なんだか外が騒がしいと思った。遅めの夕食で訪れていたスナックのドアを開けると、恐ろしい光景が飛び込んできた。
「あちこちで車が燃えていた。何が起きているか、一瞬でわかった」
1970年、12月20日。
米軍嘉手納基地に面したコザ市(現沖縄県沖縄市)中心街。ベトナム戦争の激化に伴い、街に増えた米兵による悪質な事件が相次ぎ、罪に問われないまま終わることもあった。
怒りに駆られた群衆が米軍関係者の車両を次々となぎ倒し、火を放っていた。
「誰が乗っているとかは関係なく、『この車は米軍車両だ、黄色ナンバーだ』という感じでやっていた」
自分が乗った車は、米軍基地に勤める父から借りたシボレーだった。間違いなく、標的にされる。
「死にたくない」
決死のドライブの中、自らのルーツを、そして争いに揺れる“基地の島”を思った。
今年74歳になるミュージシャンは、自らも日米のはざまで揺れながら、「オキナワン・ロック」を奏で続けてきた。
幼少期のジレンマ
米軍統治下の沖縄で結成し、半世紀以上が過ぎた今も現役でステージに立つロックバンド「紫」。
キーボード奏者でリーダーのジョージ紫さん(74)は1949年、米軍嘉手納基地でエンジニアとして働いていた軍属で米国籍の父と、島で生まれ育った「うちなーんちゅ」の母の間に生まれた。
母は1945年の沖縄戦で本島北部に避難し辛くも生き残り、捕虜として収容所に入れられた。
コザ市にあった家で幼少期から音楽に親しみ、童謡や美空ひばりの曲、父が基地内で買ってくる英語の歌のレコードをよく聴いた。
「アメリカ」と「沖縄」。双方の社会を行き来し、それぞれの子どもたちと交流する中で、あるジレンマを抱えていた。
「米軍の子どもたちに対して『アメリカー!』と悪口が聞こえてくるんですね。でも逆に、(米軍基地内の)スクールではアメリカ人の子どもたちが日本人や沖縄人のことを悪く言う」
国籍、容姿、考え方の違い…。両者の言い分に耳を傾けながら、アイデンティティーについて自問した。
「(自分は)アメリカなのか、日本なのか、沖縄なのか」
400年以上続いた琉球王国の文化、日本への編入を経て、米占領下となった沖縄で、言葉や歴史も異なるルーツを感じていた。
「アメリカ世(ゆ)」
1952年に結ばれたサンフランシスコ平和条約で日本が主権を回復する一方で、沖縄は米国の施政権下に留め置かれ、太平洋戦争の終戦から「アメリカ世(ゆ)」が続いた。
通貨は米ドル、車は右側通行、日本への渡航にはパスポートに相当する渡航証明書が必要だった。
「アメリカの中に住んでいるような感覚」
基地内のデパートに行くと、拳銃やライフルがショーケースに置かれていた。米兵が住む住宅街にはゴルフ場のように広い芝生があり、居心地の良さそうな暮らしに憧れを抱いた。
1960年代、米国によるベトナムへの介入が進む中、極東最大級の嘉手納基地からは爆撃機が飛び立ち、基地の目と鼻の先にある歓楽街では、米兵向けの店が活気を見せていた。
高校時代は、ピアノの腕を生かして学生らのダンスパーティーで演奏。米国籍だったこともあり、卒業後はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に進学するため渡米する。
ベトナム戦争はすでに泥沼化していた。
米国では徴兵制が学生にも適用された時期で、反戦デモや暴力的な騒ぎが続き、学内は混沌(こんとん)としていた。
金銭的な事情もあり大学を離れ、2年ほどで米国による統治が続く沖縄に戻り、米軍基地内の大学に編入した。
「紫」の結成
帰郷すると、米国にいた頃よりもかえって戦争が身近に感じられた。
あるときは、高校時代に親しかった先輩がベトナムで戦死した知らせにショックを受けた。
またあるときは、遺体を積んだトラックが走る様子を目撃した。
