最初は小さな異変だった。
鮮魚店で働いていた下坂厚さん(50)=京都市北区=は、5年前のある日、売り物のエビが何尾なのか数えられなくなっていることに気が付いた。
1、2、3と頭の中で順に割り振った数字がすぐに消え、5ぐらいでいくつまで数えたのか分からなくなってしまう。
数がわからなくなる様子の再現。頭の中で割り当てた数字がすぐに消え、5の次にどれを何番目と数えるのかわからなくなる。声は厚さんに吹き込んでもらった
異変はそれで終わらず、次第に積み重なった。
通勤の道を間違えた。
同僚の名前が出てこなくなった。
不安に駆られ、「もの忘れ外来」があるクリニックを受診すると、大きな病院での診察を勧められた。
診断は「若年性アルツハイマー型認知症」だった。
働き盛りの46歳で訪れた、突然の暗転だった。
「人生が終わった」「死んだ方がましだ」
そんな考えが何度も頭をよぎった。
それから5年――。
症状は今も少しずつ進行している。
にもかかわらず、厚さんはこう言い切る。
「診断前に戻りたいとは思わない。幸せです」
かつては認知症の世界を「白黒写真のよう」と感じていた。
でも今は、日々の暮らしが色と光に満たされているのを感じる。
厚さんは、どうやって絶望から抜け出し、「幸福」へとたどり着いたのだろう。
「なんでこんなことになるんや」
厚さんが若年性アルツハイマー型認知症と診断されたのは、人生これからというタイミングだった。
大手鮮魚店に長年勤めた経験を生かし、仲間と店を立ち上げたばかり。同僚は一緒に仕事を続けようと言ってくれた。だが、朝早くから夜遅くまで忙しい仕事であることは身をもって知っていた。
「自分のミスで遅らせたくない。迷惑を掛けたくない」
そう思い、すぐに退職を決めた。
「仕事ができなくなるのを仲間に見られたくない」
そんな思いも強かった。
仕事を辞めると自らの居場所はなくなった。何をするのも嫌になり、誰とも会いたくなかった。
家庭においては、妻の佳子さん(59)と前夫との間に生まれた2人の子どもが独立し、一緒に第二の人生を歩もうとしていた時だった。夫婦だけの暮らしが始まったばかりだったが、家にいたら妻を不安にさせると思い、行く当てもなく、京都の山あいをバイクで走った。
一人でいると不安が次々に押し寄せてくる。
「収入が途絶え、来月からどう食べていくのか」
日々の生活費に加え、住宅ローンの返済を考えると心が重くなった。
「死んだら保険金で返済できる」
自死が頭をよぎった。
思い悩んでいたのは、妻の佳子さんも同じだった。
厚さんに認知症を告げられた時は「どうして?」と頭が真っ白になり、ショックに打ちのめされた。
診断が出てからしばらくたっても、認知症のことは話題に出せなかった。
「本人の痛みは本人にしか分からない。どんな言葉を掛けたらいいか分からなかった」
家で一人になると、声を出して泣いた。
「なんでこんなことになるんや」
夜、寝るときには真っ暗な部屋で厚さんに気付かれないように枕を濡らした。
「私のことを忘れるんかな」と思うと耐えられなかった。大きな悲しみが押し寄せ、瞳から涙となってあふれ出した。
「同じもの作ってもばれへん」
2人の生活には、さまざまな試練が訪れた。
アルツハイマー型認知症は、記憶、時間や場所を把握する見当識、判断などの機能が徐々に低下する。
記憶はごく最近のことを忘れやすい。
厚さんは、食べた直後に何を食べたのかがすっぽりと抜け落ちることがある。
夕食を思い出せない様子の再現。食べた物が出てきそうで出てこない
佳子さんは「毎日同じもの作ってもばれへんな」と厚さんに冗談を言って笑ったが、ノートには「何を作っても記憶に残らない…悲しいな」と書いた。
時間の感覚を失い、朝だと思って夜中に起きてしまうこともある。
朝か、昼か、夜か、分からなくなったときは、窓の外の明るさを確認する。
厚さんは、さまざまな症状によって自分が不確かになっていく不安に何度も引き込まれそうになった。
「自分が失われていくように感じていました」と振り返る。
新たな居場所で知った「大切なこと」
一方で、「認知症になったら終わり」という考えは間違っていたことが徐々に分かってきた。
診断から2カ月後、認知症の人を支援する福祉職が家を訪れ、デイサービスでのボランティアを提案した。
「こっちが困っているのに、なんで人助けせなあかんねん。放っておいてほしい」
厚さんはそう感じたが、声をかけてもらった手前、渋々だがデイサービスを訪れることを決めた。
訪問するとボランティアではなく、アルバイトで高齢者をケアする仕事を提案された。介護職は初めてで、最初は利用者のお年寄りとコミュニケーションもうまく取れず、会話も続かなかった。
しかし、日々を一緒に過ごすうちに「人と人として打ち解けていった」と厚さんは話す。
新たな職場に通って仕事を覚えられるか不安だったが、メモをこまめに取ったり、通勤で迷った時にはスマートフォンの地図アプリを使ったりするなど症状に対応することができた。
新たな居場所を得たことで、厚さんはどんどん前向きになった。社会とつながりを持つことはとても大切だった。
認知症になる前は「仕事人間」で、お金を稼ぐことが人生の優先事項だった。そんな厚さんの価値観を大きく変える出来事もデイサービスで起こった。
会話が難しい認知症の人に手を重ねると、優しく握り返してくれた。手のひらを通じて伝わってくる温もりは、人にとって、社会にとって、何が大事なのかを教えてくれているように感じた。
