104歳の中野清香(なかの・きよか)さんは「地獄」を知っている。約80年前、そこにいたからだ。
水たまりに頭を突っ込んで倒れている兵士がいた。まだ生きているのに、誰も助け起こさない。 蛆(うじ)がわく死体の隣で眠っても、死臭が気にならなくなっていた――。
「戦争が終わった時、喜怒哀楽の感情がすっかり抜けていた。今考えると、とても恐ろしい」
子犬の肉球まで食った
太平洋戦争で最も悲惨な戦場の1つといわれる東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)の戦い。日本に戻ることができた兵士は1割もいないとされる。
「食い物のことしか頭にない。敵の攻撃も恐ろしくなかった」
イナゴを捕まえて羽をむしり、そのまま食べた。10センチぐらいのトカゲを火の中に放り込んで口にいれた。山中でちょろちょろと歩いてきた子犬を殺し、足裏の肉球まで食らいついた。
降伏は許されず、突入して潔く死ぬよう玉砕命令が出た時、銃1丁につき弾は20~30発しか残っていなかった。
「一弾で敵一人を必ず倒せ、20メートルに近づくまで打つな」
そう命令された。
「無理ですよ。それまでにやられてしまう。一発撃てば(居場所が知られて)地形が変わるぐらい集中的に砲撃される。勝負にならない」
中野さんが心不全で3度目の入院から退院したと聞き、私(記者)は長崎県長与町の自宅に急行した。
座卓の上に手書きの地図とワープロ打ちした手記を用意して待っていてくれた。 痩せた手は震えているが、「話したい」という強い気迫が伝わってくる。
1918年(大正7年)生まれ。残された時間は限られている。
負傷兵に手投げ弾 「分かっとるな」
アメリカやオーストラリアなどの連合国軍は、ニューギニアのジャングルに逃げ込む日本兵を深追いしなかった。放っておいても餓死するだけだからだ。
空と海を支配した連合国軍は、輸送船を攻撃して日本軍の補給を断ち、食料や弾薬の集積地を空爆した。日本兵の死因の8割以上は戦闘で死んだのではなく、餓死や病死とされている。
中野さんが死の淵をのぞいたのは1944年2月。アメーバ赤痢に感染して40日間寝込んだ。激しい下痢に悩まされ、15分おきで便所に通う。
食べ物はのどを通らず、痩せていくばかり。10メートルほど離れた便所に行くのに、めまいがして2、3度立ち止まる。仕方なく便所の傍らに蚊帳をつり、横になっていた。
「部隊が出発して、置いていかれるのが一番怖かった。そうなれば病死する。餓死はもっと怖かった」
戦場での出来事を振り返る中野さん=長崎県の自宅で
やっと粥(かゆ)がすすれるようになったころ、部隊に出発命令が下った。
「運が良かった」
歩けない傷病者を置いていくだけでなく、撃ち殺す部隊もあった。
中野さんの部隊では、傷つき病に倒れた兵士に上官が手投げ弾を渡し、「分かっとるな」と繰りかえした。
自ら死ね――。そう促していた。
中野さんが机の上に身を乗り出し、戦没者名簿をめくり始める。死亡日時の一部や場所が「不明」と記載されている名前を見つけて、指をさす。
「こういう場合、大抵自決させられている」
「生きる希望を失った者たちの墓場」
中野さんの部隊の軍医、佐藤良助さんが「ニューギニアの思い出」という手記を残している。告発しているのが「人肉食」だ。
部隊は山中に移動したが、マラリアと栄養失調症で動けない兵士約120人の面倒を見るために、佐藤さんは付き添い兵60人と共に海岸部に残された。食べ物は数日で食い尽くし、薬もなく、数カ月たつと付き添い兵も動けなくなった。
別の部隊の離脱兵が、仲間の日本兵を撃ち殺して、食料や塩を奪うようになった。そして――。
手記にはこうある。
<はなはだしい者になると殺したのを見てのこのこやって来て、臀部(尻)や大腿部(ふともも)を切り取っていく徒がいる。道徳も秩序も全く無視された無法地帯であり、餓鬼道地獄である>
ある時、「野豚を捕ってきたので何かと交換しないか」と言ってきた兵士がいた。見ると脂肪が豚と違って黄色だ。
人肉だ。そう察知して追い返した。
<生きる希望を失った者たちの墓場である。亡者のたまり場である>
半年後、佐藤さんは本隊に合流。180人いた兵士はわずか8人になっていた。
「日本が負けて良かった」
「まったくあの戦争は……」
ニューギニア戦を振りかえる中野さんの言葉が、ふいに途切れた。
胸が詰まる。私の大叔父もニューギニアで死んでいる。大叔父は武器や食料を運ぶことを任務とする第20師団輜重兵第20連隊にいた。部隊の生還率はわずか6%だった。
中野さんは独立工兵第37連隊だ。敵の銃砲撃から身を守るための穴を掘り、橋を架ける工兵は、同じ「縁の下の力持ち」だ。
