優しいまなざしで語りかける。「緊張せんでええよ」。奨学金の面接で、相手は高校3年の生徒。時に冗談を言い、笑わせる。
「子どもの幸せを願うのは、私にとって本能みたいなもの」
兵庫県宝塚市の三村正之さん(80)は今春までに、399人に計4億6千万円の奨学金を支給してきた。返済不要で、見返りは一切求めていない。
自身は幼少期、父から過酷な虐待を受けた。一方で母、そして義父からは惜しみない愛情を注いでもらった。
奨学金の面接
不動産業で財を成したが質素な暮らしを続け、子どもたちの支援に全てを費やす。
「財産は全く惜しくない。枯渇するまで使い切りたい」
三村さんはなぜ、見ず知らずの子どもたちへ無償の愛を注ぐのだろう。
東京帝大医学部卒の父から受けた虐待
終戦前年の1944年、神戸市で生まれた。父は開業医。東京帝国大学(現東京大学)医学部を卒業した卓越した頭脳の持ち主だったが、それは人格とは一致しなかった。
三村さんが幼稚園の頃、父の暴力に耐えられなくなった母が家を出て行った。三村さんと2歳上の姉は、父が引き取った。「自分の所有物のように、無理やり母から引き裂いた」。だが養育できなかったのか、三村さんは父の高校時代の親友の家に預けられ、そこで暮らした。
小学校の入学式にも父は来なかった。新入生と保護者が一緒に写る集合写真では、父の代わりに、親友の妻が生まれたばかりの自分の子を抱いて写っていた。
「自分で育てると引き取ったのに、新婚の友人に預ける。そんな父だった」
小学2年になると、母と後の義父(当時は結婚前)と暮らすことになった。二人は同じ歯科大に通う学生。「母が何とかして、父の親友のところに迎えに来たのだろう」。神戸・御影の古い平屋を借り、そこには姉もいた。
住み始めてすぐ、母が木の表札に自分の名字を書いた。そしてクレヨンを使い、赤や黄、ピンクの色とりどりの花をいくつも描いた。
「母も幸せいっぱいやったから、花を描いたんやろな。子どもなりにそんな表札見たことなかったから、鮮明に覚えている」
義父は近くの池に三村さんを連れて行ってくれ、釣りやボートを教えてくれた。大学で石こうを削って奥歯をつくる宿題が出たときは、三村さんも一緒に作って遊んだこともある。
愛されているということを、初めて実感した。
「人生で一番幸せな1年間だった」
そんな時間は、父が家に乗り込んできて終わった。嫌がる三村さんと姉を連れ戻したのだ。「地獄」の始まりだった。
父はネグレクト(育児放棄)だけでなく、暴力による虐待もした。引き戻されて間もなくに激しい暴行を受けた際は、姉がはだしのまま逃げ出し、親戚の家に行ったきり戻ってこなかった。一人残された三村さんは就寝中、理由もなく布団をひっくり返されることが度々あった。「今晩も来るかもしれないとおびえ、精神的にまいった」
運命と思い耐えた
父は再婚しており、継母も一緒になって虐待した。食卓にウナギが並んだ時には、三村さんの丼には尻尾しか入っていないこともあった。
「姉のように出て行きたかったけど、鎖でつながれているような感じだった。幼かったから自分の運命と思い、親の言うことを聞かなければならないと思っていた」
小学校高学年になると、同居していた父方の祖父が見かねて家から連れ出し、二人で暮らすようになった。
入学式も卒業式も参観日も、学校行事に一度も親が来たことはなかった。運動会ではクラスメートが家族で弁当を囲む中、一人パンをかじった。中学のある参観日、ふと後ろを見ると姉がいた。保護者に交じり、一人だけセーラー服姿で立っていた。
「学校に電話して、実父にはばれないように来てくれたんだろうね。あれにはまいった」
高校2年になると、再び母と義父、姉と暮らせるようになった。「実父は継母との間に子どもが次々とでき、私は邪魔になっていたのだろう」。ようやく、父と縁を切ることができた。
母と義父は子どもの意見を尊重し、日々の生活から進路にいたるまで自由にさせてくれた。恐怖から解き放たれ、精神的にも安定した。「頑張ろう」という気持ちになれた。二人から受けた影響が、今に至る三村さんの根幹を築いていく。
母の背中を見て築いた資産
大学卒業後、設立から7年ほどの積水ハウスに入社した。すぐに頭角を現し、歩合制の給料が所長を上回ったこともあったという。修業のつもりで10年間がむしゃらに働き、独立。神戸市北区に事務所を構えた。土地を買い、そこに自分でマンションを建て、学生や単身者に貸し出す業態だった。
事業においては、母から多大な影響を受けた。
母の父は製鉄関連の会社を経営する実業家で、兵庫県議会の議長も務めた。その血を引く母も商才にたけ、歯科医院のほか、空調設備や不動産業と手広く商売をした。
