お気に入りの靴やスカートを思い切って捨てた。もう、おしゃれを楽しむことはないのだから。
45歳だった8年前。公立高校の教員だった高木庸子さん=京都市上京区=は、左足の指に違和感に覚え、病院を受診した。そこで医師に告げられたのは、あまりにも厳しい現実だった。
「左足の膝から下を切断するのは避けられないでしょう」
診断名はがんの一種である骨肉腫(悪性軟部肉腫)だった。
左足を失った後の暮らしを想像できなかった高木さん。こだわりを持っていたファッションへの興味を失い、失意に沈む日々が続いた。
インターネットに公開した手記で、当時の思いをこうつづっている。
「もう教壇には立てないかもしれない。何もかもが指の間からこぼれ落ちていく感じでした」
そんなある日、頭にふと浮かんだのは、自らが生徒に言い聞かせていた言葉だった。
「行けるところではなく、行きたいところへ行こう」
自分が人生をあきらめたら、生徒たちに顔向けできない。前を向いた高木さんは、手術後の義足でのリハビリを精力的にこなし、高級ブランド「ルイ・ヴィトン」で気に入ったサンダルを買った。
「人生において切断は衝撃的です。もう元の自分じゃないと感じてしまう。でも下肢義足は、自分でできることがほとんど残っています。自分らしい人生まであきらめる必要はどこにもありません」
「たった足1本。私の人生はそれよりずっと重いのです」
立ち直った高木さんは、自分だけでなく、同じ境遇にある女性たちの生き方を変えるアクションを起こしていく。
「せっかく義足なんやし!」
義足になった高木さんは、自分と同じ女性の義足ユーザーに出会う機会を探った。些細なことを尋ねたり、経験や悩みをおしゃべりしたりしたいという思いからだった。
しかし、当事者団体をいくら探しても、多くがスポーツ関係で男性が中心。求めるコミュニティーは見つからなかった。
高木さんの義足を製作した川村義肢(大阪府大東市)の福祉用具専門相談員、野間麻子さん(53)は、彼女と初めて会ったときの言葉が忘れられないという。
「せっかく義足になったんやし、何かやろうと思って」
野間さんが知る女性の義足ユーザーの中には、体の一部を失うことで、自分らしさも、女性としてのアイデンティティーも失ったように感じる人が少なくなかった。喪失感から外出を控える人もいた。
実際、川村義肢は義足ユーザーが運動やランチを楽しむイベントを定期的に開いていたが、参加者はほぼ男性だった。
「それまで、私たち社員は義足ユーザーを男女の視点で考えることがなかった。でも高木さんに『女性は何で来ないの』『どこに行ったら会えるの』と聞かれ、はっとさせられた」
「彼女ね、堂々と言うんですよ。『私が義足の女性に会いたいんやから、みんなもきっと会いたいはずやわ』って」
ハイヒール・フラミンゴ誕生
高木さんの発案をもとに、2018年6月、川村義肢で初めて「義足女子会」が開かれた。
参加者は、女性の義足ユーザー4人とその家族、野間さんら川村義肢の女性社員。部屋は生花や紙テープで飾られ、テーブルにはサラダやパン、焼き菓子がかわいらしく並んだ。
特別なプログラムはなく、ただおしゃべりと食事を楽しんだ。高木さんは自慢のルイ・ヴィトンのサンダルを披露した。
義足ユーザーの女性の中には、抱えていた生活の悩みや将来への不安を吐き出し、泣き出す人もいた。安心して自分をさらけ出せる場がそこにあった。
女性の義足ユーザーが集まる「ハイヒール・フラミンゴ」が生まれた瞬間だった。
高木さんは仲間についてこうつづっている。
「私たちは、多くの人に支えられている幸せを、たぶん(ほかの)人よりも強く感じることができると思っています。それでも、埋められない隙間のようなものが心の隅にあるのです。それは『共感』です」
「慰めや励ましとは少し違う、ただ同じ思いを感じるということ。それが、私たちが欲しかったものかもしれません」
「同じ思いをしている人は必ずいるはずです。今、孤独とあきらめの中にいる人に少しでも何かを届けられるかもしれない。つながりが見えれば、きっと前に進めます」
着物に草履姿で京都観光。ハイヒールの試着会。義足にカラフルなチップを貼り付けてフットネイル。海水浴。畳の上を裸足で過ごす。
義足になってから敬遠していたことも、みんなと一緒だからできた。「フラミンゴ・カフェ」と題した月1回の例会を通じ、女性たちの活動の幅はぐんと広がった。
