暴走した車が、何の罪もない母子の命を奪った。
「車の不具合」と無罪を主張する運転手に対し、ネット交流サービス(SNS)では激しいバッシングが巻き起こった。
怒りや憎しみ、あるいは正義感に任せたその投稿が、結果的に加害者の刑を軽くしてしまったら、どうだろう。
これは、加害者が「上級国民」と批判された池袋暴走事故で実際に起きたことだ。
ネットリンチで情状酌量、2年軽く…
「被告人を禁錮5年に処する」。9月2日、東京地裁104号法廷。飯塚幸三被告(90)=呼称は当時=への実刑判決が言い渡された。
検察側の求刑は自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の上限となる「禁錮7年」で、2年の減軽が認められた形だ。
量刑の理由として挙げられたのは、SNSなどでの誹謗(ひぼう)中傷だった。
裁判で弁護側は、ツイッターなどソーシャルメディアにおける投稿について「デジタル空間上に残り続ける。(被告は)苛烈な社会的制裁を加えられた」と訴えていた。
判決はこのことに触れた上で、「被告が厳しい社会的非難を受けること自体はやむを得ない面もあると考えられるが、過度の社会的制裁が加えられている点は、被告に有利に考慮すべき事情の一つといえる」と認定した。
SNSの中傷が情状酌量として認められることは異例のことだった。
判決後、事故から今日までを振り返る松永さん。「死んだほうが…」とまで考えたという=2021年9月2日
「遺族は望んでいない」
判決直後、事故で妻子を失った松永拓也さん(35)は記者会見で「2人の命が戻らないというむなしさはありますが、前を向いて生きていくきっかけにはなり得ます」などと話した。
その3日後、改めて判決への感想を述べた。
松永さんら交通事故の被害者遺族と大学生ら約50人が参加して開かれた交通事故撲滅について考えるオンラインイベント「天羽(あまね)プロジェクト」でのことだった。
ある男子学生がこう質問した。
「第三者の人がネットで被告をすごく感情的に攻撃し、ネットリンチ、私刑の状況になっているのをどう見ていますか」
松永さんは率直に答えた。
「『社会的制裁』を理由に執行猶予付き判決になることもありますが、そうなることを遺族は望んでいません。今回は実刑判決でしたが、(求刑よりも減軽されて)かなり残念でした」
「荒唐無稽な主張に絶望」
松永さんがそう感じるのも無理はないだろう。
事故から1年。事故発生時刻の12時23分に、手を合わせる松永さん。涙が止まらなかった=2020年4月19日
妻真菜さん(当時31歳)と長女莉子ちゃん(同3歳)は2019年4月19日、飯塚受刑者の運転する車にはねられて亡くなった。
制限速度は時速50キロだったが、約96キロのスピードが出ていた。
車の装置にブレーキが踏み込まれた記録は残っていないものの、飯塚受刑者は裁判で「アクセルを踏んでいないのに、エンジンが高速で回転して加速した」「アクセルペダルが(運転席の)床に張り付いているのが見えた」との主張を繰り返した。
松永さんは「荒唐無稽(むけい)な主張をされ続け、絶望した」と吐露した。
臆測と過剰なバッシング
同時に、飯塚受刑者に対しては度を越したとも言える中傷が続いた。
事故でけがをしたなどの理由で逮捕されなかったが、このことは世間の大きな反発を呼んだ。旧通産省工業技術院の元院長という「高級官僚」だったために優遇されたのではという臆測が噴出した。
ツイッター上には批判の書き込みがあふれ、今も「上級国民爺(じい)さんは消えろ」「お前が普通に飯食ってるって考えるだけで吐き気がする」「今年の流行語大賞は『飯塚幸三氏ね』です」といった中傷が飛び交う。
ユーチューブにも、飯塚受刑者の自宅近くで「人の命を奪って何をやっているんだ」などと男性が大声で叫ぶ動画が投稿された。
犯罪加害者家族の支援団体の代表は「中傷はひどく、誤った情報も拡散し続けています。SNSの利用が広がった時代の新しい問題と感じました」と話す。
「社会的制裁を受けた」主張
一連のバッシングと今回の判決をどう考えたらいいのか。
ネット上の中傷問題に詳しい藤吉修崇(のぶたか)弁護士はこう解説する。
「被告がSNSで中傷を受けた場合、多くの弁護人は『社会的制裁を受けた』と主張します。どの程度、量刑で考慮されたのかが明確になることはありませんが、今回の判決のように、弁護側が主張するSNS上の中傷について詳細に触れた上で社会的制裁を認定するのは珍しいのではないでしょうか」
茨城県の常磐自動車道であおり運転をしたなどとして有罪判決を受けた男性被告らも、SNS上での激しい中傷で社会的制裁を受けたと弁護人は主張した。
「気持ちよくなる」投稿
藤吉弁護士は、加害者への中傷が集中する理由について、コロナ禍でマスクをしない人を責める「マスク警察」を引き合いに出す。
