9月30日発売の女性セブンで報じられた、長谷川京子(43)の別居。ネット上では、彼女に対して批判の声も多く上がっていた。
しかし、そんななかで恋愛ジャーナリストのおおしまりえさんは「今回の別居報道への批判には、日本の古臭くて嫌な空気を感じます」と声を上げる。その真意とは――。
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長谷川京子さんが家族と住む自宅を出て別居中であると、一部週刊誌が報じました。記事によると長谷川さんが自宅を出て別のマンションで暮らしながら、週末に子育てを担っているそうです。
日本では夫婦の別居といえば「夫が自宅を出るパターン」が多いため、長谷川さんの行動に対してはネットから批判めいた声も聞こえてきました。
《自分の立場なら子どもを残して出るなんてありえない》
《一生女であり続けたいタイプなんだな》
《結局、結婚には向いてないんだろうね》
などなど。1つは子育ても女性としての生き方も追求する彼女に対して、常に子ども第一で生きる母親としての姿を求めるような声です。また40代になっても色っぽさを持ち合わせた彼女の見た目には、さらに辛辣な声も……。
どれも、もっともらしい意見ではあるかもしれません。ただ改めて見ると日本の女性が今も苦しむ、“良い母親信仰”が詰まっているようにも感じます。
■「母親が出ていくなんてありえない」と声高に叫ぶ人の根底にあるもの
長谷川さんのお子さんは、13歳の長男と8歳の長女の2人。まだまだ自立しているとはいえない年齢です。そうした年齢の子どもを置いて別居する姿に、どうやら一定数の批判が集まっているようです。
しかし不思議なのですが、これが男女逆だったら別に「父親失格!」とはなりにくいのではないでしょうか。「母親が出ていくなんてありえない」と声高に叫ぶ人は、その根底に「子育て=母親の役目」「母親=子どもの傍にいるべき。そのほうが双方にとって幸せ」という思い込みの図式があるのだと思います。
夫婦関係にだけ問題があって別居になったのであれば、母親が出ていこうが父親が出ていこうが同じ。基本的に、子どもにとっては辛いものです。おそらくはそれを承知で話し合い、別居という選択肢を取っているはず。にもかかわらず“母親失格”とカンタンに言い切ってしまう人が一定数いることに、悲しさすら覚えてしまうのです。
■なぜ日本の女性は子を生むと“貞淑な母”を求められるのか
また今回の報道で非常に違和感を持ったのは、彼女の見た目への批判の声です。
以前から長谷川さんが色気を漂わせるようになってきたことについて、厳しい声も上がっていました。もちろん人それぞれ好みはあるので、彼女の見た目の良し悪しには言及しません。
ただ別居報道の際、「こんな(胸元を強調した)母親は嫌だ」や「子ども生んでまでこんな胸強調してるのは痛い」などの声が出ていたのです。母親が色気をただよわせていることへの非難も多く、非常に複雑な気持ちになりました。
たとえばマドンナが今なお露出の多い服装をしていたとしても、「母親なのに下品」といった感想は持たないと思います(もちろん好きか嫌いかは別です)。ちなみに彼女は6人の母親で、すでに還暦を超えています。
しかし日本だと子どもを持つ女性がキレイであることは歓迎されても、色気のあることは下品であるとみなされがち。さらには、そうした女性に対して「母親としての資質がない」とみなす価値観もまだまだ多くあります。
これは古くからある日本の奥ゆかしさ思想が産んだ、「貞淑な妻」「貞淑な母」といった存在への幻想かもしれません。
日本人特有の“母だから”といった価値観によって、別居や服装やボディラインなどに過剰すぎる視線が注がれる現状。そこに、なんとも言えない窮屈さを覚えるのです。
■これから増えるかもしれない「母親が出る円満別居」という選択
今回の報道では、離婚するかどうかはハッキリ明言されていません。
こうした「妻側が家を出るタイプの別居」というのはそこに至った原因がどうあれ、夫婦2人が育児をきちんと分担して取り組んでいるからこそ成り立つ選択だと思います。
つまり今までの「男性が家を出ていくタイプの別居」というのは、夫が育児に主体的に参加していないからこそできた選択ともとらえられます。
そう考えると共同育児が進むと、今後は妻が育児を担いながら家を出る別居も増えるのではと思っています。
少し前だと、篠原涼子さん(48)の別居からの離婚も話題になりました。
当初は篠原さん側が家を出る別居に対して、「母親として向いてない」「母親が家を出るなんて……」といった声が多くありました。
当人としても悩む部分があっての決断だったと思いますが、「家を出る母=失格」というイメージはそろそろ私たちが手放していくときかもしれません。
そして子どもを持とうが持つまいが、自分らしい生き方や見た目の選択が受け入れられる世の中であってほしいなと思うのでした。
(文:おおしまりえ)