人に義足だと知られたくない、遠出するのがおっくう。そんな風に自分の殻にこもっていた女性たちの心も、少しずつ、少しずつほぐれていった。
迫り来る別れ
ハイヒール・フラミンゴのロゴマークに使われているイラストは、知人を介して交流があった動物写真家の渡壁大さんが、ケニアのボゴリア湖で撮影した写真をモチーフにしていた。
そんな渡壁さんがケニアへ9日間の撮影ツアーに向かうことが決まり、メンバーに同行の誘いがあった。ここでもすぐに乗り気だったのは高木さん。
「行きたい!みんなも一緒に行くやろ?」
しかし、すでに高木さんの体は病魔にむしばまれていた。足を切断する原因になったがんは、リンパ節に転移していた。
命の時間の短さを自覚し、親しい人にだけは「時間がないから(自分の行動を)止めないで欲しい」と伝えていたという。
いつもと同じようにフラミンゴ・カフェに参加し、時にはメディアの取材対応もこなす日々。医師からは「治療のすべがない」と告げられていたが、杖を突き、車いすに乗ってでも出掛けた。
ついに入院生活が始まった時の高木さんの姿を、野間さんは今も思い出す。
「『私はこの世に何も残していけないけれど、ハイヒール・フラミンゴのみんなが笑顔になって、どんどんきれいになっていく姿を残せた』ってまわりに話していた」
「私には『医者があかんというからケニアには行けへんかも。その時は骨をまいてきて』と言ってきて。『何言ってるん』と笑い飛ばしたの」
「高木さん、本当に行きたそうだった。毎日のように病院のベッドの上で、ケニアの動物たちの動画を見ているんだってこぼしていた」
その言葉が、現実になってしまう。ケニアツアーまであと1カ月に迫った2020年1月26日、高木さんは亡くなった。51歳だった。
ケニアの空に羽ばたく
高木さんが亡くなってから1カ月後。
野間さんらハイヒール・フラミンゴの5人と、ルイ・ヴィトンのサンダルを履いた高木さんの義足は、ケニアの大地を踏みしめていた。
メンバーがボゴリア湖の淵に立って高木さんの骨をまくと、たくさんのフラミンゴが大空へと羽ばたいていった。吹き抜ける風の中、野間さんは一筋の光が湖面を照らすのを見た。
「なんだか高木さんも空を自由に羽ばたいている気がした。みんなで大泣きして。さみしいけれど、ここに来れてよかった、たくさんの感謝で胸がいっぱいになった」
フラミンゴは飛び続ける
2020年3月、ハイヒール・フラミンゴはNPO法人として歩み始めた。設立の準備には高木さんも長く携わり、法人化のめどがたった際には「これでもう大丈夫」と言い残していたという。
新型コロナウイルスの蔓延で、フラミンゴ・カフェは長くオンラインでの会合が続いた。対面できない代わりにメンバーは全国に広がり、関東圏や新潟、福岡から参加する人も現れた。12人で始めた活動は、今や80人に発展している。
今年9月4日、ハイヒール・フラミンゴのメンバーは、大阪市の花博記念公園鶴見緑地にいた。3年ぶりにイベント形式で開かれるカフェだった。
この日は、義足のメンバーが散策を楽しめるよう、立ったまま乗れる電動車「つるモビ」をレンタルした。
「義足になってから忘れていた疾走感」
「これなら健常者の友人ときても、疲れないし気を遣わないかも」
最初は恐る恐る操作していたメンバーも、徐々に慣れてすいすい移動。高木さんから受け継いだ挑戦を楽しむ気持ちが、充実感をもたらしていた。
「義足になる前より強く」
高木さんは生前、ハイヒール・フラミンゴの名前の由来についてこう語っていた。
「自分らしく生きる女性の象徴のハイヒール、そして片足で凛と立つフラミンゴ。つながりながら力強く、そしてしなやかに。そんな『なんだか楽しそうな』明日が今、私たちには見えています」
「足は失いました。でも、比べることができないくらい多くのものを私は手に入れました。きっと義足になる前よりずっとずっと強くなっているはずです」
高木さんを直接知らないメンバーが半数近くになった今も、彼女の思いは生き続け、つながっている。
【取材・文=今野麦(京都新聞社滋賀本社)、写真編集=松村和彦(京都新聞社写真部)、動画編集=梶田茂樹(京都新聞社クロス報道センター)】
※この記事は、京都新聞社によるLINE NEWS向け特別企画です。