「おじいちゃんの娘だけあって、事業の達人。母の言う次の一手を打てば、その通りになった。50年近くそばにいて教わったのは、私の財産」
三村さんが個人経営で始めた会社はじきに無借金経営になり、事業の拡大に伴い別の会社も設立。働けば働くだけ儲かった。
それぞれが大きな資産を築いたが、母と義父は戦争を経験しており質素な暮らしが身に染みついていた。贅沢をしないのは三村さんも同じだった。
70代に差しかかったころ、事務所前の県道が拡幅されることになった。道沿いには自社で所有する物件も多くあり、事務所と共に立ち退きを迫られた。
「もうそろそろ商売を辞めようと思っていた時だった」
経営していた3つの会社をM&Aで事業譲渡すると、約30億円になった。
なぜ子どもの支援に尽くすのか
それぞれが築いた財産をどうするかについては、母と義父と話し合ってきた。「使い切れないお金が残っても困ってしまう。それなら世のため、人のために、となった」
3人で導いた結論は「公に尽くす」だった。
義父は2008年に亡くなり、母も16年に亡くなった。「公に尽くす」と決めたが、具体的な方法が決まっていなかった17年ごろ、ある新聞記事に出会った。
三者面談で進路を問われた母子家庭の男子生徒が、「お母さんが苦労して今まで育ててくれた。これ以上は苦労させられない」と大学進学を断念していた。母を思う子の気持ちが、胸に刺さった。
「父から受けた虐待、そして母と義父から与えられた恵まれた環境。私は両方を経験しているから、子どもは大事にせなあかんというのが根底にある」
18年に東洋財団を設立。兵庫県教育委員会が協力し、奨学金が必要な生徒を県内の高校が推薦してくれることになった。年間60万円を給付し、これまでに399人が利用。ほとんどが母子家庭という。
大学あきらめず、夢を叶えられた
ある女子学生は大学卒業にあたり、財団に寄せた作文につづった。
「奨学金がなければ、私は学業を続けることができなかったと思います。高校生の時は『合格しても大学に通えるだろうか』といつも不安で、勉強に手がつかない日もありました。ですが在学中に奨学金を決めてくれたため、以降は勉強に集中できました」
「大学では家計を支えるためアルバイトをする必要はありましたが、勉学の妨げにならない程度に抑えることができ、学業を優先し、学ぶ楽しさを知ることができました。アルバイト三昧にならなかったおかげでインターンやボランティアなどの課外活動にも積極的に取り組むことができ、4年間さまざまなことを経験することができました」
卒業後は、中学生の頃からの夢だった高校の英語教諭になるという。
奨学金では学校現場からの声を反映し、専門学校への進学も対象とした。より支援の必要な児童養護施設の子どもたちには、人数制限を設けていない。県教委の担当者は言う。
「大学進学だけでなく、手に職を付けたい子たちも助かっている。生徒たちは親の状況を理解しているため、進学したくても『迷惑をかけたくない』と言い出せない。親への申し訳なさが少しでも軽減できていれば、ありがたい」
25年度は約100人に給付する予定だ。三村さんは全員の面接に立ち会うため、夏場の週末はスケジュールがびっしり埋まっている。生徒と出会うのは、その日だけ。それでも卒業して寄せられる作文を読むたび、涙が出る。
「あの新聞記事のような子どもたちに届いている。やってよかった」
USJでの貸し切りパーティー
私財を投じるのは奨学金だけではない。昨年は児童養護施設の子どもら約千人をユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に招待した。「養護施設の子たちはなかなか行く機会がないだろうが、学校の友達からUSJに行って楽しかったと聞くかもしれない。同じように体験させてあげたかった」
終わった後、子どもたちからは読み切れないほどのお礼のメッセージが届いた。「一生の思い出になったと思う」と職員が言ってくれた。今年は、里親家庭の約300人をUSJに招いた。
煩雑な事務手続きなど財団の運営は、思いに共感した三村さんの友人らがボランティアで手伝ってくれている。
「私一人ではとてもできない。感謝している」
今後は、奨学金の返済に困っている人たちを救う手だてを模索中だ。非正規雇用の拡大などで返済が滞って困窮し、結婚や出産を諦めるといった社会問題になっている。
私財を投じる度、その重みを感じる。稼ぐために努力し、問題を乗り越え、積み重ねてきた「人生の塊」のようなものだ。
「それに十分に値する、価値のあるものに置き換わっている。本当によかった」
(記事・土井秀人、写真・吉田敦史)
※この記事は神戸新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。