そのとき「音楽で平和を訴えていきたい」との思いが、ふつふつと湧き上がってきたという。
UCLAでピアノやパイプオルガンを学んだジョージさんは、米兵相手に演奏経験を積んだロックミュージシャンたちと交流を深め、本格的に音楽活動をスタート。
当時のサイケデリック・ロックやジミ・ヘンドリックスの旋律に影響を受けながら、従来のロックの枠組みにとらわれない、新たな音楽の形を目指した。
城間俊雄ら野心を持った仲間と出会い、1970年に「紫」を結成。
バンド名は、当時傾倒していた英国の人気グループ「ディープ・パープル」にちなんだ。
オキナワン・ロック
「(当時は)戦争の真っ最中。兵隊も多いから、演奏する場所も多かった」
ベトナムの激戦地に動員される兵士たちはジュークボックスから流れる音楽ではなく、生の演奏に救いを求めた。
彼らが聴きたがったのは沖縄の人が作ったオリジナル曲ではなく、母国で流行していた楽曲。
米軍基地にあるクラブや、コザのような基地周辺の歓楽街に軒を連ねる「Aサインバー」で、経営者たちは米兵を満足させる演奏技術と英語力を併せ持つバンドを探した。
戦争の激化とともに、歓楽街で多くのロックバンドが生まれ、「オキナワン・ロック」が台頭していく。
「フィリピン系のバンドや韓国系のバンド、中には兵隊さんが作ったバンドもいたけど、それでも足りない。それで沖縄の若者のような素人がやると、やっぱり(未熟さが)ばれる」
下手だとすぐ酒瓶が投げつけられた。多くのバンドが淘汰(とうた)されたが「僕らには飛んでこなかった。下手じゃないから」
沖縄本島中部・金武のクラブでの演奏を経て、コザ・センター通り(現沖縄市の中央パークアベニュー)のライブハウスが拠点となった。
米兵相手にこなしたステージは1日4~6回ほど。卓越した演奏に涙を見せる米兵もいた。
彼らとは好きなバンドや曲の話題で仲良くなり「友達になるのに、人種は関係ない」との思いに至った。
沖縄とアメリカの間で
「ベトナム帰還兵はいつ(戦場に)戻って死ぬかわからないから、あり金を全部はたいちゃう。一晩で家が建つほどのお金を(クラブが)稼いだという話はいっぱいあった」
米兵が求める娯楽を提供する中で地域経済は飛躍的に発展。
しかしその陰で、無辜(むこ)の住民に対する米兵の事件が増え、多くの人が泣き寝入りを強いられていた。
女児が暴行される事件や、飲酒運転で女性をはねて死亡させた米兵が軍法会議で無罪となることも。傷害などの犯罪も日常的に起きていた。
住民たちの怒りは頂点に達し、日本復帰を目前にした1970年12月20日、群衆が米軍関係者の車を次々と焼き払う「コザ暴動」が起きる。
あちこちで炎や煙が上がり、催涙ガスの臭いが充満する中、必死で父親の車を走らせたジョージさんは、当時の複雑な心境をこう振り返る。
「(沖縄の人の)気持ちはわかる。自分は日系(のルーツ)で、おじいやおばあも『うちなーんちゅ』。事件を起こして、人を殺して、そのまま逃れるのはおかしい」
ただ、音楽を通して米兵と接する中で、心を通わすことができる友人もできた。
「『基地があって、米兵が悪いから事件が起こるんだ』みたいな気持ちには全くならなかった。沖縄の人だって事件を起こすし、みんな人間的には変わらないんですよ」
コザの人にはできない
1973年に紫に加入する、ドラマーの宮永英一さん(71)もコザ暴動の現場に居合わせていた。
嘉手納基地へ続く「ゲート通り」沿いのライブハウスで演奏を終えた帰り道だった。
人身事故を起こした米兵をMP(米軍の憲兵隊)が釈放しようとしたことを端緒に、群衆が騒ぎ出した。
「沖縄の警察を出せ!」「人をはねたのは、この車だ!」
集まった人たちに、コザで商売する住民は少ないように見えた。宮永さんは暴動には加わらず、事態が落ち着くのをただ祈った。
