日本史の時代区分の一つである「古墳時代」。大王家や有力豪族を始めとする人々が、墳墓として大小さまざまな古墳を造営した時代のことを指します。
しかし、古墳時代の始まる時期は弥生時代末期と重なるため、はっきりした年代が定められていません。
そんな古墳時代の始まりのカギを握るのが、今回ご紹介する纏向古墳群(まきむくこふんぐん)の6基の古墳。
前編では、前方後円墳発祥前夜と6基の古墳の墳形についてお話ししましょう。
そもそも古墳ってなに?古墳時代っていつ?
古墳とは、文字通り「古い墳墓」という意味です。ただし、その「古い」に定義があり、一般に、3世紀後半(西暦250~300年)から7世紀末(西暦700年)までに造られた墳墓を指します。
この期間、日本列島各地(北海道・東北北部、南西諸島を除く)に、前方後円墳、円墳、方墳、八角形墳など、さまざまな形の古墳が数多く造営されました。この約400年間の時代が日本史上で古墳時代と呼ばれています。
古墳時代の前の時代は、弥生時代です。その期間は、紀元前10世紀ごろから紀元後3世紀中頃(西暦250年)とされています。
弥生時代も後期(西暦100~250年)になると、各地で有力者を葬ったと考えられる墳丘墓と呼ばれる形態の墳墓が出現します。
その中でも、2世紀後半~3世紀前半(西暦180~210年)に造られた「楯築墳丘墓」(岡山県倉敷市)は、考古学的に大きな注目を集めました。
吉備地方を治めた豪族の大首長を葬ったと考えられるこの墳墓は、直径約40m、高さ約5mの円形の墳丘を主体とし、その前後にそれぞれ20mの突出部(長方形)を持つ、双方中円形墳丘墓という独特の形を持ちます。
楯築墳丘墓の突出部は、神社の参道のような役目を果たしたのではないかといわれ、人々が突出部を通って、主体の墳丘の頂上に登り、そこで亡くなった人のために祭祀を行ったとのではないかと推測されているのです。
楯築墳丘墓からは、特殊器台と特殊壺と呼ばれる土器が発見されました。実は吉備地方特有のこの土器は、箸墓(箸中山)古墳[奈良県桜井市]、西殿塚古墳[奈良県天理市]など、古墳時代前期とみられる大和地方の前方後円墳からも出土しています。
さらに、楯築墳丘墓には御神体として不思議な文様が描かれた孤帯文石が祀られていました。同様な文様の石が纏向遺跡からも出土し、纏向石塚古墳からは孤文が描かれた板材の破片が発掘されました。
このことから、吉備と大和は深い関係があり、楯築墳丘墓が前方後円墳の原型になったのではとの学説があるのです。
さて、読者の皆さんはあることにお気づきではないでしょうか?そうです、墳丘墓である楯築墳丘墓が造られた2世紀後半~3世紀前半と古墳が初めて造られたとされる3世紀後半の間の約半世紀が空白の時代になってしまうのです。
この間、墳丘墓と古墳を繋ぐような墳墓はなかったのでしょうか?その答えとなるのが、今回のメインテーマである「纏向古墳群にある6基の古墳」なのです。
この古墳群は、弥生時代末期の2世紀後半から4世紀後半まで、約200年弱に亘り栄えた都市・纏向遺跡(奈良県桜井市)にあり、纏向型前方後円墳、箸墓(箸中山)型前方後円墳、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方形周溝墓、帆立貝式古墳など、さまざまな墳墓の存在が確認されています。
なかでも、これから紹介する6基の古墳[纏向石塚古墳・纏向矢塚古墳・ホケノ山古墳・纏向勝山古墳・東田大塚古墳・箸墓(箸中山)古墳]は、その編年を3世紀前半~後半と位置付けられます。
これは、弥生墳丘墓から古墳への約半世紀を埋めるとともに、古墳の発祥的な意味を持つ、日本古代史上、大変重要な墳墓であるのです。
纏向古墳群にある6基の古墳のかたち
纏向遺跡内にある古墳は、約200年に亘り、さまざまな形のものが造られました。しかし、これから取り上げる6基の古墳に関しては、その墳形は二通りに絞られます。
●纏向型前方後円墳(別称:纏向型古墳・纏向型墳丘墓)…纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、ホケノ山古墳
●箸墓(箸中山)型前方後円墳…纏向勝山古墳・東田大塚古墳・箸墓(箸中山)古墳
纏向型前方後円墳(別称:纏向型古墳・纏向型墳丘墓)は、後円部に対して、前方部の長さが、後円部の径の1/2と短く、高さも後円部よりも低いという特徴を持ちます。
対して、箸墓(箸中山)型前方後円墳は、後円部に、先端部を撥型に開く長三角形の前方部を付設するという特徴を持ちます。
どちらも大きな意味では、前方後円墳ですが、纏向型前方後円墳(別称:纏向型古墳・纏向型墳丘墓)は、弥生墳丘墓が発展したものとする説もあり、そのため纏向型墳丘墓と呼び、古墳と認めない研究者もいるのです。
くり返しになりますが、編年的には、3世紀前半~3世紀後半の間で、纏向型前方後円墳(纏向型古墳)→箸墓(箸中山)型前方後円墳となります。
しかし、この6基の中で、築造年が判明しているものとしては、纏向石塚古墳(220年頃)、ホケノ山古墳(250年頃)の2基ぐらいで、残りの4基は学者によりそれぞれ約四半世紀~半世紀の隔たりがあるのが現状です。
以下に、6基の古墳の造営推定年代と全長をまとめてみました。
●纏向石塚古墳[全長約93m・220年頃]
●纏向矢塚古墳 [全長約96m ・230~290年頃]
●ホケノ山古墳 [全長約90m ・250年頃]
●纏向勝山古墳 [全長約100m ・250~270年頃]
●東田大塚古墳 [全長約120m ・270~290年頃]
●箸墓(箸中山)古墳 [全長約278m ・250~290年頃]
今後、各古墳の発掘調査が進み、新たな考古学的な発見があれば、確実な編年を確定することができるかもしれません。さらに、纏向遺跡そのものが全体の1割も調査がされていないため、6基の古墳の他にも新たな古墳が発見される可能性は大いにありえるでしょう。
後編では、古墳時代の幕開けと考えられる、纏向古墳群にある6基の古墳が歴史的に及ぼした影響とそれぞれの概要を紹介していきましょう。