300年続いた酒蔵、15分で捨てるしかなかった…絶望から11年、再起の地はアメリカ #知り続ける
アメリカ西部シアトル近郊、多くのワイナリーが建ち並ぶ一角で2022年、コメを蒸した湯気が盛大に立ち上った。仕込んでいるのは日本酒だ。
杜氏の冨沢守さん(41)は、江戸時代から300年以上続く「冨沢酒造店」の21代目。妹の真理さん(40)と共に、異国で初めての酒造りに挑んでいる。
そばの椅子では先代の両親がうれしそうに眺めている。懐かしい酒米の匂いをかいだ守さんは実感した。
「やっと復興できた」
酒蔵と自宅は、もともと福島県双葉町にあった。東京電力福島第1原発の近くだ。
「あと40分で町を閉めるから、早く支度を」。自衛隊にせきたてられ、取るものも取りあえず故郷を離れたあの日から、11年以上が経っていた。
絶望したあの頃、再起の地がアメリカになるなんて、思ってもみなかった。
原発から3.5キロ、水素爆発の音を聞いた
2011年3月11日、酒の瓶詰めをしていた父・周平さんを、立っていられないほどの揺れが襲う。大吟醸酒の瓶が次々に倒れ、空き瓶は落下して割れた。
「危ない、逃げろ」。守さんに伝えようとしたが、声が出ない。
1トン以上ある機器が弾みながら迫る。すさまじい量のほこりが舞い、屋根がずれて青空が見えた。長い揺れが収まった時、左手にガラス片が刺さり、血まみれになっていた。
翌12日午後、酒蔵の近くにいた真理さんは、コンクリートとガラスが何かに共振する「ピーン」という音を聞く。
その直後、「ドン」「バーン」という崩壊音。屋根に砂の雨が降ってきた。3.5キロ離れた福島第1原発では水素爆発が起きていた。
暗くなった頃、自衛隊員がやってきた。
「まだいたのですか。あと40分で町を閉めます、15分で支度をしてください」
傾いたタンクに約100トンの酒を残し、せき立てられるように町を出た。
絶望の中「もう一度酒を造る」
避難した福島県いわき市で、周平さんはふさぎ込んだ。
「わが子同然の酒と先祖代々続く蔵を捨ててしまった」と自分を責め続ける。
生きがいを失って絶望する父の背中が小さく見えた。守さんと真理さんは決意を固める。
「必ずもう一度、父に酒造りをさせて歴史をつなぐ」
それには酵母が必要だ。小さな微生物でコメの発酵に欠かせず、香りの元になる。蔵には独自に培養した「白冨士酵母」があるが、持ち出す暇がなかった。
後日、一時帰宅で戻った際に酵母入りの試験管100本以上を運び出した。確かめると、生きた菌が数本残っている。
懇意にしていた会津若松市の酒造会社でタンクを借り、酒を仕込んだ。できた「白冨士」をインターネットで販売すると、家を追われたなじみの客からメッセージが寄せられた。
「帰る場所がなくなった。でも正月に『白冨士』を買って家族で集まり、思い出話をして久々に笑った」
真理さんは「心が震えた」という。酒を造って必ず再起する。決意は一層強くなった。
アメリカで見つけた「東北に似た場所」
ただ、双葉町は汚染がひどく、いつ戻れるか分からない。蔵や自宅は朽ちていく。全国を巡って買い取れる古い酒蔵を探したが、なかなか見つからない。
転機は2012年秋。真理さんが知人と初めて訪れたシアトルで直感が働いた。気候が冷涼で、東北に近い。自然が豊かで水もきれいだ。コメも入手できる。
「ここなら…」。しかし、家族で外国に移住して本当に日本酒を造れるものなのか。
悩んでいた時、日系スーパーの元社長モリグチさんから連絡を受けた。第2次大戦中に強制収容所暮らしを経験し、戦後をシアトルで生き抜いた日系2世だ。
「国に翻弄されたのはわれわれと一緒。勇気を持ってシアトルに来てみなさい」
勇気づけられ、チャレンジしようと決めた。自宅や蔵の物件探し、ライセンスの取得、材料の仕入れ…課題は山ほどある。それでも、戻れるあてのない双葉より希望を感じた。
「新たな地でゼロから出発しよう」。冨沢家は覚悟を決め、2014年に渡米した。
酒制限エリア、コロナ禍…困難の連続
当初の目論見は「自宅の敷地に酒蔵を作り、3~4年で酒造り再開」。しかし、そうはいかなかった。
自宅が小学校に近く、アルコール製造制限エリアであると移住後に知った。別の物件を契約したが、ビザ発行に時間がかかって大家が解約を通告。めぼしい物件を探したが、話が進まない。
5年以上が経過した2020年、シアトル近郊の「ウッディンビル」で、ある物件を見つけた。元ワイナリーだ。オーナーに手紙で熱意を伝え、やっと借りることができた。
本格的に準備を始めた矢先、新型コロナウイルス禍に直面する。アメリカ各地は軒並みロックダウン。ただ、蔵の設計を依頼したシアトルの設計士、セルジオさんは作業を続けてくれた。
