「明菜は毎回、死ぬ気で歌っていた。過酷な芸能界で命を削ってきた。デビューしたころ、多忙な彼女は番組で出番が終わると、横でウトウトすることもありました。指で肩をつつくと、目を覚まして笑うんです。その笑みが何のゆがみもなくて、純真無垢だった。芸能界にいちゃいけない笑顔だなって」
同じ’82年デビュー組の川田あつ子(56)は、間近で見てきた印象を思い返す。5月1日、中森明菜がデビュー40周年を迎えた。なぜ、彼女は多数のライバルをはねのけ、時代を切り開けたのか。そしてなぜ、活動を休止しているのか――。
明菜の歌はデビュー前から聴く人の魂を震わせてきた。’79年、中学2年の少女は山口百恵らを輩出した『スター誕生!』(日本テレビ系)に応募した。同番組の地区予選の審査員兼ピアノ伴奏を務め、のちに明菜を指導するヴォイストレーナーの大本恭敬氏(86)はすぐに素質を見抜いた。
「鼻にかかった声に独特の艶っぽさと憂い、低音の魅力を感じました。ただ、通過後の本選で歌った岩崎宏美の『夏に抱かれて』は音域の広い難しい曲で、自分のよさを生かしきれなかった」
不合格となった明菜は翌夏、再度挑戦して松田聖子の『青い珊瑚礁』を歌う。審査員の松田トシは「顔が子供っぽいから無理ね。童謡でも歌っていたほうがいいんじゃない?」と酷評した。明菜は「スタ誕では童謡を受け付けてないじゃないですか」と毅然と反論した。
2度の不合格をバネに、翌年3回目の挑戦で番組最高得点を出し、本選を通過。’81年11月18日の決戦大会で11社のプラカードが上がり、事務所は研音、レコード会社はワーナー・パイオニアに決まった。ワーナーの邦楽宣伝課の富岡信夫氏(70)がプロモーションに使える材料を探すため、明菜にアンケートを記入してもらうと、「尊敬する人物」に「矢沢永吉さん、桃井かおりさん」と書かれていた
■デビュー直後のコンサートで『帰らないで!』と泣きながら歌っていた
「16歳で2人の名前を挙げるコを初めて見た。新しいカルチャーを作りそうなセンスを感じました」
歌手デビューという夢をつかんだ明菜は、東京・恵比寿にある大本氏の自宅でレッスンを重ねた。
「周囲は『第二の山口百恵』に育てようという雰囲気がありましたが、百恵に似ないように独自の『個声』と『表現』を徹底的に磨きました。明菜には『ア』『オ』の間の声に独特の響きがあった。この特徴を鍛えると、下からすくうようなビブラート、花が咲くような表現ができるようになった。これが、明菜のオリジナリティになりました」
’82年5月1日に『スローモーション』でのデビューが決まったが、メディア露出は難航した。当時、研音もワーナーも大手ではなかった。状況を冷静に分析した富岡氏は、地方のテレビ局やレコード店を地道に回る“演歌作戦”を敢行した。
「札幌や福岡など7大都市をデビュー前に2周しました。仕事があるわけではなく、ただ単に挨拶回りをしました。明菜さんは嫌がらずにやってくれました。『なんとしても売れたい』という気持ちが全身から伝わってきました」
デビュー4日後の5月5日、としまえんの野外ステージで複数のアイドルが出演するコンサートが開催された。明菜の出番になると、雨脚が強まった。観客が去ろうとすると、悲痛な叫びがこだました。
「『帰らないで!』と泣きながら歌っていた姿を見て『たいしたものだ』と感心しました」(大本氏)
いかに数少ないチャンスで人を引きつけるか。明菜にとって、すべてが勝負だった。一方、納得できない仕事には抵抗した。アイドル誌『平凡』で自宅の部屋を紹介する特集があった。出演の意味を理解できない明菜はスタッフ5人を前に、撮影を拒否した。困り果てた編集者から電話を受けた富岡氏が会社から急行すると、明菜は不満顔で「なんでやらなきゃいけないの。矢沢さんは出ないでしょ?」と述べた。富岡氏はこう説得した。
「矢沢さんはメディアに出ない。その代わり、全国の小さな街でライブをして、自分の歌を伝える。君は今、同じやり方をできない。だから、テレビや雑誌を通して自分を伝える。部屋を見た読者が君に興味を持って、歌を聴いてくれるようになる。方法は違うけど、矢沢さんと同じことをしているんだよ」
納得した明菜は満面の笑みでカメラに収まった。
「理由を説明すれば、全力で取り組んでくれる。一つひとつの仕事に妥協しないコでした」(富岡氏)
明菜は2曲目『少女A』で9月16日、『ザ・ベストテン』(TBS系)に初登場。一気にスターダムへ駆け上がっていく。作詞した売野雅勇氏(71)が述懐する。
「実際に歌を聞くと、自分のイメージを超える歌い方をしていた。『少女A』は明菜ちゃんが歌ったから、売れたと思います。彼女は感情の幅が広くて繊細なので、いろんな歌を歌える。アイドルの歴史を塗り替えた歌手で、誰よりもスターの存在感を持つ女性です」
