2011年の春、高校生だった私は、その新聞を読んで強い衝撃を覚えた。
「相馬高新聞」。
東日本大震災で津波に襲われた福島県相馬市の高校生たちが、被災後1カ月余りで出した学校新聞だ。
紙面は、関西の高校の新聞部員だった私たちの心をも揺さぶり、仲間を現地取材に駆り立てた。それを機にできた学校新聞の連載「福島をつなぐ」は、今も代々の部員によって大切に引き継がれている。
高校生記者たちは被災地で何を考え、胸に刻んだのか。
10年の歩みをたどった。
(京都新聞社・天草愛理)
自分たちも何かしないと
「あの日から38日 きょうから学校再開」「ふるさとが壊されていく」
大きな見出しに続き、がれきになった家や高台に打ち上がった漁船の写真、学校行事の見通しに触れた記事が目に飛び込んできた。
京都新聞社の記者である私は当時、滋賀県彦根市にある彦根東高校の新聞部員だった。顧問に手渡された「相馬高新聞」を一読して息を飲んだ。
編集したのは相馬高校出版局の生徒たち。紙面が私たちの高校に届けられたのは、両校の顧問の間に交流があったからだった。
「自分と同じ高校生が被災しながらも自分の町のことを伝えていて衝撃を受けた」
私の同期生で部長だった小島眞司君(27)は、当時をそう振り返り、こう続けた。
「『自分たちも何かしなあかん』という気持ちに駆り立てられた」
小島君はさっそく、相馬高校出版局の生徒たちにメールで話を聞くと、2011年5月発行の「彦根東高校新聞」のコラム欄にこうつづった。
「『福島を伝えたい』―福島には伝えようとしている高校生がいる。その想いを伝える、東高新聞にできることがあった」
「彦根東高校新聞」の連載「福島をつなぐ」はこうして始まった。
すぐ「イメージ」って言うよね
その年の夏、福島県を会場に全国高校総合文化祭が開かれた。参加した彦根東高校の新聞部員たちは、スケジュールの合間を縫って地元の高校生や観光関係者、福島県に派遣された滋賀県職員らにインタビューし、その肉声を紙面で届けた。
その後も滋賀県内であった慰霊祭や避難者交流会のほか、福島県いわき市などの被災地にも積極的に足を運び、記事を次々と送り出してきた。
部活にあまり熱心でなかった私は、そんな仲間を遠目に見ているだけだった。新聞記者になった今、被災地取材に関わらなかったことは私の中で心の「とげ」になっている。
過去が取り戻せるわけではない。でも、仲間たちがどんな思いで被災地を取材してきたのか、たどることはできる。そう思い立った私は、まず小島君に連絡を取った。
久しぶりに会った小島君が私に語ったのは、意外なことに苦い体験だった。
連載の発案者だけに被災地取材にとりわけ熱心だった小島君は、卒業間近の2013年2月に1人で福島県を訪れ、東京電力福島第1原発事故で全村避難となった飯舘村から福島市に移住した女性に話を聞いた。
女性は、日常的に線量計を持ち歩いていることなどを涙目になりながら小島君に語った。聞き終えた後、小島君が「線量計を持っているイメージで写真を撮らせてください」と頼んだときだったという。
「メディアってすぐそうやって『イメージ』って言うよね」
そばで聞いていた地元の女性が憤りをあらわにした。
小島君は、相手の立場に寄り添えていない自分にショックを受けた。被災して生活が一変した人と被災していない自分。その間に引かれた「線」の存在に気付き、取材活動が自己満足で意味のないもののように思えた。
原発が地域経済に密接に関わっていること。被災者同士であっても受けた被害の違いによって感情的なしこりがあること。被災地で見た社会の矛盾や地域の分断は、小島君が想像していた以上に生々しかった。
大学へ進学すると、小島君と被災地の関わりは途絶えた。だが、胸の中から被災地に対する複雑な思いが消えることはなかったという。
「ずっともどかしかった。いったん、足を踏み入れた自分が距離を取ることに対する罪悪感というか」
あれほど意欲的だった小島君ですら被災地に対してわだかまりを抱いていることに、私は切ない気持ちになり、申し訳なさが募った。
小島君は今、共同通信社で校閲記者として働く。東日本大震災関連の記事が目に入ると、つい読みふける。葛藤や苦悩の記憶とともに「福島」が心に残り続けている。
悲しみなき回顧に感じた「深い傷」
後輩で青山学院大4年の吉田伊織君(24)にも会って話を聞いた。「福島をつなぐ」の取材班でチーフを務めた人だ。
吉田君が初めて東北を訪れたのは高校入学前の2012年3月。北海道へ家族旅行に出掛けた際、仙台空港を経由したという。
「この惨状を見ておきなさい」。祖母に促され、タクシーで1時間ほど周辺を巡った。
津波被害を受けた仙台空港周辺は家の基礎部分しか残っておらず、吉田君は津波の威力を目の当たりにした。
その日の天気は曇り。目に映るもの全てが灰色だったことを吉田君ははっきりと記憶している。
彦根東高校に進学し、新聞部に入ると、吉田君は「福島をつなぐ」に携わった。福島県の子どもたちを滋賀県に招いた保養キャンプの取材では、参加者へのインタビューで思わず涙したと吉田君は思い返す。
「友達や親戚が亡くなった」「避難して友達と遊べなくなった」。悲しむ様子でもなく、あっけらかんと答える子どもたちの姿にかえって東日本大震災の傷跡の深さを実感した。
取材を通じて知ったことをみんなに届けたくて、記事をどんどん書いた。連載をきっかけに被災地へボランティアに行った卒業生もいて、紙面で伝えることに意義ややりがいを感じていた。
