小学校の体育館には100人近い遺体が横たわっていた。津波の犠牲者だ。
菓子店主で消防団員の菅野秀一郎さん(47)は、遺体安置所となったこの場所に1人でいた。広い体育館にこれだけの人がいるのに、呼吸をしているのは自分だけ。「正直、恐怖も感じた」
身元を確認するため、一人一人の顔を順番に見ていく。商店街の店主仲間、近所に住む幼なじみ、まだ小さな子ども…生まれ育った地元だから、見覚えがある顔ばかり。津波は、弟や親友も奪っていった。
震災から12年。かつての街の上に盛り土した新しい市街地に店を再建し、忙しく働く。それでも、失った故郷の風景と犠牲になった家族や友人の面影が頭から離れることはない。
「俺らは文字通り、多くの人の犠牲の上に生活している。彼らに恥ずかしくないように生きる」。こう語った一方で「死ぬのを楽しみにしている」と笑顔を見せた。なぜ、そんな言葉を口にしたのか。
最初は煙だと思った「灰色の壁」、津波だった
海岸沿いに続く松原と白い砂浜が美しい岩手県陸前高田市。小さな駅舎から延びる古い商店街に建つ「菅久菓子店」の5代目に、菅野さんは生まれた。
明治時代から続く老舗。看板メニューのチーズケーキやシュークリームを買い求め、近所の人が訪れる庶民的な店だった。
高校まで地元で過ごした後、仙台で修行。菓子作りを学んだ。24歳で陸前高田に戻り、父の店で職人として働き始めた。ところが2006年、父は63歳で突然亡くなった。多額の負債を抱えていたことを死後に知った。
妻の故郷・仙台で心機一転、やり直そうと決めた。2011年3月11日の夜は同級生が集まり、送別会が開かれる予定だった。場所は同い年の親友、及川充さんが働く寿司店だ。
午後2時46分の地震後、消防団員として出動しようと屯所に向かった。途中の公園で見かけた人々に、津波を警戒して「上に上がれ」と叫んだ記憶がある。
ふと見やった先に、煙が立ち上がっていた。「最初は火事だと思った」が、津波だった。灰色の「壁」が信号や電柱をなぎ倒していく。必死で逃れた高台で、街が水に埋まっていく光景を眺めた。「高田は終わりだと思った」
遺体安置所にいた親友、泥まみれの顔を拭い
翌朝の夜明けを待って、生存者を捜すため消防団の仲間と水が引いた街に下りた。雪がちらつく中で目にしたのは、茶色に塗りつぶされたがれきの海。
最初に遺体を目にした時のことは、ショックであまり覚えていない。多くの亡きがらを見た一方、助け出せた人はわずかだった。
数日後、がれきに足を突っ込んで負傷し、捜索から離れて遺体安置所となった体育館に詰めた。身元の確認をして警察に伝える役割だ。
思い立って被災を免れた民家で線香をわけてもらい、がれきから見つけたおわんに挿して手向けた。館内に漂っていた磯の匂いと死臭に、線香の匂いが重なる。「その時初めて、お線香の意味を知った」
少しでも早く、家族の元に帰れるように。一体一体確認していくうち、泥にまみれた人々の顔や体を雪解け水や泥水、涙で拭うようになった。 たくさんの遺体の中には寿司店の親友、及川さんもいた。
「おめえも行っちまうのか」
失ったのは親友だけではない。結婚したばかりの市職員で弟の浩平さん=当時(33)、幼い頃から面倒を見てくれた親戚、子どもの誕生日ケーキを買いに来てくれた消防団の上司も亡くなった。
「おめえも行っちまうのか」。 彼らにそんなふうに言われる気がした。妻子と仙台に行くことはやめ、ひとりで故郷に残った。
犠牲になった上司の代わりに、消防団の部長も引き受けた。死者の魂を弔う夏の伝統行事「動く七夕」では実行委員会のメンバーに。津波で流された店の再建に向けても動き始めた。
「たくさん亡くなった人を見た。それなら、やれる人間がやらなきゃ」との思いからだ。
それでも、余りにも多くの人の死を見たためか、「死」を身近に感じるようになった。津波注意報が発令されても避難しなかったこともある。「津波が来たら来たで仕方ない」。震災から1年半後、投げやりになった気持ちをそう吐露していた。
誰かに相談したくなるたび、浮かぶ顔