その後、明菜は来生えつこ・たかお姉弟の『セカンド・ラブ』『トワイライト』という聖少女系、売野氏作詞の『禁区』『1/2の神話』というツッパリ系の歌を交互に発売し、ヒットを飛ばしていく。
「ああいう詞を書ける歌手がほかにいなかったから、すごく楽しかった。アルバムのレコーディングで初めて会ったとき、驚くほどきれいでかわいかったですよ。ただ、愛想はよくなかった(笑)。きっと僕の詞があまり好きではなかったのだと思います。でも、嫌な気持ちにはならなかった」(売野氏)
四方八方に笑顔を振りまき、大人の立てた戦略に素直に従う。当時のアイドルは、周囲の作った虚像の世界に置かれていた。だが、明菜は違っていた。川田が回顧する。
「私はその枠から踏み外しちゃいけないと思っていたし、自分の意見は言えなかった。取材で困ったら『よくわかりません』と答えなさいと教わりました。明菜は周りと同化しないタイプで、独特な世界観を持っていましたね」
1,500人以上のタレントを指導してきた大本氏が話す。
「強くて芯のあるコで、レッスン中も自分をごまかさなかった。たくさんのアイドルがいましたけど、“中森明菜”という自分を持っているコは彼女しかいなかった。唯一無二、孤高の存在感があった」
■久しぶりの再会に「泣きながら『先生に会いたかった』と」
人を寄せつけない雰囲気を醸し出す一方、困った人を放っておけない一面も持っていた。『ザ・ベストテン』で’85年から司会を務めた小西博之(62)が振り返る。
「僕が始めて4週目、(司会の)黒柳徹子さんがお休みだったんです。すごいプレッシャーですよ。その日、6位のサザンオールスターズは欠席でした。歌い終わった明菜ちゃんが横に来てくれて『申し訳ございません』と視聴者のために一緒に頭を下げてくれた。本当にうれしかった。ほかの日も、僕が何か間違えるとCM中に『コニタン頑張ってね!』と優しく声をかけてくれた。困ったらすぐ手を差し伸べてくれる下宿先のお姉さんのような存在でした」
多忙を極めるなか、明菜はリハーサルにも必ず顔を出し、わずか3分の歌唱に魂を振り絞った。
「あるとき、控室から『なんで衣装が届いてないの!』と怒る明菜ちゃんの声が漏れてきました。スタッフが言い訳すると、『じゃあなんで前の日に無理って伝えないの?』って。まさにそのとおりですよね。『私は命懸けて歌ってるの。手抜いちゃダメよ!』と聞こえてきて、自分も身が引き締まりました」
’85年に『ミ・アモーレ』、’86年に『DESIRE -情熱-』で2年連続日本レコード大賞を受賞。明菜は名実ともに“歌姫”となった。
だが、人生は過酷だ。’89年には自殺未遂、’90年代には度重なるトラブルに見舞われ、世間を騒がせた。そのころ、大本氏は六本木のバーで深夜に明菜と偶然再会した。
「泣きじゃくりながら抱きついてきたので、しばらく『よしよし』と子供をあやすようにしていました。『元気か?』『先生に会いたかった』と言葉を交わした記憶があります。明菜は、一緒にいた私の家内にも『ママ?』と同じように抱きついて泣きじゃくっていました」
余計な言葉などいらない。大本夫妻はただ明菜を優しく包んだ。よく一緒に食事やカラオケに赴いていた川田が思い返す。
「いつだって、私の知っている明菜の笑顔はデビューのときと同じで純真無垢でした」
■《あんまり幸せだといい歌にならない》
数々の困難に遭った明菜には悲劇のイメージがついた。後年、本人は《中森明菜というキャラクターは、あんまり幸せだといい歌にならない》(『スポーツニッポン』’03年5月1日付)と漏らした。衝撃的な発言にも取れるが、川田と売野氏はこう分析する。
「俯瞰で自分を見られる。これが彼女のすごさなんですよ」(川田)
「普通の人を理解するような感覚で、明菜ちゃんの気持ちを勝手に捉えちゃいけない」(売野氏)
’02年、20周年の明菜は復活を遂げる。カバーアルバムがヒットし、『NHK紅白歌合戦』にも復帰。当時、取材でこう語っていた。
《歌って、思い出を作ってくれるじゃないですか。時間もそうだし、呼吸、空気、香りも…。その歌に、宝箱のように、ある瞬間までをも、皆さん大事にしまっているんですね。その思い出を、絶対に崩さないというのが大前提》(『日刊スポーツ』’02年12月15日付)
’17年から活動休止中の彼女の心境を、川田が推し量る。
「ファンへの感謝が強い人ですし、『万全の状態で表に出たい』という葛藤があるのかもしれない。とことん自分に向き合って妥協しないから……。周りが完璧だと褒めても、自分が納得できなければ満足しなかった。友としては、彼女が本当に歌いたくなるまではそっとしてあげてほしいな」
それでも、「明菜待望論」は根強い。40周年記念の番組やリリースが相次いでいるのはスターの証しだ。歌の師である大本氏は断言する。
「年齢を重ねたからこそ出せる味や歌声がある。それが自然だし、それでいい」
いつになっても構わない。孤高の歌姫が解き放つ今の歌声をファンは待っている。
(取材・文:岡野誠)