「醤」から「味噌汁」へ
例えば戦国時代のことを調べていると、武将たちが「味噌」をとても大切にしていたエピソードなどによく行き当たります。そんな味噌と日本人の関係について辿ってみましょう。
味噌の起源は古代中国の大豆の塩蔵食品の「醤(しょう・ひしお)」であると言われています。実は、この「醤」になる前の熟成途中のものが「未だ醤ならざるもの」として「未醤(みしょう)」とよばれ、「みそ」に呼び名が変わっていきました。
この「醤」として完成する前の、熟成途中の状態のものを食べたところ、とても美味しいということに気付いたのでしょう。これが独立して味噌という商品に発展していったのです。意外にも味噌は、食糧として完成したものではなく、もともと未完成のものだったんですね。
味噌がいつ日本に入ってきたのかは定かではありませんが、大宝律令に「醤」という字が初めて見られるため、平安時代ごろではないかと推測されています。
味噌は、最初は味噌汁ではなくおかずや薬として利用されていたようです。当時としてはとても貴重な食品で、もともと寺院や上流階級に珍重されていたぜいたく品でした。その値段も高級官僚でなければ手が出ないほどで、庶民の口には入ることは滅多にありませんでした。
味噌が「味噌汁」に使われるようになったのは、鎌倉時代からです。中国から「すり鉢」が入ってきて、これで粒味噌をすりつぶしたところ水に溶けやすくなったことから、「味噌汁」が誕生したのです。
味噌汁の普及によって、一汁一菜という鎌倉時代の武士の食生活が確立されました。
味噌は「食糧」で「栄養源」
さて室町時代には大豆の生産量が増え、農民たちも自家製味噌を作るようになりました。こうして、味噌は保存食として庶民の間にも浸透していきます。今に伝わっている味噌料理のほとんどが室町時代に作られたとされています。
戦国時代になると、味噌は武士たちの食糧として重宝されました。
武士は米と味噌を兵糧として携帯します。味噌は単なる調味料というだけではなく、重要なたんぱく源として考えられていたのです。
例えば、伊達政宗は「塩噌蔵」と呼ばれる日本で初めての味噌工場を建設しています。また、武田信玄は遠征などに備えて味噌づくりを推奨していました。戦国武将の出身地に味噌どころが多いのはこういったことが理由になっているんですね。
さらに徳川家康は、具沢山の味噌汁を食べていたとされていますが、彼は平均寿命が40代未満だった時代に75歳と長寿を保ちました。以来、徳川家では代々の将軍も家訓として食膳に味噌汁を欠かさないようにしていたそうです。
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江戸時代になると、味噌はなくてはならないものとして人々の生活に浸透していきます。需要に対して生産が追い付かなくなると、三河や仙台からどんどん味噌が江戸に送られるようになり味噌屋は大変繁盛したそうです。
当時は「医者にお金を払うよりも、味噌屋に払え」とまで言われ、どれだけ味噌が当時の人にとって重要だったかが分かりますね。
このように、味噌は約1300年以上にわたって、日本人の食生活の中ではぐくまれて発展してきました。
今でも、味噌は全国各地のさまざまな地域で気候風土や食習慣・嗜好にあわせて生産され、そして郷土料理の調味料として用いられています。
参考資料
- マルコメ
- みそ蔵 – ハナマルキ
- ひかり味噌株式会社