一方で、吉田君も悩みを抱えていた。
風化の流れに乗っている自分
東日本大震災で大切な存在を亡くした人、放射能汚染によってふるさとに帰ることができない人、東京電力福島第1原発事故の風評被害で野菜が売れず苦しむ人。福島県には計り知れない困難と向き合う人たちがたくさんいた。
「取材前にニュースで現状を調べていたけど、本当の困難は想像できない。どこまで踏み込んでいいのかと思ったし、被災した人にどう寄り添えばいいのかと迷った」
吉田君もまた、高校卒業後は被災地と距離を置いた。
「高校生のとき、何度も『風化させてはいけない』と書いた。でも、僕も風化の流れに乗っている。『矛盾しているな』『無責任だな』と感じます」
大学生活も終盤にさしかかり、就職活動を始めたころ。漠然と広告代理店を第一志望にしていた吉田君は、その理由を突き詰めて考えてみたという。たどり着いたルーツは「福島をつなぐ」だった。
「やはり何かを伝える仕事に就きたかった」
この春に入社予定の広告代理店は、東日本大震災が起きた直後、クライアントとともに、洗濯できずに困っている被災者の衣類を預かり、洗って返却するプロジェクトを立ち上げた。厳しい状況に置かれた人に寄り添う企業であることが志望の決め手になった。
「新聞はありのままを伝えるのが役割なので、風評被害で困っている人がいても『困っている』としか発信できません。でも、僕は風評被害で売れない野菜がどうしたら売れるかを提案できる人になりたい」
昨年11月下旬、私は福島県の沿岸部を訪れた。彦根東高校新聞部の現役部員たちを取材するためだ。
部員たちは、富岡町で震災後数年間、使用できなくなった漁港や学校を見学し、広野町で地域コミュニティーの再生に取り組む地元の高校生に話を聞いた。
また福島に関わりたくなったら…
彼らは「福島をつなぐ」の原点になった関係者も訪ねた。東日本大震災発生当時、相馬高校出版局の顧問だった武内義明さん(63)だ。
「これからは震災を体験していない世代にも伝えていくのが大事だと思うんですけど、そのために重要なことって何やと思いますか」
取材中盤、編集長の村木春桜さん(16)が尋ねた。武内さんは部員1人1人を真っすぐ見つめ、穏やかな声で答えた。
「一番分かりやすいのは彦根東高校が10年間、取材してきたこと。『一つ上、二つ上の人から聞きました』っていう本当にまめなつなぎ方だと思うし、私たちの参考になります。世代を乗り越えていくってそういうことなんだなって」
武内さんの言葉を聞いた村木さんの表情は晴れやかだった。
「これまで福島に行ったことがなくて福島をつないでいる実感がなかったんです。でも、武内先生の話を聞いて『ちゃんと福島をつないでたんや』って安心しました」
私も武内さんに聞きたいことがあった。被災地の現実に打ちのめされ、今もうっ屈を抱えているOBたちのことだった。
「『福島とずっとつながり続けられなかった』ということに後ろめたさを感じている元生徒もいたんですが、どう思いますか」
武内さんは相づちを打ちながら耳を傾け、私が話し終えると即座にこう言った。
「関わりたいときに関わってほしい。新型コロナの差別の問題のように『これって福島と同じじゃん』ってときが絶対に来る。そのたびに福島とつながりを持とうとしてくれたり考えたりしてくれたらありがたいですよ」
その言葉を聞いたとき、私の心に澱のようにたまっている被災地への申し訳ない思いが、少し軽くなった気がした。
小島君に再会したとき、武内さんの言葉を伝えると、彼はこうつぶやいた。
「ありがたい言葉やね」
静かでしみじみとした口調だった。
昨年12月中旬。彦根東高校新聞部の部室を訪れると、部員たちが12月号の校正作業に励んでいた。午後7時を過ぎ、窓の外が暗くなっても、記事の内容から見出し、紙面のデザインに至るまで真剣に議論していた。
10年じゃ拾いきれないな
部内では数年前から「そろそろ『福島をつなぐ』をやめてもいいんじゃないか」という声が上がっている。東日本大震災が起きたとき、今の高校生の多くは5~8歳。部長で「福島をつなぐ」取材班チーフの前川萌愛さん(17)自身も震災の記憶はほとんどなく、チーフに決まったときは連載を続けるべきかどうか悩みに悩んだという。
「とりあえず行ってみないと分からない」
福島県を訪れれば「復興とは何か」などこれまで考えても分からなかったことの答えが見つかるものだと前川さんは思っていた。
しかし、取材を通じて得たものは「答え」でなく考え続けるための「ヒント」だった。
「拾うべき声って10年じゃ、それも限られた紙面スペースじゃ拾いきれないなと。伝えられていないところもまだある。これからも寄り添い続けたいです」
取材者としてだけではない。東日本大震災のような大規模災害が起きたときは、学生ボランティアとして被災地の支援に携わろう。前川さんはそう心に決めている。
「福島をつなぐ」の志を引き継いでいるのは彦根東高校だけではない。滋賀県内には、連載を読んで共感した教諭の発案で被災地を訪問した高校もある。
被災地から遠く離れた場所で高校生たちが紡いできた「福島をつなぐ」は、10年という歳月をかけ、部員や読者の心と「福島」をつないだ。そして、そのつながりは今、連載を知らない人の心にも広がろうとしている。
東日本大震災の発災10年に合わせ、LINE NEWS提携媒体各社による特別企画を掲載しています。今回は京都新聞社による書下ろし記事です。