仮設店舗で菓子店の営業を再開したのは、震災から2年が経過した2013年4月23日。
その5年後、盛り土された新たな市街地に店を再建した。震災で亡くなった弟・浩平さんの誕生日だった。仙台にいた家族も戻り、近くに家も建てた。ハード面での「復旧」はもう終わった、と感じることもある。
ただ、街の再建や店の経営、消防団の運営など、誰かに相談したくなるたびに、亡くなった多くの人々を思い浮かべて「あの人がいてくれたら」と願う。土の下にある以前の街並みも思い出し、「忘れられない」と反すうする。
「亡くなった人も、前の高田も、もう戻らないのは分かっている。ここから始めるしかない」。自分に言い聞かせるように口に出す。
2020年3月11日、陸前高田市の追悼式で遺族代表を務めた。たくさんの面影が浮かぶ。「あなた方が、私の故郷で『陸前高田』だったのです」「今日という日だけは昔を思い出し、あなた方を思い、立ち止まる」
実は式典への参列は周囲からずっと勧められていたが、踏ん切りが付かなかった。震災から9年が経過していた。
陸前高田に根付く「新しい縁」
「カン、カン」。2023年2月下旬。夜の帳が下りた陸前高田の市街地に、鐘の音が響く。消防団の夜警だ。「気を付けろよ」。屯所前に立つはんてん姿の菅野さんは、団員を乗せたポンプ車を送り出していた。
菅野さんが部長を務める高田分団第3部は、震災で団員6人が犠牲になった。残った団員も仮設住宅などへの転居でばらばらになり、存続が危ぶまれた時期もある。今は実働14人。うち半数以上が震災後に入った。
大工の鈴木豊さん(46)もその1人。2012年に入団した。「自分は家も職場も大丈夫だった。家族を亡くしながらも捜索に出る姿を見て、力になりたいと思った」
東京から移住してきた塗装工の山内一平さん(32)は、菅野さんの店のペンキを塗った縁で誘われ、5年ほど前に入った。「小さいことしかできないけど、少しでも高田の役に立てるなら」。菅野さんは「こうやって、新たに高田に縁ができる人が増えるとうれしい」と目を細める。
うれしいことは他にもある。仙台で菓子作りの修行をしていた長男の久秀さん(25)が3年前に戻り、一緒に働き始めた。「道の駅」にも卸す新たな看板メニュー、マドレーヌを任せている。
菅野さんは「もっと新しいアイデアを出してほしい」と注文を付ける一方で、父親の顔になって相好を崩した。「後継ぎが戻ってきて、俺は幸せ者だ」
いつかあの人たちと語り合うために生きる
がれきと涙と悲しみに覆われていた街には今、新しい家や店が少しずつ増えた。訪れる人も、復興に尽力したボランティアから観光客に変わった。
街の中心地に建ち、海を望む刻銘碑には、浩平さんや及川さんら亡くなった人たちの名前が刻まれている。菅野さんは陸前高田市の都市計画審議委員会のメンバーでもある。
「ここに名前がある人たちと一緒に、町づくりをやっているつもり。同じような犠牲をもう出さず、子どもたちが古里だと愛着を持てるような、新しい高田をつくりたい」
震災からの12年間を尋ねると「2011年3月11日という点を見ながら、後ろ向きに走ってきた」と表現した。
あの日のまま時間が止まった人たちと懐かしい街並みは、どんどん小さく遠ざかっていく。「前向きじゃないよね。時だけは前に進んでいるけど」。それでも、いろいろな人に支えられ、この場所で生きてきた。投げやりになることはもうない。
いたずらっぽく笑い、こうも口にする。「俺は死ぬのを楽しみにしている。亡くなった人と話がしたいんだ」。あの時どこへ逃げたのか、何を思っていたのか、被災後の自分の生き方をどう感じるのか。聞いてみたいことがたくさんある。
「だから今は生きて、報告事項を増やしているの」
(共同通信社会部 兼次亜衣子、撮影=金子卓渡)
※この記事は、共同通信によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。
INFO
東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、一人一人ができることを。