家業を原発事故で奪われた日本人家族に、心を寄せていたという。
「故郷を離れ、アメリカに来たときの気持ちを考えると言葉がでない」
セルジオさんがこだわったのは「伝統を続けること」。麴室にヒマラヤ杉を張り、空調は昔から使われている通気口を付けた。
受けた日本流の接客
2022年、ワシントン州から仮のアルコールライセンスが出てついに試験醸造。屋号を「SHIRAFUJI SAKE BREWERY COMPANY」とし、同年12月にオープンした。
数カ月はほとんど客が来なかったが、地元のTVで紹介されたのを機に増加。日本流のきめ細かい接客が受け、週末の営業日は予約で埋まるようになった。
客が楽しむのは「試飲バー」での飲み比べ。熟成のタイミングを変えた、味が異なる酒を提供する。目でも楽しんでもらおうと日本製の美しいグラスに注ぐ。販売用の酒瓶はワインボトルにした。ラベルも英語表記だ。
地元産を愛するシアトルの人々が喜んでくれた。「あなたたちがきてくれてうれしい」
好奇心が旺盛で、理解できるまで質問をぶつけてくる人も。未知の存在だった日本酒に興味がわくようだ。酒造りを見学する「酒蔵ツアー」を実施すると、好評を博した。
あるウイスキー愛好家はこんな風に言ってくれた。「60年後もシラフジの酒を飲みたいからつぶれないでくれ。本物の酒を造る限り、飲み続けるよ」
「地元シアトルに愛されてこその地酒」
ただ、かつての味を再現するのは簡単ではない。最初にできた酒は少し黄色味を帯びていた。蔵に残っていたワイン酵母が影響したとみられる。
酸味がついて失敗したと思ったが、「それがうまい」という現地の人もいた。
反対に、会心の出来映えを提供しても気に入ってもらえないこともあるから面白い。
酒米は、日本酒によく使われる「山田錦」。アーカンソー州で栽培されている。
米の出来や気象条件が毎回変わるため、洗米や浸水時間の細かい管理が欠かせない。水はミネラルを多く含んだ硬水だ。周平さんによると「馬力」があり、ほっておくとどんどん発酵が進む。
酒蔵の心臓部である麴室では守さんと真理さんが麴造りを担う。温度管理のため手入れが欠かせないが、セキュリティ面から夜は蔵に立ち入れず、心配は尽きない。
日本とは何もかも違い、戸惑いの連続。だが、周平さんは前向きだ。
「双葉には双葉の、ここにはここの最適な形がある。今はそれを探しています。地元に愛されてこその地酒ですから」
日本とアメリカでは味の表現も異なる。「淡麗」をどう説明しても伝わらない。
そこで地元のコーヒーチェーン「スターバックス」を見習い、酒の味を「メロン」「ダークチョコレート」「クミン」「カカオ」「ピスタチオ」などになぞらえると、ニュアンスが伝わったのか客の笑顔が増えた。
思い出した祖母の言葉
2023年に造った酒は完売。ただ、製造量はまだ双葉時代の100分の1だ。アメリカ国内の販売と、クラウドファンディングで支援してくれた日本の人々に送ると在庫がなくなる。
従業員を雇わず、家族だけではこれが精いっぱい。将来的には現地で杜氏の養成も考えるという。
最新の酒は製法を双葉時代に戻し、漢字で「白冨士」と名付けた。近くには書家もおり、ラベルを頼むと快諾してくれた。
開店1周年を迎えた2023年12月、定員約25人の店にのべ100人以上の常連客が集まった。お礼を伝えるはずが、プレゼントをたくさんもらった。人の輪が着実に広がっている。
真理さんは、かつて祖母から聞いた言葉が思い浮かんだという。
「町は、酒蔵を中心に発展していく」
今こそ、恩に報いる
日本では元日に能登半島を大地震が襲った。他人事と思えず、一部商品の売り上げの半額寄付を決めた。能登の酒蔵も多く被災。惨状は13年前の自分たちに重なる。
真理さんは福島の避難生活で出会った東大阪の町工場の人々を思い出した。現金を渡され、「これは次に造る酒の代金ね」と言われた。戸惑っていると、彼らはこう続けたという。
「次は真理さんが誰かにやってあげればいいから」
恩に報いる時が来た。今なら人を思いやり、行動に移せる。自分たちが「生きていると感じる」。
ここまで想像以上に時間がかかった。迷い、つまずきながら歩いてきた。
「やれることは全部やってきた。それだけは胸を張れる」。経験が家族を支えている。夢も不安もたくさんあるが、ようやくスタート地点。真理さんは新たな目標を口にした。
「これから300年、シアトルで歴史をつないでいけたら」
(共同通信=鹿野修三)
※この記事は、共同通信による LINE NEWS向け「3.11企画」です。