2人とも1943年春に北部ハンサに上陸し、北部の海岸から東南部の要所ラエまでジャングルや山を約300キロ切り開いて道路建設するという無謀な計画に投入された。
建設機材や食料を積んだ輸送船は沈没したため、一日一食で、スコップやツルハシといった原始的な道具しかなかった。結局、道路が完成する前にラエが陥落し、建設は中断された。
「飛行場を建設するのに、日本軍は2カ月間かかるが、米軍はブルドーザーで1週間。 話にならんわけです。作戦はすべて後手に終わってしもうて。食料もないし」
中野さんは続けた。
「責任はそりゃ、軍司令官、陸軍大将にあると思います。そして大本営(戦時に天皇に直属して置かれた最高機関)。戦争を許したマスコミ、国民も責任がある。今も時々、あの時に日本が 負けて良かったと思うことがある。もし勝っていたら、きっとまた戦争を始めていた……」
遺言で「忘れてはならない」
飢えた日本兵が農作物や家畜を奪うようになると、原住民の反発は強まり、日本兵殺しや連合国軍への密告が増えた。逆に日本兵による住民虐殺も起きた。
ニューギニアで通信兵だった山口県の吉賀清人(よしが・きよと)さんは、家族には戦争体験を何も話さないまま、4年前に98歳で亡くなった。しかし、遺言で「残して」と頼んだ物があった。手記と戦友らが書いた数冊の本だ。
青いマーカーがひいてある。
「200万人とも言われる若い人たちが徴兵されて異国の地に命を散らせました。その一人一人それぞれに、無念に泣いた家族・友人があり、さらに多くの日本の市民や、それとは比較にならない数のアジアの人々を泣かせたという事実は決して忘れてはならない」
消えていく兵士の「憤り」「無念」
意味のない戦闘や食いぶちを減らす目的の切り込み攻撃で死んでいく無念。無謀な作戦の駒の一つとして死ぬ憤り。将校と下級兵士で命の扱いは平等ではなく、沈没する戦艦から脱出する時ですら「等級順に退避せよ」と命じられた理不尽――。
「戦場体験放映保存の会」は約1800人から体験を聞き取った。手記や資料を譲り受けた人を含めれば3000人近くになる。田所智子事務局次長(56)は、一番たくさん聞いた話は、無念や憤りの気持ちを抱えて死んでいった戦友の最期だ、という。
「1人1人がどのように死んだか、その場面を具体的に思い浮かべることができれば、彼らが感じた無念や憤りの気持ちを共有できる。でも、社会から最初に消えていくのが戦友の死にざまです。生還者も、“勇敢な戦死”を信じる遺族の 気持ちに配慮して、ありのままには伝えなかった。数年前から戦場体験といえば特攻と原爆しか思い浮かばない日本人が出てきた」
戦場の記憶が失われたとき、日本人は再び戦争プロパガンダに吸い寄せられるのではないか――。不安になる。
ボタン一つで大陸間弾道ミサイル(ICBM)が飛ぶ時代になったとはいえ、ロシアによるウクライナ侵攻が起きてみれば、戦争の実態は驚くほど変わっていない。
「日本人の大半はウクライナ人に感情移入しますが、多くの元兵士が感情移入するのは、古い武器しか持たされず、知らない戦場に送られて死んでいくロシア兵です。『身につまされる。命令されたら行かざるをえないのだろう』と」
「戦争で得るものは何もない」
「戦争だけはなくしてほしい。戦争で得る物は何もない。でも敵が攻めてきたら逃げたらいかん」。中野さんは力を込める。
太平洋戦争(1941~45年)では民間人を含めて310万人が国内外で死んだ。軍務を解かれ、帰郷した兵士は311万人。誰もが「戦争」を身近に感じていた戦後の日本。だが、遺族意識を持つ人も、戦争を体験した兵士も、もうすぐこの世からいなくなる。
静かな居間で向き合った中野さんに、取材の最後に尋ねた。数少ない元日本兵として、一番言い残したいことは何ですか、と。
「検証していない」
口にしたのは、戦後に発足した戦争調査会の頓挫だった。
1945年秋、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)首相は、開戦や敗戦の原因、戦争の実態を、徹底的に調査して、結果を国民に公開すると決めた。どこで間違えたのかを突き止め、反省するためだ。政治や軍事だけでなく、経済や思想、文化といった分野でも聞き取り調査が始まった。
だが、戦争の原因追求やそれを裁くことは日本政府のやることではない、と考える GHQ(連合国軍総司令部)の諮問機関によって、戦争調査会の調査はわずか1年で中止させられた。そして日本政府はその後、反省する機会を持とうとしなかった。
「あの戦争のどこが間違っていたのか、検証していない」
中野さんの眼が眼鏡の下で鋭く光る。
104歳は怒っていた。
(毎日新聞デジタル報道グループ・國枝すみれ)
※この記事は、毎日新聞による LINE NEWS向け特別企画です。