、あの日の在籍児童数と同じ108個。明かりでかたどった「おかえり」の言葉には、震災後を精いっぱい生きる若者も、亡くなった子どもたちも、みんな一緒に大川に帰って来られるように、との願いを込めた。かつて一緒に校舎保存を働きかけた仲間も大雨の中、駆けつけてくれた。
「子どもの笑い声が絶えない大川」に
ただ、まだまだ順風満帆とは言えない。4月には具体的な計画を発表する予定で、その後もスポンサー集めやクラウドファンディングなど、やるべきことが山積する。
協力してくれる弁護士、建築士からも「具体的に何をしたいのか」「まずはマスタープラン(基本計画)を」などと質問や意見が飛び、只野さんや周作さんは冷や汗をかきながら立案に奔走する日々を送る。
「大川小を残して良かったね、って地元の人が思える、若者たちが帰りたい居場所を作れたら」と語る周作さん。只野さんは「古里は何かって考えた時、思い浮かべるのは場所というより人であり、家族。自分にとって大川は一つの大きな家族」と力を込める。
学生らに大川小を案内して被災当時について話す只野哲也さんと佐藤周作さん=2024年2月19日
プロジェクトの形はまだおぼろげだが、子どもの笑い声が絶えず、周りで親やお年寄りたちが温かく見守る、かつて大川にあった原風景が再び動き出す未来を、彼らは想像している。
【毎日新聞・百武信幸】
※この記事は、毎日新聞による LINE NEWS向け「3.11企画」です。
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