「コザの人たちは人一倍やりたいという気持ちを持っているけど、できない。みんな仕事を失うことになる」
コザで生まれ育った。
父は米軍関係者、母は鹿児島県の奄美群島・徳之島出身だといい、「混血」をからかわれると、すぐに反撃する子どもだった。
家族は仕事で忙しく、親代わりとなったのは血縁のない近所の女性。
ベンチャーズに憧れてドラムを始め、中学卒業後は演奏の練習に明け暮れた。
「ノイズを止めろ」
米兵が騒ぎを起こし、危険な目に遭うことも多かった。
「わざわざステージに上がって来て、『ノイズを止めろ』と言われる。あの頃の米兵はアメリカ中の不良少年の集まりだった」
黒人やアジア人を侮辱していた白人の米兵から、目が合っただけでひどい暴行を受けることもあった。事件に遭っても基地内に逃げられれば泣き寝入り。
警戒感を持って米兵たちと接する一方、泥沼化するベトナム戦争に、次第に追い込まれていく彼らの表情を見て気付いた。
「こいつらは、行きたくて戦場に行ったんじゃない。無理やり行かされたんだ」
「頼むから、この音楽を俺たちに聴かせてくれ」
死の恐怖におびえ、すがるように故郷の音楽を求めた姿が今でも記憶に残っている。
コザ暴動の後、米兵は一時的に外出禁止となる。クリスマスを前に静まり返る街で、宮永さんは仕事を失った。
ベトナム戦争はやがて下火になり、本土復帰を契機に日本人向けの店が各地に増えていった。
宮永さんは“基地の島”で過ごした日々について、こう振り返る。「ある時は対峙(たいじ)、ある時は共存だった」
Raise Your Voice
ベトナム戦争が終結した1975年、「紫」は他のオキナワン・ロックバンドの先鞭(せんべん)をつけ本土デビューを果たす。
解散や再結成をしながら、これまでにオリジナル曲を含んだ7種類のアルバムを発表。
メンバーが替わっても当時のエネルギーは健在で、8月には日比谷公園大音楽堂(野音)の100周年記念ライブに立つ。
琉球古典音楽や民謡の音階を取り入れ、沖縄への思いを歌った曲がある一方、地域の枠を超え、平和への願いを込めた歌を世に出してきた。
新曲「Raise Your Voice」では、ロシアのウクライナ侵攻に対するメッセージを込め「As the world follows you(勇気が世界を変えていく)」と、自由を奪おうとする動きにあらがい、黙っていないで声を上げ続けようと歌い上げた。
「ベトナム戦争を間近で感じてきた部分や、(シリア内戦の)難民問題について作った楽曲の延長線上にある曲」とジョージさんは語る。
「軍事侵攻を黙って見ているだけだと消極的な肯定と受け止められる。抗議の声を上げて、世界を平和に、人々が幸せに暮らせるようにならないと」
僕らにできること
半世紀を経ても、米軍基地や安全保障における過重な負担は変わらない。
沖縄の現状を間近に見てきて行き着くのは、子どもの頃からの疑問。
「なんでみんな、仲良くなれないんだろう」
国籍が違っても友達になれる。音楽を通じて、米兵とも心を通わすこともできる。
「基地は沖縄の人を苦しめるためにあるわけじゃない。かと言って、負担が大きすぎるから不満をどうしても言いたくなる」
母も体験した凄絶(せいぜつ)な沖縄戦の記憶、ベトナムの激戦地に送り込まれる米兵たちの顔つき。
日常的に横たわる「戦争」の中、ジョージさんは日米双方で揺れ動きながら楽曲を紡いできた。
「本当はみんな、家族を愛しているはず。だから家族の中の平和が、その周りにある地域の平和、その国全体、そしてグローバルの平和(につながるといい)。(音楽でそれができるなら)世界中に発信して、聴いた人が歌詞を理解してさらに広がってほしい。僕らにできることは、それぐらいしかないから」―
(共同通信福岡写真映像部 小向英孝)
※この記事は、共同通信によるLINE NEWS向け特別企画です。