「間違ったことをしている人、価値観の違うことをした人に制裁を加えたいという人間の心理です。共通の敵をつくって、SNSに投稿すると、すぐに多くの人が称賛してくれるから気持ちよくなってしまうのです」
こうした書き込みで幸せになるのは「気持ちよくなる」投稿者だけだ。加害者はもちろん、投稿者が味方になったつもりの被害者側さえ不幸にしてしまう。これはSNSが招いた弊害と言えるのではないか。
事故前年の2018年、「父の日」を前に莉子ちゃんから似顔絵を送られた松永さん。真菜さんが撮影した動画には、何度も莉子ちゃんを抱きしめる様子が映っている
SNSで共感呼び「救われた」
一方、松永さんが進める事故撲滅のための活動を後押ししたのもSNSだった。
事故から3カ月後の19年7月、厳罰を求める署名活動を始めるため、松永さんはブログを開設。約2カ月で集まった39万1136筆の署名を東京地検に提出した。
11月には、事故後に加わった一般社団法人「関東交通犯罪遺族の会(あいの会)」のメンバーと一緒に、高齢ドライバーの事故対策などに関する要望書を赤羽一嘉・国土交通相(当時)に直接手渡した。SNSなどで共感を呼んだことがこれらの活動の大きな原動力になった。
松永さんは19年9月にフェイスブック、20年1月にはツイッターも開始。ブログやSNSについて「事故の現実や遺族の思いを広く伝えられるツール」と高く評価する。
会ったこともない人から「自分自身が交通事故や被害者支援について考えるきっかけになりました」などとSNS上で反応が届くことも増えていった。
「自分の思いが届いていると感じられるのが一番うれしかった。SNSの言葉一つで救われました」
「悲劇のヒーロー気取りか」
しかし、発信を続ける中で弊害も出てきている。松永さん自身もSNS上などで中傷されることが多くなってきたのだ。
事故を起こした車両に不具合があるのにそれを説明しないのはおかしい――。事実ではないにもかかわらず、こういう趣旨のメッセージが寄せられるようになった。
やめるよう求めても、同じ内容のメッセージを送られ続けるケースもあったという。
「悲劇のヒーロー気取りか」「うざい」という批判はしょっちゅうだ。
ユーチューブで「騒ぎすぎだ。殺すぞ」という音声が流れる動画が投稿され、警視庁に相談して周辺の警戒が強化されたこともあった。
亡くなった妻子にまで中傷が
「あいの会」にも、メンバーの松永さんに対する中傷のメールや電話があるという。
代表理事の小沢樹里さん(41)は「自分の不満や不安のはけ口として、注目を浴びている人がターゲットになっている」と指摘する。
松永さんは「発信を続ける以上、中傷を受ける覚悟はしていました」と腹をくくっていた。
ただ、「事故に遭ったのは前世で悪いことをしたからだ」などという真菜さんや莉子ちゃんに対する暴言は「本当につらい」と言う。
政府は侮辱罪を厳罰化する方針だが、「現状の法律では死者に対しては侮辱罪も名誉毀損(きそん)罪も適用されない。ただただ悔しい」と松永さんはこぼす。
SNSによる中傷をめぐっては、プロレスラーの木村花さんが亡くなったことなどを受け、国が対策を検討。今年4月には匿名の投稿者を特定しやすくする改正プロバイダー責任制限法が成立したが、どこまで効果があるかは未知数だ。
中傷の連鎖の先に
SNSは松永さんの活動を後押しする一方、加害者への過剰な誹謗中傷が情状酌量に結びついた。そして今、松永さんは自身へのネット中傷に頭を悩ませている。
松永さんは「中傷は絶対にしてはいけないこと」としつつ、飯塚受刑者に中傷を続ける人たちについて「人間ですから、怒りを持ったりすることを否定するつもりはありません」と批判はしない。
ただ、こうも続ける。「反省の態度を示さない加害者も悪いと思いますが、個人を必要以上に攻撃し続けることは本質からずれてしまうと思います」
松永さんの言う「本質」とは「社会全体で事故を防ぐにはどうすればいいのか考えること」だ。
「こういう事故が二度と起きないように」。判決後、今後について話す松永さん=2021年9月21日
松永さんらの活動はSNSなどを通じて世論を動かし、国の制度改正を後押しした。
20年に道路交通法が改正され、22年には75歳以上を対象に、一定の違反歴がある場合は免許更新時の「実車試験」(運転技能検査)が義務化される。また、自動ブレーキなどを搭載した車だけを運転できる限定条件付き免許も導入される見込みだ。
「2人の命を無駄にしたくない」
これからもSNSでの中傷が続くと、「本質」を見失ってしまうとの強い危機感が松永さんにはある。
「人間だから、中傷を受けるのは怖いです。でも、2人の命を無駄にしたくない。その思いでこれからも活動を続けていきます」
【取材執筆:社会部・柿崎誠】
※この記事は、毎日新聞によるLINE NEWS向け「2021年振り返り特集」です。