「社会では考えることが大切にされる。でも、感じることが一番大事だと教えられているような気がした。みんなの価値観が変われば、認知症になっても生き生きと暮らせる社会になると思います」
あなたはあなた
若いころ真剣に取り組んでいた写真を再開した。2年前にデイサービスを退職し、現在は認知症の本人として、写真家として、講演や写真展を通じて認知症について伝える活動に力を入れている。
理由は、自身が診断直後に直面した体験にある。
「人生が終わった」と思ったのは、インターネットで悪いイメージの情報ばかりに出合ったからだった。
その後の5年間で楽しく生き生きと暮らす認知症の人と知り合うにつれ、前向きに生きられるようになった。
認知症のイメージを明るくしたいと思っている。
若年性認知症の本人が集う会の運営にも関わっている。
自身も診断直後に心の支援が必要だった。悩みや望みを話したり、一緒に出かけたり、仲間として支え合うのはもちろん、社会への働きかけにも積極的に取り組む。
3月に京都市が発行した若年性認知症の人向けの冊子の制作にも携わり、「生活の不便さはありますが、あなたがあなたであることに変わりありません」とメッセージを載せた。
認知症は、脳の機能低下だけが症状を引き起こすわけではなく、心情や周囲の環境も深く関わっている。
症状や不安が周囲の人に理解され、考えや気持ちが尊重されれば、充実した暮らしを続けられ、進行も緩やかになる。
佳子さんも、道に迷ったり、バスに乗り間違えたりする厚さんのことが心配になることがあるが、厚さんが自分で好きな活動ができるように尊重し、見守っている。
日本では2025年に471万人が認知症になると予測されており、厚さんのように65歳未満で発症する若年性認知症もある。誰もが自分や身近な人が認知症になる時代を迎えている。
厚さんは「今まで認知症は医療や福祉の観点で語られ、症状や支援が話題の中心で、認知症の人は『患者』と捉えられてきた。これから芸術や文化、教育の現場、地域などでみんなが気軽に語り合えるようになれば、知らない認知症観が見えてくるはず」との願いを語った。
厚さんの不安との向き合い方
厚さんの症状は、ゆっくりとではあるが進行している。不確かさも増している。
でも、「失うのではなく、戻るのだと思うようになりました」と話す。
赤ちゃんのときは歩けなかった人が、大きくなるにつれて歩けるようになり、やがて年を取ると再び歩けなくなる。それと同じではないか。
そう考えると、死への不安は薄らいだ。
厚さんは認知症になったことで、穏やかで自分らしくいられる場所を見つけたという。
子どもの時に好きだった星空を再び見上げるようになった。
小さな畑も始めた。
土を耕し、種を植えて、芽が出て、大きくなって、実ができて、採って、家に帰る。
佳子さんと「おいしいね」と話しながら食べる。
星も野菜も、そして人も。その一生に始まりと終わりがある。
「だからこそどう生きるか考えています」
昨年の秋、佳子さんに大腸がんが見つかった。
初期だったが、腸の一部を切除する手術を受けた。命に関わる病気になり、佳子さんもまた、かつての厚さんのように何度も心が不安に覆い尽くされそうになった。
ある日、佳子さんは厚さんに「どうやって不安と向き合っているの」と尋ねた。厚さんの答えはこうだった。
「孫が成人したときを想像して毎日生きている。不安に引き込まれそうな時はある。元気でいて孫の結婚式に写真を撮ったるでと強く思うことで引き戻される」
佳子さんは「夫も不安を抱えている。言葉に重みがあった」と言う。
ファインダーの向こうに
4月。桜が満開を迎えた京都の鴨川に、下坂さん家族の姿があった。
厚さん、佳子さん、佳子さんの娘とその2人の息子。5人は春の陽光に包まれた日曜日を一緒に過ごした。
厚さんは孫たちに水面に石を跳ねさせる投げ方を手本を示しながら教えた。孫たちは「じいじがんばれ」「僕もやってみたい」と大喜び。
それから、きれいな石を一緒に集めて、河原に並べた。
厚さんも、子どもの頃から石が好きだった。
認知症になってから改めて、河原や浜辺に落ちている小さな石に目が行くようになった。
時折、首に下げたカメラで家族を撮った。
いとおしい笑顔を閉じ込めるために。
そして、未来もみんなの笑顔が続きますようにと願いを込めて。
編集後記
ー写真で表現した認知症の世界ー
厚さんは、SNSで写真と言葉を使って認知症について発信している。写真記者の筆者は、そんな厚さんに認知症の世界を一緒に視覚化することを提案し、2020年から症状や心情、考えを聞き取り、写真で表現している。
以前は認知症の世界を白黒写真で描出していた。厚さんが認知症の影響で時間や場所が分からなくなり、世界の営みから取り残されたように感じた時「周囲が白黒になる」と言ったことに基づいている。しかし、徐々に厚さんから聞くお話は、カラー写真がふさわしくなっていった。年月を重ね、考え続ける厚さんを尊敬している。
厚さんは「写真は自分そのもの。写真には光があって影がある。正反対のものを一対にして成立している。生と死と同じです」と言う。
この記事は、京都新聞社によるLINE NEWS向け特別企画です。
(写真・文 / 松村和彦)
寄付先
厚さんも活動に参加している「公益社団法人・認知症の人と家族の会」は毎月、500円から継続的に寄付するマンスリーサポーターを募っている。